2009-07-19

比喩をめぐって【前編】 高柳克弘×さいばら天気

比喩をめぐって
【前編】
全開イナバウアー
 小学生俳句の問題と課題

高柳克弘×さいばら天気



小学生俳句の世界

さいばら天気(以下、さ)●こんにちは。高柳さんは『現代詩手帖』に「句々星屑」という連載をお持ちで、毎回、俳句関連のテーマ・話題で執筆を続けておられます。その第16回(2009年6月号)として掲載された「メタファーの可能性」(註1)について、書き手である高柳さんと読者の私で、ちょっとおしゃべりをしてみたいと思います。よろしくお願いします。

高柳克弘(以下、高)●はい、よろしくお願いします。

さ●まず、記事を要約します。小学校の国語学習でおこなわれてきた俳句の授業ではこれまで、作品鑑賞が中心だった。ところが平成23年度から施行される「新指導要領」で「実作指導」が加えられることになり(註2)、手ごろな教材として俳句が注目されている。実作が義務づけられるという、この変化は大きいですね。

高●はい。大きな変化だと思います。

さ●高柳さんが、そこで問題にされているのが「比喩」の問題です。

八木健『教師のための俳句読本』(2002年)にて例示される小学生の俳句のほとんどが、〈なのはなが月のでんきをつけました〉〈わらびたちソラに向かってグーチョキパー〉といった類の句であることからもわかるように、いわゆるジュニア俳句はおおむねこうしたメタファーから出発する。(高柳克弘・前掲)
なるほど。こうした比喩が良しとされるわけですね。続けてもう少し引きます。
はじめて韻文ということを教えられた低学年の子供たちにとっては、言葉を五七五に収めるだけでも、しばしば重労働なのであり、一概にこうしたメタファーの俗っぽさ、低調さを咎めるわけではない。だが、こうした修辞の稚拙さが、むしろ〝子供らしさ〟の一種として受け止められている状況が、現場でしばしば起こっていることは見過ごせない。凡庸な修辞の凡庸さに気付かせ、そこから言語芸術の難しさと、裏返しの楽しさを伝えていくことは現場の教育者には通用しない、実作者の甘言であろうか。(同)
いえ、「甘言」などではなく、放置してはいけないと私も思います(笑。

さて、以上のような教育現場での比喩の問題から、俳句にとって、望ましい比喩、陳腐・凡庸でない比喩とは何かという問題に、話題が移ります。つまりは「比喩の成功はなかなか困難である」という論旨のもとで例示されているのが、こしのゆみこ第一句集『コイツァンの猫』です。

かいつまんで言えば、比喩が独自であることと創造的であることはイコールではない。『コイツァンの猫』に見られる比喩に、独自性を認め、評価しつつも、必ずしも創造性という成功を収めていないと、高柳さんはおっしゃっています。このあたりの評価部分で、私は違う見解を持っていますが、いずれにせよ、たいへん微妙かつ有意義な指摘だと思います。

先に私のスタンスを説明しておくと、前者の話題=小学校での俳句教育への警鐘の部分に首肯、後者=こしのゆみこ句集については、不同意の部分があるということで、今回、著者の高柳さんとお話しさせていただくということになりました。


尺取虫がイナバウアー

さ●それでは、前半部分、小学校の俳句教育のいう部分から行きましょう。小学校での俳句教育のことを取り上げた、きっかけのようなものがあったんですか?

高●知り合いの教育者の方から相談を受けたのが発端です。その人も、「比喩」のことを問題視していました。先生方とミーティングを数度持ち、現場の見学もしました。

さ●日本俳句教育研究会という組織、教育者と俳人(俳句愛好者)の交流・情報交換を目的にした組織がすでにあるようですが、その絡みでしょうか?

高●いいえ、違います。個人的なつながりから、持ち上がった話でした。

さ●さて、さきほどの俗っぽく低調な比喩ですが、これ、お手本はどこから来ているのでしょう。まっさらな子供のアタマから出てくるものではないでしょう?

高●なぜ比喩の句が多くなるのか、正確にはわかりませんが、俳句というものに、なにかしら先行するイメージがあるようです。

さ●「俳句とはこんなもの」という先入観?

高●はい。例えば「おーいお茶」俳句は子どもたちの間でもわりあいポピュラーで、そこには比喩が多い。あれを見て、花とか動物を何かに譬えれば、それが俳句、という…。だから、尺取虫がイナバウアーしているとか(笑。

さ●陳腐な比喩が良しとされる背景には、教える側の問題が大きいのでしょうか。教師がそうした句を誉めるとか?

高●それもあります。一句のなかにわかりやすい捻りや譬えがあると、「あ、いい発想だね」と誉めてしまうのは理解できます。

さ●そうなってしまうでしょうね。

高●けれども、なにかを比喩ではなく表現して、おもしろいことがある。そこのところを伝えていく必要があると思うんです。

さ●比喩に偏らないように持っていく?

高●尺取虫が反り返っている。それをイナバウアーといわずに表現することもできるんだよ、と…。それを教えていく。

授業は句会の形式が多いので、そのなかでいろんな表現、比喩ではない表現も出てくる。そちらの句も評価してあげる、ということでしょう。イナバイアーにしても発想そのものを否定するわけにはいかないので、「それはそれでいいけれど、こういう句もいいんだよ」と、比喩を用いない句も称揚していく。

さ●なかなか難しそうです。小学校の先生すべてが俳人というわけではありませんし。


膝を打って反応する句

高●比喩の句は、子供同士の選でも、人気を獲得するんですね。子どもたちの選は、どうしてもイナバウアーのほうに行ってしまう。その調整は先生の役割だと思いますが、教える側に、その用意が充分できていないというのが現状のようです。

さ●しかし、考えてみれば、それは、教育現場だけの問題ではないですよね。

高●そうなんです。

さ●比喩は、陳腐・凡庸かそうでないかは別にして、俳句の世界に存在するものです。例えば「見立て」は隠喩です。

高●そのとおりですね。

さ●私たちが参加する句会でも、比喩の句が人気を得ることは多い。うまく言えていると、反応しやすい。聞いて、なるほどと膝を打つように反応する。一読して工夫が目に見えて、わかりやすい句に点数が集まる傾向と似ています。

高●たしかに共通するところがあります。

さ●ただ、結社句会の主宰や、リーダー的存在のいる句会では、その手の高点句を主宰やリーダーが「待った」をかける、評価しないという「歯止め」の機能があります。小学校の授業では、それは無理ですよね。調整機能を先生たちに求めるのは難しい気がします。

高●俳句の価値観を共有していく必要がありますね。もちろん、それを先生たち全員に広げていくというのは不可能に近いのですが、俳人の側からは、それをやっていくしかないわけです。


小学生全員が「創作」?


さ●作句を小学校の授業に取り入れるのが、どうなんだろう?ということがあります。小学校段階での俳句実作は、これまでも先生や各校の判断で取り入れられてきたようなのですが、私の世代というか、私が小学生だったとき、授業に俳句実作なんてなかった。高柳さんは、どうでした?

高●んんと、どうだったか。ありましたね、たしか。

さ●俳句を読むという授業は理解できます。でも、作らせる必要はないと、私などは思ってしまいます。それは中学・高校も同じ。

高●俳句を親しく感じてもらうために、「自分でも作ってみましょう」ということなんでしょうね。

さ●作りたい人間は、授業の外で作ればいい話。

高●私も、授業では俳句を読むだけでいいとは思います。ただ、現実問題として、すでに作句指導は始まってしまっているのですから…。作句が教育に必要かどうかは、また別の議論です。

さ●そうでした(笑。高柳さんのほうがよほど冷静で、現実的です。俳人として、いま出来ることを考えよう、というわけで、この記事の執筆となったのですね。

高●はい、そういうことです。

さ●現実への対処はそれとして、あえて、話してみたいのですが、文芸の創作を学校でやるということについて、私にはかなりの違和感があります。たとえば、全員、短編小説を書いてみましょうという国語の課題にあったとしたら、それは、なんというか、表現が難しいのですが、ちょっと、気持ち悪くないですか。

高●気持ち悪いですね。

さ●読むのはいいんです、もちろん。ところが、書いてみましょう、ということが必要なのかどうか。俳句では、それを小学校から、疑問もなく授業に取り入れているわけですね。

高●俳句は誰にでも親しむことができる大衆文芸、という捉え方があって、そこから来るんでしょうね。

さ●小学生でも中学生でもいいんですが、授業で俳句を読む、そこから「じゃあ自分でも作ってみよう」という子どもが出てくるのはいいんです。そのときは授業の外で作ればいいんじゃないかと思ってしまいます。自発的な欲求は「外」でいい。


「作る」技術論から「読み」の理論へ

高●俳句の場合、自分で作ってみることで理解を深めるという部分はあるかもしれません。

さ●そうですね。一般の俳句愛好者も、はじめ、そのようにして俳句に触れますよね。「とりあえず作ってみなさい」と言われて、俳句に手を染めるようになる。「とりあえず読むところから始めなさい」と言う指導者は聞いたことがない。作り方の指導はあっても、読み方の指導はない。

高●それは、俳句史そのものが、そのようになっているわけで、俳句のいろいろな理論も作る側からの発想です。客観写生にしても造形俳句論にしても、作るための理論です。読むための理論がない。

さ●読むことの軽視が、俳句全般に蔓延している。

高●はい。それはこれからの課題だと思っています。これから構築していかなければならないんじゃないか、と。そうした読むことの理論なり成果、「いかに読むか」という部分が教育現場にフィードバックされていけば、事情が変わってくる。

さ●「読み」が自立できない。「作者離れできない読者」という問題ですね。作るときの事情を考えて読んでしまう。

高●読むときに、作者の言辞を引用して読んでいるところがある。例えば、虚子は「客観写生」と言っているから、虚子の句を読むとき、その枠組みで読んでいる。そこから外に出ない。でも、作者がいくら「客観写生」を標榜しても、句はそうじゃないかもしれない。

さ●写生とはいえない虚子の句はたくさんあります。

高●そういう句についても、「写生が進化すればこうなる」という論法になってしまう。そうではなくて、読むにふさわしい別の枠組みがあるかもしれない。その可能性が奪われるという面があります。作る側の論理だけで読んでいると。

さ●設計図に「客観写生」と書いてあっても、出来上がったものは、そうじゃないかもしれない、と。

高●そうです。俳句を読むには、エッセイや小説を読むのとは違う方法が必要です。別の文法。

さ●読むための理論、なるほどです。

高●それがなければ、俳句を教える先生方も、俳句をどう扱えばいいのかわからないじゃないですか。「とりあえず作ってみましょう」という指導になって当然です。

(つづく)

次週はいよいよ、こしのゆみこ『コイツァンの猫』をめぐって、両者大激突!


(註1)「メタファー」の語の使用について:さいばら天気

当該記事は、タイトルこそ「メタファーの可能性」となっているが、比喩全般を扱うもので、話題はメタファー(隠喩)に限定されない。直喩(シミリー)にも換喩(メトニミー)にも言及が及ぶ。その点の用語に関する齟齬について、著者の高柳克弘氏はすでに承知済みなので、この対話では「比喩」の語を使用することで通した。

余談となるが、ついでなので、ここで喩について整理しておきたい。直喩(のような、のごとく)は判然と区別されるのでいいとして、換喩を隠喩に含めるかどうかについて揺れがある。換喩は、「永田町の動き」といった政治記事の見出しの「永田町」がそれにあたる。隠喩の用例は「権力の犬」「俳句のメッカ」など(蛇足ながらの説明)。換喩と隠喩とは仕組みがまったく違うので別にしたほうがいいと考える。

そこで、高柳氏の記事中に引用された〈なのはなが月のでんきをつけました〉の場合、「菜の花(の黄色)が」と色のイメージを補うと、この部分は、隠喩(メタファー)ではなく換喩。「月のでんき」の「でんき」も同じく換喩。「つけました」の部分は言うまでもなく擬人法。2つの換喩と擬人法が組み合わさり、「喩」的にはなかなか複雑な構造をもっている。何が言いたいのかというと、「喩」的に複雑でも、結果は陳腐なものとなる一例であるということ。

加えて、この「註」の意味合いとして、メタファーという語が(なぜか)広義に、あるいは間違って解され、使用される例が目立つことを指摘しておきたい。「それってメタファーじゃないけど?」ということがよくある。メタファーでないものをメタファーと呼んでしまうことの弊害は明らか。本来、メタファーであるものに用いるべき語がなくなってしまう。

インターネットのどこかで(こんな書き方で御容赦)、「メタファーとは言うのに、なぜ直喩は直喩で、シミリと言わないのか」といった疑問が書いてあった。たしかに。これはきっと、耳に響く音のせいだろう。メタファーというカタカナ語は音として快いのだ。そして「メタ」という語が、みんな好きなのだ。なんだかカッコよく感じるのだろう。メタファーという語が、本来の範疇をはみだして拡張的に使用されるのも、ここに理由があるように思う。


(註2)「新指導要領」における「実作指導」:高柳克弘

第五、第六年の「書くこと」の言語活動例に「経験したこと、想像したことなどを基に、詩や短歌、俳句を作ったり、物語や随筆などを書いたりする言語活動」という文言がある。≫参照

3 comments:

匿名 さんのコメント...

学校教育をしらない人たちが、子どもをしらない人たちが“俳句”という道具を誰がどこでどう使っているかについて論じられているのですか?草野球する子供たちは、まちがいですか?体育の時間に、ルールを簡単にして野球ごっこさせる教師は間違ったことをしているんですか?俳句界のトップ近くにいる方々の、この偏狭さはゆゆしき問題ではないですか????

匿名 さんのコメント...

子どもたちに、草野球や野球ごっこを伝えるのがいいのか、野球を伝えるのがいいのか、という問題ですね。

匿名 さんのコメント...

教師が俳句を教える場合も、当然の前提として一定の知識や見識が必要であり、その知識や見識を元に、生徒の実態に応じて、授業を構成してゆくことになります。掲出の話し合いは、その前提部分に関わる内容であって、その場面では俳句表現に対するある程度のレベルでの真摯な内容になるのは当然ではないかと思います。そもそも、「草野球」や「野球ごっこ」を教える人が、きちんと野球を知っていなければ、おそらくまともな「野球」の授業は成り立たないと思います。どちらを教えるのかという選択の問題ではないことは明らかで、あえていえば仮に「ごっこ」の形式であっても、教えるのは「野球」そのものということになるのではないかと思います。教師が授業を組み立てて行くときには、専門書や教材に関わる研究書などを読み、それを生な形ではなく、授業に生かしていくのは、それが小学生だろうと高校生だろうと、基本的には変わらないことだと思いますし、そのためには専門家や研究者の発言にも耳を傾ける必要があると思います。その発言内容を「偏狭さ」と受け取るのは、受け取り側の見識の相違の問題なのでしょうが、今回の書き込みは問題自体を狭くとらえているような気がします。生徒にやる気をもたらす「楽しい授業」は大切でしょうが、「楽しいだけの授業」の底は、意外と浅いもので、その「授業」以後につながっていかない、というところがあります。そして、その浅さの背景にあるのは、「授業」を支えるバックボーンの薄さ・弱さにあると思われます。