2010-08-01

俳句甲子園と僕 山口優夢

俳句甲子園と僕
山口優夢


これは、俳句甲子園に関する個人的な回顧録である。



もちろん、回顧録など本気で書けば恥ずかしくて人に見せられないシロモノになるに決まっている。どこに出しても恥ずかしくない回顧録など、逆に言えばなんの役にも立たないのだから、そこは恥をしのんで書いてみるというわけだ。なんのために?それはもちろん、自分以外の者のために。

俳句甲子園はかつて僕らのものであり、かつての僕らもまた、(少なくとも部分的には)俳句甲子園のものであった。こういうイベントは、参加者たちの価値観の交差点にならなければ意味がない。そのような意味で、俳句甲子園は、少なくとも僕にとっては、きらめく聖地であった。そして同時に、俳句甲子園は、高校時代にしか本当には味わうことのできない幻のようなものであった。つまり、高校の卒業は同時に俳句甲子園からの脱却であり、僕は今、そういう地点からこの原稿を書いている。

だからこそ僕はこの一文を、夏のマツヤマに捧げよう。あんなに何度も訪れていながら、夏の盛りの時期にしか行ったことのなかったマツヤマ。いつもクマゼミが鳴いていたマツヤマ。そのマツヤマに、今年もまた、期待や恐れやはにかみや、或いは年齢相応のふてぶてしさを伴って集うであろう全国の高校生たちに、この一文を捧げよう。

※俳句甲子園とはどういうものなのか、それは以下のリンクを参照していただきたい。
俳句甲子園公式HP
絵も文字も下手 俳句甲子園2008 佐藤文香 (週刊俳句70号)
2009年俳句甲子園レポート 江渡華子 (週刊俳句121号)


高校1年生(2001年8月・第4回大会)

開成高校初参加の年。この年の構成メンバーは、他のどの年の開成に比べても明らかに異質であった。野球部二人、テニス部一人、フェンシング部一人の四人と、唯一、文化部系だった僕の五人で参加。なんでそういうことになったかと言うと、校内で参加希望者を募り、彼らを俳句に関するテストで篩にかけたところ、こういうメンツが残ったというわけだ。

それにしても、テストで篩にかけなければならないほど参加希望者が多かったのは、開成高校ではもともと俳句が盛んだったから、というわけでは決してない。ただ単に当時は俳句甲子園に参加すると、松山への旅費を実行委員会側で全額負担してくれるために「タダでマツヤマに行ける」という特典があり、それに群がってきたというわけだ(現在では、補助はあるもののタダではない)。別にみんな特にマツヤマに行きたかった、というわけでもなかったろう。どこでもいいから、遠くに行きたかったのだ。僕もまたそのクチだった。

知らない土地に行けば何かが変わる。
知らない人に会えば何かが分かる。
そういうことを純粋に信じていた時代だったのだ。



原稿を書くにあたって、この年に撮った写真を見返してみると、決勝戦の行なわれた三越のアトリウムコートで写した一枚が眼に入った。オレンジや青の色鮮やかな浴衣をまとった少女たち、セーラー服で女装した男子、そして坊主頭の高校生が四五人写っている。浴衣の少女と女装した男子は、北条高校の生徒で、坊主頭が開成生である。北条高校の男子は、別に女装癖があるわけではなく、確かノリでこんな恰好して来ていたのだった。開成の坊主頭は、五月に行なわれる運動会の名残だ。開成というところは、運動会で負けると坊主になる、という、古き良き風習の残る前近代的な学校だったのである。

北条高校とは、一日目に大街道で行なわれた予選ブロックで対戦したのだった。一度対戦すると、勝敗に関係なく仲良くなることは、結構あったように思う。それにしても開成チームでの集合写真が残っている訳でもないのにこんな写真が残っているというのは、男子校の我々にとっては、浴衣姿の彼女たちは単純に眩しかったせいもあったろう。

わがチームは、野球部の丸田とフェンシング部の千崎が弁が立ったため、ビギナーズラックで決勝に駒を進めた。当時は、ちょっと弁の立つやつがいれば、俳句の出来があまり良くなくても勝てることがしばしばあった。正直、どこのチームもそんなに面白い俳句を出していたわけではなかったからだ。その中で突出していたのは、神野紗希・佐藤文香を擁していた松山東チーム。

蛇の行く先に大樹のありにけり 佐藤文香
泉より上がりし踝の白さ 神野紗希

比較のためにわがチームの句を並べると、この完成度の凄まじさが分かる。

お互いにいけ好かぬ仲蛇と僕
倒れこむ泉のふちに君の声


これらの句に対して作者名を「山口優夢」とクレジットするのも、ちょっとはばかられるくらいだ。

決勝戦ではこの松山東に完敗。対戦4句目で勝負が決まったのだが、そこで相手チームから出てきた句が、あの

起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希

だった。

この句に対して、僕は確か、「青葉風過ぎた、というのは気持ち良いけれども、起立礼着席というのはちょっと合ってないのではないか。もっといいフレーズがあったのではないかと思います」などと発言していたのだから、何と言うか、怖いもの知らずもいいところである。いや、怖いもの知らずなのは別に構わないのだが、句のいいところが全然読めていないあたり、ちょっと行く末が危ぶまれる。

この句の手柄はどう見ても「青葉風過ぎた」にあるのではなく、「起立礼着席」というフレーズを俳句の中に引っ張り込んだことにあるだろう。あるいは、「起立礼着席」というフレーズを活かすのに最適な解として「青葉風過ぎた」が出てきたところに手柄がある(実際のこの句の成立過程がどうであれ)と見るのが妥当なのであって、「青葉風過ぎた」は良いけれど「起立礼着席」がダメだ、などと批判するのは、その辺が呑み込めていないのが丸分かりだ。

とにかくそんなふうにしてわがチームは準優勝。決勝戦では見事な完敗を喫したものの、俳句というものを全く知ることなく挑んだわりには、なかなか上々の出来だったと満足して帰ったのだった。さらに、チームの一員だった千崎が

白き月並びて映る海月かな 千崎英生

という句で入選したのも一言加えておく。


高校2年生 (2002年8月・第5回大会)

奇跡の準優勝から一年。

俳句のことなんかすっかり頭になく、僕は手品の練習に、演劇の台本書きに、図書館便りの発行に、恋愛に、と大忙しであった(手品部と演劇部と図書委員会に入っていたので)。校内で、そろそろ俳句甲子園の時期、というアナウンスがあっても、僕は正直行く気は全くなかった。

それは、かつて一緒にマツヤマに行ったやつらの間では、「俺らの中ではユウムが唯一文化部系で文学青年みたいな感じだったのに、いざ出場してみるとあいつが一番使えなかったよな」と噂しているというのがそれとなく伝わってきていたからでもあったし、自分でもそれは感じるところであったので、反論のしようもなかったのだ。思春期の青年にとって、こういうのは一番きつい。それに、マツヤマには去年一度行ったから、もういいや、という気分もあった。

それでも結局行くことにしたのは、引率の佐藤郁良先生の一言であった。俳句甲子園の参加希望者の応募締め切りが近付いたある日、教員室に行くと、まだ参加表明をしていない僕に気を使ってくださったのだろう、佐藤先生が「ゆうむ、俳句甲子園行くだろ?」と声をかけてきたのである。別になんということのない一言だが、それに対して僕は、まさか「去年行った仲間が、おまえは使えないと言っているから、行かない」とも言えず、それ以外では特に断る理由が思いつかなかったので、「はい」と小さく返事したのだった。

この年のメンバーは、去年行った僕と千崎に加え、同学年の酒井、一つ下の学年の熊倉、恩田の5名。熊倉はもともと、僕と千崎と同じ演劇部だった。そしてやっぱり、誰ひとり俳句をやったことのある人間などいなかったのである。



しかしながら、「去年の準優勝校」というレッテルは、マスコミ的にはそれなりに意味があったのだろう。俳句甲子園に行く直前、もう夏休みに入っていた頃だと思うが、NHKが取材のため開成に来た。テレビカメラの前に立つなんて、ごく普通の高校生だった我々にとってはまさに人生初の事態だった。

取材クルーは、まず我々が俳句甲子園に対する準備を行なっている風景を撮影し、次にメンバーがそれぞれ自分の部活動をやっている様子を取材させてほしいと言ってきた。はっきり言って、我々は舞い上がっていた。僕は一生懸命トランプの手品を見せたし、千崎は演劇部の部室で、普段しているのを見たことがない発声練習をして見せた。

さらに、彼らは、我々が神田で俳句に関する本を買っているところを撮らせてほしい、と言ってきた。その本の代金はこちらで支払うから、と言うのだ。俳句甲子園に臨むにあたって、本を古書店街で買って俳句を勉強している、という構図が、実に開成高校の生徒らしいのだ、とでも、NHKは考えていたのだろう。今から思い返すとそのあざとさに顔をしかめそうになってしまうが、当時はなんにも考えていなかったので、そんなんでしたらお安いご用で、とばかりに浮き浮きとスタッフの車に乗り込んで神田へ向かった。

そこで買った本の一つに、『俳句 -四合目からの出発』(著・阿部筲人)があった。なぜこの本を選んだのかよく覚えていないが、あまり本格的な句集は読みづらいし、ちゃちい入門書はNHKの手前選びにくいし、適度に古びていて適度に俳句に触れられそうなものを選んだのだと思う。

この本は、俳句というものを川柳や標語と峻別したうえで、著者の言う「すべての初心者の同じ過誤」を示し、最後に俳句における「具象性」の重要さを蛇笏や誓子の句を引いて説くことによって、初心者でも俳句の山にいきなり四合目あたりから登れるように、ということを企図して書かれたものだということである。「すべての初心者の同じ過誤」とは、たとえば次のようなもの。

農夫は「背を曲げ」農婦は「腰太し」にきまっています。母は必ず「小さし」であり、これはまあいいとしても、どんな老年の作者でも、必ず「妻若し」とやるのは、いささかベタ惚れが強過ぎます。早乙女は必ず「紺絣」を着、どんな洗いざらしでも「紺」は「匂わ」せます。日向ぼっこは必ず老人と孫と猫とが縁側に登場します。犬は出て来ません。

昭和42年に出た本なので、列挙された例がいささか古いようではあるが、要するに語と語が何の疑問もなく通俗的なつながりを示している陳腐な句を挙げ、これではダメだ、もっと写生の眼を利かせよ、と説いているのである。ここに書かれていることはもっともなのであるが、今の自分からすると、一句が陳腐さから抜け出るための方法が「具象性」の追求、すなわち写生のみしか書かれていないところは、やや偏っているように思える。ここでは芭蕉以来の二物衝撃の方法も、金子兜太らの戦後派の表現的達成も無視されているのだ。

もちろん、これは初心者向けに書かれた本であり、初心者はまず写生をすべし、他のことはそのあとだ、と考えている節が見られるので、全く無視していると言うと言い過ぎなのかもしれないが、それにしてもこの本だけではさまざまな俳句を鑑賞する手掛かりとするには乏しいのは確かだ。



しかし、当時の自分は実に素直だったので、完全にこの本に感化され、「やっぱり俳句は写生がしっかりしてなきゃダメだよ」「蛇笏の『くろがねの』の句はサイコーだね」と生意気なことを考えていたのだった(たぶん、大してよく分かっていなかった)。その割にその年の俳句甲子園に自信満々で出していた句が

風船にじゃれつき給うお猫様

だったりするのだから、ちょっと救いようがない。自分の句のどこが写生の眼が効いていると思っていたのか、聞いてみたいくらいのものだ。

今の俳句甲子園は、対戦が始まって初めて相手チームの句が何なのかを知ることができるようなシステムになっているが、当時はどこのチームが作った俳句も、事前に見ることができた。我々は、当然去年完敗した松山東高校をマークし、事前に入念にチェックしていた。その中に、次のような句があった。

夕立の一粒源氏物語

ああ、こんなんダメダメ、だって全然写生できてないじゃん。…と、本当に無邪気に、本気で考えていた自分がいたものだから、これはかなり恐ろしいことだと思う。この句を良いと評価しようがダメと評価しようが、それ自体はどっちであっても別に構わない。しかし、写生できているかどうか、というたった一つの評価軸、しかも、ちょろっと一冊読んでみた本に書いてあっただけで本当には自分のものになっていないような評価軸でもって人の句を評価し、何の疑問も抱いていなかったこと。これは相当に反省すべき点なのではないかと思う。

何の因縁か、我々は予選リーグで、まさにその松山東高校と対戦することになる。しかも、そのときの兼題は「夕立」。一句目で先述の「源氏物語」の句を出してきた相手チームに対し、わがチームの句は、

夕立よ来るんじゃないぞと試合待ち 恩田祐輔

少しもいいところを見せる隙のないまま、一年目以上の完敗を喫した。さらに言えば、ご存知の方も多いかもしれないが、松山東の佐藤文香はこの時の「源氏物語」の句でこの年度の個人最優秀賞を受賞。

我々は松山東に勝てなかったばかりではなく、同じ予選リーグで神奈川の鶴嶺高校にも惨敗を喫し、予選敗退。鶴嶺高校の出した句の一つは、

Aカップ風船二つあててみる 佐藤真貴恵

という、純情な男子高校生だった我々にはいささか議論の俎上に上らせにくい句であった。句の是非はともかくとして、その句との出会い、あるいはその句をつくった作者との出会いは、俳句甲子園における悦びの一つだったと思う。それは、過剰に演出されているとは言え、我々にとって未知の、女子高生という「他者」だったのであり、そのような他者と俳句を介して出会うなんていう経験は、それまで我々の持ったことのないものであった。



予選敗退の後、二日目の決勝戦のときに開成の他のメンバーは道後温泉に行ってきたそうだが、僕だけ誘われてもそれを拒んで決勝戦を観戦していた。その様子から、ゆうむは予選敗退に相当落ち込んでいる、まるでカオナシ(@『千と千尋の神隠し』)が歩いているようではないか、とチーム内では噂されているようだったが、落ち込んでいたと言うよりは、むしろショックだったのだ、と言ってよいだろう。

それまで純真に、俳句の人たちはみんな写生という価値観を念頭に俳句を評価しているものだとばかり思っていたにも関わらず、実際俳句甲子園に来てみると、写生とは全く別の価値観で句が評価されている。なんだろう?それは。俳句とは、一つの価値観で優劣を決めるものではないのか。じゃあみんな、どうやってこれはいい句だ、とか、よくない句だ、とか言っているのか。

その疑問の行方を見届けるために、僕は決勝戦の会場にとどまったのだ。決してカオナシのように落ち込んで温泉にも入れなかった、というわけじゃない。自分を負かした松山東が決勝に残っていたのも、気になっていたことだった。彼らはどこまで行くのだろう。そして、どのように評価されるのだろう。

松山東は、その年は吹田東に敗れて準優勝。決勝で勝敗を決したのは、次の二句の対戦であった。

昆虫採集の小天狗に会ひにけり 田村梨絵 (松山東)
小刻みに震えてしまう心太 池田祐子 (吹田東)

田村の技巧が勝ち過ぎる句に対して、心太の様子を率直に描写し、「しまう」という措辞でどこか作者の心の震えまで思わせる池田の句が勝利を得たのだ。俳句甲子園の対戦というものを、初めて外側から見てみて僕が思ったのは、二つの句が並んだときに、こっちの方が面白いなあ、とか、こっちの方が好きだなあ、とか自分は思っているのであって、こっちの方が写生ができている、だなんてそもそも考えていない、ということだった。借り物の価値観ではなく、まず自分が面白いか面白くないか、ということを考えなければいけないんだ、という、しょうもないくらい当たり前のことに気がつく。自分は何を面白いと思うのか、世の中にはどんな俳句があるのか。もっと知りたい。そして自分も面白い俳句を作りたい。

それは、準優勝した高校一年のときには芽生えなかった感情だった。僕がようやく俳句を始めたのは、高校二年生の夏、である。

予選敗退という結果を、多分僕以上に悔しがっていたのは佐藤先生だったのだろう。彼は、森川大和・神野紗希という往年の俳句甲子園のトップスターを開成に連れてきて、彼らの指導を仰ぐことにした。週に一回は仲間内での句会を行ない、月に一回は森川・神野両氏も参加した句座を設けた。

僕は僕で、マツヤマから帰ってきてすぐ、佐藤文香とメールのやり取りを始めた。一日三句を送り、句評を返してもらっていたのだ。だから、僕が最初に句を見てもらった師匠とも呼ぶべき存在は、佐藤文香その人だったのである。まあ、そのやり取り自体は1か月で終わってしまったが。

俳句甲子園が終わってしばらくしてから、NHKで俳句甲子園の模様が放送された。優勝候補の一角とみなされながらも予選であえなく惨敗した我々は、実にみじめな扱いを受けていた。神田の古書街に行ったシーンは全面的にカットされ、開成の学校紹介とともに、ほんの少し、千崎の発声練習が流されただけだった。

NHKに促されるのではなく、自分の興味で、地元の図書館に行き、俳句の本を漁ってみる。すると、夏も終わろうとしていたある日、『坪内稔典の俳句の授業』という入門書に出会った。ネンテンは、俳句甲子園の審査委員長の一人だ。あのもじゃもじゃ白髪の先生、そんなに偉かったのか、と失礼なことを思いながら手に取ったその本には、金子兜太や藤田湘子、髙柳重信の句が紹介されていた。

彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子

明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな     髙柳重信

俳句ではこういうことをしてはいけない、俳句は写生でなければならない、そういう示し方ではなく、こういうものも俳句なのだ、俳句でこんなこともやれるんだ、そういう認識から出発することこそが、その時の自分に最も必要なものだったのかもしれない。


高校3年生 (2003年8月・第6回大会)

6月か、7月くらいのことだったろうか。ある土曜日、僕は一緒に俳句をやっていた酒井とデニーズに入り、何時間も愚痴をこぼし合った。佐藤先生や森川氏の指導に対する不満がたまっていた。彼らは、二言目には「俳句甲子園で勝つためには…」と言った。俳句や句会というものを楽しむようになっていた僕は、その態度に閉口した。勝つことが大事なんじゃない、やることが大事なんだ、楽しめればそれでいいんだ、と苦り切った顔でうそぶいていた。デニーズのドリンクバーでオレンジジュースをあおった。

マツヤマの空港に着くまで、そんなもやもやした気分が続いた。それが解消されたのは、マツヤマで他の高校の生徒に会って、俳句甲子園の感覚を肌に思いだしてきたときだった。

確かに勝つことは究極的には大事ではない、とも言える。大事なのは、勝とうとすること、なのだ。参加することに意義がある、という文言はたしかに真実だが、「参加」するということには、勝とうとすること、勝ちに行くことも、当然含まれるはずなのである。その認識なしに、ただ楽しめればいいじゃないかという態度で対戦に臨むのは、対戦相手に対して失礼でさえあるだろう。

そんな当たり前のことを再確認することができて、ようやく僕も俳句甲子園というものを心から楽しめるようになった気がした。勝ちにこだわることで、対戦相手と本当に「出会う」ことができた。「出会う」とは、お互いの価値観をぶつけ合うことだ。対戦ではどちらかの価値観が勝ち、どちらかが負けるが、勝っても負けても、相手の言っていたことにも一理あったな、面白い話が聞けたな、そう思える対戦を重ねていった。

女の子らしい感性を発揮していた今治西の浅海美喜、いい人そうな風貌で実は鋭くこちらの弱点を突いてくる安芸南の若狭昭宏、早口でまくしたてる勢いのいい弁論を展開した甲南の伊木勇人、無骨な表情で落ち着いてしゃべる言葉に重い説得力のあった高田の山口淳也。みな、この年に僕たちと戦った強敵だった。参加することが大事、とうそぶいたままだったら、誰にも勝つことはできなかっただろう。俳句甲子園の楽しさを教えてくれたのは、何よりも彼らとの対戦だった。ことここに至って、ようやく佐藤先生や森川氏、神野氏に感謝することができたのだった。子供だったのだ。



決勝では高田高校を破り、優勝を決めた。

南中の火星路傍の花カンナ 熊倉潤

この句が勝って優勝が決まったときの写真が残っている。僕らのチーム5人が一列に並んで座っており、僕は5人の中央に座って一人ガッツポーズをしたまま後ろに倒れこんでいる。僕の左側では千崎と酒井が肩を抱き合って喜んでいる。僕の右側では一つ下の学年の熊倉と恩田がやはり肩を抱き合っている。両サイドでそれぞれ肩を抱き合ってしまうものだから、真ん中の僕だけ出遅れて、一人取り残され、仕方がなく後ろに倒れ込むようにガッツポーズを取ったのだった。そのときのあわてぶりも、今ではほほえましく思いだせる。

その年の個人最優秀賞は、

小鳥来る三億年の地層かな 山口優夢

であった。もじゃもじゃ白髪のネンテン先生が推してくれたとのこと。ありがたや。

決勝で戦った高田高校は、当時全員男子が出ている、全員一年生のチームで、まるで二年前の自分たちのようであった(もちろん、俳句はその頃の自分たちに比べて段違いに彼らの方がうまかったが)。僕は、優勝が決まった際に壇上でコメントを求められて、次のようなことを言ったのを覚えている。「僕はもうこれで俳句甲子園に出場することは二度とないが、君たち(高田高校)はあと2回も俳句甲子園に出ることができる。それはすごくうらやましい」

確かに僕はそう思った。しかし、そのように思いながらも僕は結局俳句甲子園から離れなければならない、と強く考えていた。それは高校生だけのものだから、美しいのだ。いつまでもひきずるべきものではない。

それに、俳句甲子園は俳句の一部ではあっても、俳句の全てではない、ということも、僕の実感としてあった。俳句甲子園は、相手チームに相手の句についての質問を投げかける形式だ。そこから展開されるディベートを通して「鑑賞力」が評価されるのだが、この形式は、結果として「つき過ぎ」とか「季語が動く」とか、そういうふうな「作者」側の言葉で相手の句の弱点を指摘することを意味することになった。質問を受けた側は、自分の句を守るために句のいいところを引き出すような読みを披露する。これは「読者」の側の論理だ。質問する相手チームが「作者」側に立ち、質問された側が「読者」側に立って答えるという、転倒した読みの状況が生れる。

そのような状況下で鑑賞が深まることも、もちろんあるにはあったろう。しかし、「作者」側の言葉によって展開されるのは「鑑賞」と言うより、大方は「添削」に近いものになってしまう。また、自分のチームの句の良さを「読者」の立場で議論し、それを相手に納得させるという行為は、常に恣意性を免れ得ない俳句鑑賞とはどうしても相容れない部分を持ってしまわざるを得ないのだ。相手チームから下手なところを指摘されないような句を出そう、と守りに入ってしまうことだって、そこでは予想される。

つまり、俳句甲子園における鑑賞は、一般的な意味での鑑賞の範疇にはいるものであるものの、あくまでその一部分でしかないのである。極めて重要な一部分であることは間違いないとは思うが。

こんなふうに言語化していたわけではないものの、俳句とは俳句甲子園よりももっと広いものなのではないかという漠然とした思いが、俳句甲子園を終えた自分の中に芽生えていたことは確かだ。

おそらく俳句甲子園で一番難しい問題は、俳句に優劣をつけることの是非ではなく、ディベートを通じて展開される特殊な形式での俳句鑑賞をどのように評価するのか、ということなのだ。単純に鑑賞を行なうのではなく、ディベートという形式を導入したことは、俳句甲子園をエンターテイメントとして成功させた。しかしディベートというのは、あらかじめある一句に対して、批判するか擁護するか、という立場が決められたうえでものを語るということなのであり、鑑賞を真面目にしようとすればするほど、そのような立場と自分とが齟齬をきたしてしまうのは不可避的なことと言える。

だから、俳句甲子園とは、偉大なゲームなのである。それは、俳句批評や俳句鑑賞とは異なる生理で動いている。僕は、俳句甲子園はそれでいいと思っている。素晴らしいエンターテイメントだ。しかし、僕は、俳句甲子園をやりきったから、もっと、俳句そのものをやりたかった。

もしもまた、俳句甲子園に出場することがあったなら、僕は全力で俳句甲子園の生理に従うだろう。そのときには俳句そのものは忘れ去るだろう。僕にとって、俳句甲子園とは、そういう全力でぶつかるべき場所だった。そして、実際には、高校卒業とともにそのような機会は永遠に失われた。



俳句甲子園では、ずいぶん恥をかいてきた。そういうもののうちでも、未だに覚えていて、書いても構わないものの大半は、上に書き尽くした。書けないものもあった。それは僕の胸にしまっておく。

俳句甲子園にしても、その後に触れてきた俳句というものにしても、僕は誰かと出会うということこそが、自分を成長させるものであったと思っている。「出会う」とは自分と異なる価値観に触れることであり、それは、時に恥をかくことでもあるのだ。

俳句甲子園に参加する全ての高校生たちに、この夏、素晴らしい「出会い」がマツヤマにてあることを願っている。


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