2010-11-07

【週刊俳句時評 第17回】八田木枯『鏡騒 関悦史

【週刊俳句時評 第17回】
八田木枯の最新句集『鏡騒』は
この世の縁
(へり)から「デロリ」を現す。
関 悦史


俳句に文学性を求める読者にとっては見逃すわけにはいかない句集が出た。八田木枯の第6句集『鏡騒』がそれで、著者が80代に入ってからの380句を収めている。

ここに見られるのは一庶民の人生という土台に根を下ろした、渋く打ち固めたような反骨と洒脱、洗練が、そのままで何の矛盾もなく、河原枇杷男や眞鍋呉夫にも通じる絢爛たる象徴性を帯びた瑞々しい幻想へ開けているという奇観である。


黒揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒


佳吟があまりに多く、引く句を選ぶのに困る。表題となったこの句、潮騒ならぬ「鏡騒(かがみざゐ)」は著者の造語とあとがきにある。今あげた二つの面のうち、後者の象徴詩的な面を担うのが「揚羽」や「月光」の句群であり、前者の短くはない陋巷の生の実質を代表するのが戦争や父母を詠んだ句群とさしあたりはいえる。その双方に相渉っているのが、死を見据えた老境からの観照と、生死の縁のようなところをうつろい、自身変容を遂げつつある、ある怪しみを帯びた主体である。

死の象徴性を帯びてこの世に介入してくる「揚羽」自体は現代俳句にあって月並みになりかねないモチーフだが、それが抜き差しならない固有の実感を句に重く刻印するのに成功しているのは、ひとえに「鏡騒」の造語が作者の生理を通した世界観・世界感覚の変容を一語で言いとめていることによる。揚羽の通過により鏡面ひいては鏡の奥までもが慄き、水のように波立ち、音を立てる。虚空が受肉した一刹那を現前させ、間然するところがない。ここが句集『鏡騒』のポイントで、実際一巻には至るところに虚空と物体との相互干渉と変容の景が散りばめられている。端的にはまず「空」や「水」のモチーフが多い。


大寒や水はうごいて湯となりぬ
大冬木そらに思想をひろげたる
水あかり障子あかりとむつみ合ふ
蒼穹を疲れさせたるふらここよ
摘草や空はしづかに時を食み
いちまいの春の空なりやや撓る
春よりもわづかおもたきかすていら
水温む雲は高きにありてこそ
夜に入るとき春水の小ぜりあひ
養花天雲呑麺のうはべかな
大月夜かな籜(たけのかは)籜(たけのかは)
風のごときものなり戀も陶枕も
おほぞらがひろくて月を古びさす


「空」「水」「風」「春」といった不定形な広がりが「思想」を持った「大冬木」、「ふらここ」、生の痕跡のような「籜(たけのかは)」、「月」といったものたちの情動を受け止め、干渉しあう実質を持ったものとして現われる。その結果「戀」は風のごとく硬く重く、陶枕のごとく軽く吹き過ぎるという相反する力場を含みつつ私情のレベルを離れて異形の結晶を始め、差し迫った衰亡の予感も「古び」る「月」という古怪な相へと転じられる。これは決して何の迷いもなく空へ解放されるなどといった安穏な寂び方ではない。《存らふは舟より野火を見るごとし》なる句にも、野火の不穏と場を同じくしながら、生死のいずれの側にいるのかわからないような、生の涯における情動と観照との疎隔感がなおのこと不穏さを増強させる寓意的な景が描かれている。《荷風忌のラインダンスのうねりかな》にも、水のごとく波打ちうねる「ラインダンス」の情動性と、それを観るのみの荷風といった相似の関係が見て取れる。そしていずれの句においても「荷風忌」や「舟」が形作る審美的な構図の中に全てが嵌め込まれており、そこから見える離れた「野火」や「ラインダンス」の情動が乾いた寂しさを伝える。

不定形や非実体であるものが物体と対等となる場にあっては、声も音も、色も光も物質そのものに等しい影響力、場合によっては破壊力を場に及ぼす。


寒柝に老人肝を偸まれし
紅梅をいためつけたる夕明り
うぐひすのこゑそののちは日の鬱(ふさぎ)
うぐひすのこゑに障子が痛がりぬ
人ごゑは人にひびけり桃節句
青葉木菟いまはのこゑは誰も噫々
蓮見して下駄を鳴らして歸りけり
流燈の燃えつくすとき水のこゑ
冬ふかし柱が柱よびあふも


「蓮見して」の句の一見ただごとのようにも見える「下駄を鳴らして」が妙に耳につくのも、五感を通る音や光がほとんど生死の境目に重なり合っているようなこの句集の原理に裏打ちされているからだろう。これは自発的に音を出す側に立っている集中珍しい句で、むしろ「下駄」に音を鳴らさせられている、「下駄」が「野火」や「ラインダンス」のうねりと同じように不穏な情動として立ち上がるのをなすがままにさせ傍観しているといった雰囲気もある。ここでは「蓮見」が「荷風忌」や「舟」の役割を果たしている。

最後の句は《冬深し柱の中の濤の音 長谷川櫂》を踏まえているのかもしれないが、柱の垂直性を通して自然に見入っている孤心が際立つ元句とは違い、ここでは柱同士が水平に呼び交わす。非定型の「冬」が物体たる「柱」を賦活してしまった句だが、「一人二人」ではなく「一柱二柱」と数えられる存在とされてしまったもの、即ち戦死者の気配もおのずと重なってくる。

集中、戦争や近代国家に関わるものでは以下のような句が並ぶ。


手毬よく弾み明治の民草よ
戰争が來ぬうち雛を仕舞ひませう
聖戰といふもおろかやかひやぐら
戰争にゆく玉葱を道連れに
國に恩賣りしことあり蠅叩く
國の爲奥齒で噛みし梅干よ
とほのきし昭和の夏や深轍


「雛を仕舞」う、「玉葱を道連れ」、「蠅叩く」等、体験を強いられた人災・愚行に対しては当然といえば当然のことながら諧謔の要素が際立つ。この実の土台が審美・幻想のみへの没入を引きとめ、句集に複雑な対位法を形作らせているのである。《とほのきし昭和の夏や深轍》においても非定型な「とほのきし昭和の夏」と触覚性の強い「深轍」の対比が、単なる図式的寓意からはみ出す重みと圧力感を生みだしている。

実人生に関わるもう一つの重要な要素、父母の句も、この生死の境目を組織していくものとしての五感、中でも特に触覚が生々しく働く。


手ざわりのぶあつき歌留多父の死後
母の額(ぬか)椿落ちなばひび入らむ
母そはの母のまくらの暮春饐え
亡き母が障子あけずに入り来し
亡き母が蒲團を敷いてから歸る


亡母を詠んだ二句では五感に直接突き刺さってくるものは現われない。《亡き母が障子あけずに入り来し》は《春夕べ襖に手かけ母来給ふ 石田波郷》を踏まえたものと思われる。襖にかけた手の感触、襖を開ける音を反射的に想起させる波郷句をバネにすることにより、障子を開けずに入ってくる死者の無音ぶりを鮮明にしているのである。

視覚・聴覚はともかく、触覚に訴える句が際立って多いのもこの句集の特徴だろう。


蝶つまみぬるりとしたる指かな
鶴引きし夜をうづきたる指かな
摑まずに鯉を見入るや春のくれ
落つばき眞新しきを踏みにけり
枇杷熟れて空に硝子を感じをり
最晩年ならむ蜥蜴がざらつきぬ
暑に耐ふる古鏡を磨くごとくにも
施餓鬼棚置かれしものの毳々し
月光はけものなりけり皿を咬む
月光の太く垂れたり奥びはこ
兜羅綿の手ざはりのごと十月過ぐ


《摑まずに鯉を見入るや春のくれ》は「鯉」に対していきなり「摑」むことを考えるのがまず異様。ここでは「鯉」が先ほどの「野火」などと同じ情動の要素を担っていると思われる。

五感が此岸と彼岸のはざまを形成するというこの句集の論理からいえば、触感を生々しく感じるのはむしろ《枇杷熟れて空に硝子を感じをり》《暑に耐ふる古鏡を磨くごとくにも》《月光はけものなりけり皿を咬む》《兜羅綿の手ざはりのごと十月過ぐ》の「空」「暑」「月光」「十月」等、直接触れることの出来ない不定形のものたちであることが自然であり、ほとんど直接に死の象徴を成してしまうために直接触ることが出来る《蝶つまみぬるりとしたる指かな》は例外に属する。というよりも相手が「死」という不定形であるがために直接つまむことが出来たというべきか。「亡き母」が聴覚に訴えることはなくとも「蒲團を敷」くことは出来るというのと同じ原理が通っている。

《施餓鬼棚置かれしものの毳々し》はこの世の縁に置かれた物体がその触覚性を猛々しく発露させた姿であり、《落つばき眞新しきを踏みにけり》の惨たる絢爛さを成す基、「眞新しきを踏」むという直接接触が可能であるのも相手が「落つばき」という「死」であるからに他ならない。ちなみに「兜羅綿」は「とろめん」と読み、綿糸にウサギの毛をまぜて織った織物を指すらしい。

「落つばき」の肉厚な死を捉えたこの触覚性は語り手当人の身にも及ぶ。そして生死のはざまとしての五感によって再構成された肉体は次第に不気味な変容を遂げるのである。


年寄りがどろんとをりぬ春の雁
ろくぐわつのひしほのにほひ存へる
拭ひたる顔に穴あり夏來たる
水施餓鬼うしろすがたの髪おどろ
夜の秋や壺のなかより手がのびて
鶏頭花剪られしばらくして死にぬ
鯰捕身ぶるひをして了りたる
菊はしだれわれに醤のにほひかな


ほとんど魑魅魍魎、百鬼夜行の世界ではないか。《ろくぐわつのひしほのにほひ存へる》《菊はしだれわれに醤のにほひかな》の「ひしほ/醤のにほひ」が、己の命と共に見出されるという換喩的な関係を取り結んでいるのも、単に歳月の積み重ねを生活臭で表しているということだけにとどまらず、敵の首の塩漬けといった怪異な古代性に一脈通じるところが感じられなくもない。《鯰捕身ぶるひをして了りたる》の捕られた鯰の軟体ぶりが鯰捕にまぬがれがたい呪縛として伝染してしまったような姿、《鶏頭花剪られしばらくして死にぬ》の「しばらくして」の戦慄も鮮明ながら、《年寄りがどろんとをりぬ春の雁》の、耕衣的な素材を全く別の何かに組み替えてしまった不気味な存在感は、市井風俗をグロテスクに生々しく描いた浮世絵に対して岸田劉生が奉った造語「デロリ」の美意識を彷彿させる。

そうした妖怪じみた何かへと変容を遂げたものたちが引き出す混沌の相が、スルメほどにも手応えのある「揚羽」の干物のような怪作=快作に成りおおせた作として、とりあえずは他に以下のような句が印象に残った。再読三読の折にはまた別の句群がこの世の縁からわらわらと浮上してくることと思う。


むさし野は男の闇ぞ歌留多翔ぶ
ひとりでにひらくことあり歌留多函
雀の卵偸みたきまでに我は老い
百閒忌斜め貼りする空家札
生くはよししだれざくらの内側よ
春晝は大きな穴や素老人
蠅帳のなかで死にたる蠅ありき
河童忌のさらばへしわが肋かな
少年と老人芒をしりつくす
老人のかたちになつて水洟かむ
淡海とは面妖な國かいつむり



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