2010-11-21

八田木枯句集『鏡騒』を語る 〔後篇〕太田うさぎ×神野紗希

八田木枯句集鏡騒を語る 〔後篇〕
太田うさぎ×神野紗希


承前 〔前篇〕


■位相の異なる「ふたつ」のもの

紗希●木枯さんの句を読んでいて、「ふたつ」ということを思いました。

うさぎ●取り合わせということではなくて?

紗希●はい。取り合わせの二物は、比重が違うと思うんです。そうじゃなくて、同じ重さでふたつのものがある。〈月光が釘ざらざらと吐き出しぬ〉の月光と釘、〈黒揚羽ゆき過ぎしかば鏡騒〉の黒揚羽と鏡。あとは例えば、

鶴よりもましろきものに處方箋

うぐひすのこゑに障子が痛がりぬ

鶴と處方箋。鶯と障子。ほかにもたくさんあって、挙げたらキリがないくらい。ふたつのものをまず選んで、その関係性を言う。どちらに比重を置くでもなく、両方を立てる。それで出来ている句が多い。

うさぎ●そういえば、そう。

紗希●そう思って、『あらくれし日月の鈔』(1995)のあとがきを読んでいたら、山口誓子の語録で木枯さんが大事にしていることがあるというくだりがあって、それは、「物は感性で捉え、物を物の関係は知性で捉えて表現せよ」ということ。この後半の部分がまさにそうだなと思ったんです。〈鶴よりもましろきものに處方箋〉でいえば、鶴と處方箋を見つけ出すのは感性、それを繋ぐ「よりもましろき」という部分に知性が介入する。

うさぎ●でも、出来上がった句に、知性を見せないですよね。素朴で自然というのか。

紗希●私は、ちらっと見せているんだと思うんです。「はからい」は見えるんです。でも、「知」に偏っていないのは、鶴と處方箋という選択の的確さにあるんじゃないかなって。

――その場合、「鶴」という象徴性の豊かなもの、言い換えれば、イメージ喚起力の高いもの、文芸の集積度の高いものを一方に置くという方法。これも重要なところなんでしょうか?

紗希●鶴と處方箋は、位相が違う。そこが大事だと思うんです。段差がある。黒揚羽と鏡も段差を作ってる。月光と釘もそう。

春よりもわづか重たきカステーラ

も、春とカステラは位相が違う。位相の違うふたつのものを、「どう、これ?」と読者に差し出してくれる。一般的な言葉遣いでいえば、並ぶはずがないものを並べて、おもしろい。

――段差ということでいえば、鶴と處方箋の段差の違いで、勢いを生む。ダムの水位の違いのようなものですね。

紗希●鶴は、文学上、やはり「位(くらい)が高い」というとヘンだけど、テクストの集積があって、参照の量が多い。それを處方箋の位相まで引き下げるというおもしろさもある。

うさぎ●私はそんな感じはしなくて、鶴と處方箋に上下の差があるんじゃなくて、同じ重みがあると思う。白という点においてまったく予想のつかない二つのものが結びついて、それぞれが本来のものとは異なるイメージを得ているのが新鮮なんです。

――2方向からイメージが喚起されるということですね。

紗希●この句も、同じように語ることができそうです。

鶴のこゑ繪具をしぼりだすごとく

の鶴と絵の具も、位相が違うふたつ。それが複数の線で繋がっている。まず映像という意味で、鶴の白色と絵の具の赤があざやかですよね。

うさぎ●ああ、赤と思ったんだ?

紗希●きっと別の色でもいいんでしょうけど、声を詠んだ句で、あざやかな映像を持ってくることで、鶴と絵の具を繋ぐ糸が一本増える感じがするんです。チューブなら、歯磨きでもいいんだけど、それだと色が伝わらない。

うさぎ●色彩感は大きいですね、この句の魅力のなかで。

紗希●もちろん、それだけではなくて、絵の具のチューブが銀色で、絞り出すのに、きゅきゅきゅっと鳴って(笑)、最後はシワシワシワっとなって、こう出す!みたいな。押す強さみたいな。

うさぎ●あはは。なるほど。

紗希●で、チューブが冷たかったり。で、なんとか出てくる絵の具の必死感みたいなものが、鶴の声の質感を決めてくれている。それと「こゑ」の「ゑ」の字が、なんかしんどそうでしょ?(笑)。絞った絵の具のかたちというか。

うさぎ●あれは「ゑ」じゃないとダメ。

紗希●そうそう、この人、わかってんなーと(笑)。「ゑ」のかたちも、句を体現してる。

うさぎ●ヴィジュアルにこだわってますよね。それに、「声を絞り出す」とう使い慣れた言い方があって、それを「絵の具」でうっちゃる感じ。

――ふたつの事物が並ぶという点で、それを繋ぐ「はからい」、昔からの用語で言えば「とりはやし」。そこに木枯さんの技があるとも言えますよね。

うさぎ●木枯さん、そこは巧いですよねえ。

紗希●おかあさんの句、

母の額椿落ちなばひび入らむ

も、母の額と椿のふたつがあって、「落ちなばひび入らむ」で繋いでいる。実際に、おかさんの額にひびが入るとは想像しないけど、このおかあさんは、たくましくはない。もろさのようなものを感じさせます。

うさぎ●母恋いなんです。

紗希●椿が落ちてひびが入るという虚のやりとりをしておきながら、椿の木を見上げる母親という実景が伝わることもあって、最終的には、「日本的な美しさをもった母」という一般的なイメージに定着するんですよね。現実の母のイメージをつかみ出すというか。

――この句もポリフォニックですね。いろいろな質感や動きが伝わる。

うさぎ●母の句で、

母戀へば父が峙つ彌生惨

ある種、エディプス・コンプレックス句なんだけど、この「惨」というのがすごいなあと(笑)。

紗希●「鏡騒」と同じで造語なんですか?

うさぎ●木枯さんのオリジナルでしょう。彌生尽はあっても「彌生惨」は見たことがない。


■「老い」が粋でカッコいい

紗希●老いを詠んで、これだけ粋、これだけカッコいいというのは、すごいなと思う。

雀の卵偸みたきまでに我は老い  (編註・偸み=ぬすみ)

なんて、かわいいじゃありませんか(笑。こんなふうな老いなら、いいかも、っていうか。

青葉木菟いまはのこゑは誰も噫々

も、ダサくない。

死なない老人 朝顔のうごき咲

は、すごい好きな句。

うさぎ●老いの句は多いですね。

紗希●老いと食べ物を組み合わせた句も多いんですね。

誉めらるる齢なりけり海蘊吸ふ

生き足らず生きているなり胡瓜もみ

あとは死を残すのみなり冷し瓜

さきほど下五で受け止めるという話でいえば、ただしく出来ている句ですが、木枯さん独特とまでは言えない気がします。

うさぎ●この句集、老いときちんと向き合っているということは、まずありますね。『夜さり』(2004)よりも、「死」が減って、「老い」が増えている気がする。一種の達観ということもできるんだけど、私は、老いの句だと、

老人のかたちになつて水洟かむ

とか、情けない句が好きかなあ。

紗希●でも、それも「かたちになつて」というところが。

うさぎ●自分を引いて見てる感じ?

紗希●そう。

うさぎ●あとは

年寄りがどろんとをりぬ春の雁

ちょっと茶化したというのか。老いの句には、自己戯画化もあるかな。きれいでかっこいい、伊達を張った「老い」の一方の現実を含み笑いで詠んでいるのがいい。

紗希●でも自虐的な感じはない。それが「粋」。

秋風に老はふくらむこともなし

これもおもしろい。「ふくらむ」って何なのかな、と。実体も想像させるし、実体じゃないものにも思いが到る。

うさぎ●多義的に伝わるようになってる。これは「秋風」がすごくいいよねえ。

冬の暮とどまれば我不審物

も好きなんだなあ。これも飄々と老人を詠んでる。

紗希●老いというのは、まだ私の年齢ではわからなくても、例えば木枯さんの句を読んでいて、「あ、老いっていいな」と思えるのは、人間が生きるっていううえで、いいことですよね。あとは、

存らふは舟より野火を見るごとし

ていねいに状況が書かれている。作者の位置や野火の位置。句の主眼は「存らふ」ことで、それについて中下の12音を費やしているんだけど、私にはむしろ、舟から野火を見ている景が見える。

うさぎ●その句、私は、誓子の〈炎天の遠き帆やわがこころの帆〉をなんとなく思い出した。野火が象徴的。

紗希●能村登四郎〈今思へば皆遠火事のごとくなり〉にも近いのかな? そう見ていくと、過去の句を踏まえている句もあるのかもしれませんね。関悦史さんは「週刊俳句」の時評で、〈亡き母が障子あけずに入り来し〉は石田波郷の〈春夕べ襖に手かけ母来給ふ〉を踏まえていると書いています。ご本人が踏まえていらっしゃるかどうかは別にして、

春を待つこころに鳥がゐてうごく

は、河原枇杷男の〈外套やこころの鳥は撃たれしまま〉を思った。味わいは違います。枇杷男の句を知っていると、〈春を待つこころに鳥がゐてうごく〉は、「この鳥は、ああ、生きてる! よかった!」という感じ(笑)。どこかに冬眠の動物のイメージもあるのかな。目覚めというか。

鏡面に微熱の鶴が直ヵにふれ

だと、日野草城の〈高熱の鶴青空に漂へり〉を思い出して、空と鏡の照応も、読むときにイメージとしてプラスされる。

――ある句が、作者の意図とは別に、過去の句を呼び寄せることがあります。

紗希●それは愉しいことなんです。作者が意図する意図せざるにかかわらず、それは、その句が、俳句なり文学がこれまで築いていた世界を裏切らないかたちで、成り立っているということですから…。たくさんのテクストに思いが到るという読みは、句にとっても幸せなことだと思うわけです。

■自分の読みを揺さぶられる句

紗希●ひとつ気になる句があるんです。

寒鯉の頭のなかの機械かな

これ、どう読めばいいのか、わからないのに、おもしろい。映像が浮かぶわけでもない。言葉のおもしろさで読ませるわけでもない。

うさぎ●私もこれは大好きな句なんだけど、何がいいのかなあ。「寒」と「機械」の取り合わせ?

紗希●鯉の動きとか?

うさぎ●寒鯉はまり動かないから、それに機械を持ってきたところ? この句、句会に出てきて、迷わず特選でいただいたんだけど、どこがいい?と訊かれると、説明しきれない。木枯さんも句会で「寒鯉っていうのはねえ、何となくそんな感じがするでしょう?」とおっしゃっていたから、「なんかイイ感じ」でもいいのではないかな、と。

紗希●そうなんです。この句、私がこれまで俳句を読んできた、この読みを揺すぶられるって感じなんです。

うさぎ●どこがいいのか説明すればするほど、この句の魅力から遠のいていきますね。別のときにも「俳句っちゅうのはわからんと困るけれど、あんまりわかりすぎるちゅうのもねえ…ふふ」と愉快げに語られたことがあって。まあ、だから解釈するほうも、丸裸でなくて、そこそこでいいのかもしれません。

紗希●もうひとつお訊きしたい句があって、

寒玉子黄に弐ごころなかりけり

これは? 黄身がふたつある場合があって、そうじゃないよ、と?(笑)。

うさぎ●どうなんだろう。シンプルに黄身がひとつという景が見えますね。「ふたごころ」という言い方が洒落てますよね。もっと違う言い方もできるんだろけど、「ふたごころ」という情感のある言葉を持ってきた。こういう言い回しも独特の使い方で、句の中にうまくハマるのも、木枯さんの特徴じゃないかな。。

月光がゐたたまれずにけしかける

秋のくれさしさはりなく道ありぬ

「ゐたたまれずに」「さしさはりなく」は、イディオムに近いんだけれど、なんか、いいんですよね。

紗希●もうひとつ訊きたい句があって(笑)。

草餅は女系の餅や遣る瀬なき

という句なんですが、「女系の」って、どんな感じに読まれました?

--なにか、勉強熱心で優秀な学生が、新任教師に質問している感じになってきました(笑)。

紗希●自分の読みは自分の範疇からしか出てこないので、人がどう読むか知りたいんです。そうして、句の全体像に迫りたい(笑)。

うさぎ●ひとつは、草餅のやわらかさのようなものを「女系」と言ってみたんじゃないかな。それと、草餅は、昔は、女たちが蓬を摘んできて家で作った。それが代々受け継がれて、というイメージも伝わりますよね。

紗希●じゃあ、「遣る瀬なき」というのは? 男として「やれやれ」? 村上春樹の「やれやれ」みたいな?(笑)。あーあ、ボクの入る隙はないな、という。

うさぎ●あまり、そこまで意味を付けなくてもいいような(笑)。「遣る瀬なき」という言葉自体が春っぽい。

--漢字が使ってありますね。「瀬」で水のイメージが来る。それと、自分が男だということで、軽く流したくらいの捉え方でいいのでは? この流し方はいいですよね。

紗希●うんうん。好きなんですよ。だからどう解釈したらいいのか。

――「遣る瀬なき」とは別の語が来ると、とても女性らしい句になってしまうかもしれません。

うさぎ●そう。男性として、ふわっと逃げた感じ。この句もそうだけど、木枯さんの句って、色気がありますよね。


■「リストランテ木枯」で何を食べるか

うさぎ●さきほど「ふたつ」という話があったんですが、「ひとつ」を読んだ句にも心引かれるんですよねえ。例えば、

春を待つ空の下より空を見て

こういう句が木枯さんのなかでだんだん増えてきたような気がして。

てのひらに春のゆふべをしたたらす

うららけし水は水輪になりたくて

月光の句もいいんだけど、

おほぞらがひろくて月を古びさす

とか、こういう句。解放感のある句。風通しのいい句というのかなあ。誰かが言ってたんだけど、「木枯さんは『鏡騒』でもっと透明になった」。ああ、そうか、透明かと。

紗希●私には、そういう句は「木枯度」が低いというか、他にもけっこうあるような気もしてしまう。『鏡騒』でなくても読めるという感じもしてしまうんです。料理屋さんに行ったときに、そこでしか食べられないものが食べたい。そうすると、木枯さんの句だと、うさぎさんのおっしゃる「ひとつ」タイプの透明な句より、例えば「ふたつ」タイプの句を食べたい。

うさぎ●でも、どの店でも食べられるメニューだけど、木枯さんの店のは格別ということもあって、それを愛してしまう。あるいは、高級料亭でお茶漬けを食べる愉しさ? 「リストランテ木枯」でしか食べられないものがあるのは知っている、けれど、どこでも食べられるものが、やっぱりここは美味しいよね、という。

紗希●もちろん、私もそれはイヤじゃない。それもすごく美味しい。でも、もっと、「あ、これはここでしか食べられない」というもの。しょっちゅう通ってたら、オムライスにも手を出すんだけど。

うさぎ●私も「ザ・木枯」という句は好き。でも、それ以外も、という感じかなあ。

――おふたりは違うものが好きということで反駁しあっているのではなくて、その違いは「木枯体験」の違いから来る差かもしれません。

紗希●そうですね。私は、木枯さんの句の全体に一度で出会った。一気に読んだ。句集を一冊読んで、それから、しばらくして新しい句集が出て、また読んだ、というのではないですから、自分の中に木枯さんの歴史はないわけです。その違いかもしれません。

うさぎ●私も最初に句集を読んだときは、木枯さん独特の句に惹かれて、憧れましたね。

紗希●でも、自分の好みは置いて、木枯さんが他の俳人と違うところはどこか?と考えると、やっぱり「ふたつ」タイプの句になるんです。例えば、

誰の忌ぞ雪の匂ひがしてならぬ

りっぱな句だし、私も大好きで、胸がじいんともするんですが、誰か別の人の路線の上にあるような気がするんです。もちろん、うさぎさんのおっしゃる、全体としての「コガラシズム」もよくわかります。

うさぎ●コガラシズム!(笑)。私たちはコガラシストなわけね(笑)。

――では、おふたりとも、コガラシスト、ハッタマニアということで(笑)、対談を終わりたいと思います。お疲れさまでした。『鏡騒』という最新句集だけでなく、木枯俳句の魅力がよく伝わる対談になったと思います。ありがとうございました。

( 了 )

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※一部、原句の旧漢字を新漢字で表記しています。

(司会進行・記事まとめ:さいばら天気)

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