2011-11-27

〔週刊俳句時評53〕 ひそやかなアクセス――ふたつの“手紙”から 西丘伊吹

〔週刊俳句時評53〕
ひそやかなアクセス――ふたつの“手紙”から

西丘伊吹

よろよろと帰ってきた寒い部屋で、“29日夜、小沢健二がUstream生配信実施”などというニュースを聞き、世代でもないのに思わず「生きてて良かった」と呟いてしまう真夜中である。一体何が配信されるのか、この原稿を書いている時点では分からないけれど、それにしてもミュージシャンの作品の発表方法も随分とヴァラエティ豊かになったものだなぁ、という感慨を抱く。
そしてそれは、俳句においても同じことがいえそうである。今回は、最近刊行された一風変わった発表様式の俳誌について、その内容ではなく、形式に注目して取り上げてみたいと思う。
先日、山田露結氏と宮本佳世乃氏による「彼方からの手紙」が創刊された。これはセブンイレブンのネットプリントを利用した新しい発表媒体である。これを入手したいと思ったら、時間のあるときに近くのセブンイレブンに足を運び、ツイッターなどで周知されている予約番号をセブンイレブンのマルチコピー機に入力すればよい。そこから印刷物として出力されたてきたものが、すなわち「彼方からの手紙」である(第一号の配信は、1115日ですでに終了している)。
書店に並んでいるものを購入するのとも、ウェブで検索して読むのとも一味違うこの読み物。「どこから来たのか分からないが、実体として突然それが目の前に現れる」という感覚はきわめて新しい。出力するとき、嬉しいと同時に不思議なような、なんだかSFチックな気分に包まれた方も多いのではないだろうか。それは、アットホームな色彩及び文面と、しっとりと読ませてくれる両氏の作品が、大型のコピー機から無機質に吐き出されてくるというギャップのためでもある(しかもそこは、都市生活においてはあまりにありふれた場所であるセブンイレブン)。その効果を作り手がどれほど意識されていたかは分からないが、受け取り手として感じる違和感にはほどよく皮肉があり、手作りのあたたかみだけではないという意味でエッヂがきいていて、とても面白かった。

*山田露結氏のブログ:Rocket Garden~露結の庭~
http://yamadarockets.blog81.fc2.com/
手紙といえば、もうひとつ10月に創刊されたのが(文字通り)「手紙」である。生駒大祐、越智友亮、中山奈々の三氏によるもので(2号からは福田若之が加入)、週刊俳句に載せられていた創刊の告知(http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/10/blog-post_08.html)によれば、「原稿を自分たちで印刷し、手で製本」した「手作りの雑誌」であることを「基本的なコンセプト」としているという。(創刊時の告知には「発刊者一人当たり十部限定」で、渡したい人へ「直接お届け」にあがるという条件も加わっていたが、「詩客」20111125日の山田耕司氏の時評(http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_haiku/2011-11-25-4139.html)[=以後「詩客」]によると、先日発刊されたばかりの第二通からは「手渡し」及び「限定部数」という条件は取り外されたとのことである。)
この「手紙」について扱うときに多少ややこしいのが、誰がこの「手紙」を受け取り、誰が受け取っていないのかというのが周囲には今ひとつ分からないという点である。むしろこの難点は、創刊時にさいばら天気氏がブログ「俳句的日常」2011109日の記事(http://tenki00.exblog.jp/14719917/)で指摘なさっている通り、特定の誰かに送るという宣言を不特定多数に向けて行った、という告知方法に起因するものだろう。誰に送った、というのが何処かで一覧などになっていれば分かりやすいが、そういうわけではない。ご希望の方はお送りします、と「手紙」のツイッターアカウント(@letter819)に書かれているが、他人に宛てて送られた手紙を覗き見るようで、その気になれない方もいるのではないだろうか。本来手紙というものがもつ「個人的」という特性を考えれば、なぜ「第二通の刊行と同時に」「第一通の電子版」を「みなさま」へ公開する必要があるのかもはっきりしない。(ただ、「そのようにした」ということは、きっと当初は何らかの理由があったはずで、このことについては後述したいと思う。)
とはいえ、「詩客」でも「手紙」第二通のあとがきが紹介されているが、今がこの「手紙」のありかたを模索しているちょうど試行錯誤の時期のようである。「俳句への愛、その俳句を詠んでくれた人への愛。それらを言葉に起こし、手作りの雑誌としてまとめる。それが、僕たちなりの愛のかたちです。」という創刊時の言葉はたのもしく、今後「手紙」の(内容は勿論)発刊形式がどのように具体的に「愛」を表現していくのか、とても楽しみに思う。
ところで、ふたつの“手紙”を並べてみて興味深く思うことがある。両方とも物質的に手に取れる“手紙”であるのは当然そうであるが、それだけではない。両者とも、読者がテキストに「アクセス」するまでに、意図的にワンクッションが置かれているということである。
「彼方からの手紙」は、もちろんネットプリントを使ったセルフサービスの出力ということに雑誌の最大の特徴がある(テキストを配布したいだけなら、単純に希望者にPDFで送っても良いわけである)。読む人には自分の足で出掛けていってもらい、何十円かを払ってもらい、予約番号を入力してもらい、印刷してもらう。予約番号は、すなわち「パスワード」である。そこに演出されているのは、いってみれば「手間」と「ひそやかさ」であろう。
一方の「手紙」は、その逆である。つまり、発刊者の側が「手間」と「ひそやかさ」とを請け負う。「手作り」で、また(二号目からは違うが)「手渡し」で、という手間。渡したい人にだけ、というひそやかさ(このひそやかさは勿論、「手紙」の受け取り手と共有される)。思うに、「手紙」の発刊者が不特定多数へとその発刊を告知したのは、妙な言い方ではあるが、自分たちがこれから行うことのひそやかさを強調したかったからではないだろうか(これは執筆者の想像にすぎないことをくれぐれも注記して)。
インターネットが発達して(というとこれ以上紋切り型の言葉もないと思うけれど)、作品なり評論なりをウェブ上で発表して誰かに見てもらうことはとても容易になった。一方で、その手軽さと敷居の低さ(ほとんど敷居の「無さ」)にはやはり戸惑いを覚えてしまう。だって、あまりにもすぐに、多くの人に見てもらえてしまうのだ(実際には当然、限定的な数の人にしか見てもらえないが、ウェブ上で公開されている状態がインターネットをやっている誰にでも見てもらえる可能性を有するという意味で)。このような状況にあって、見てもらう、というところまでに何かもう一段階加えたい、という感覚はとてもよく分かる。また、読者の立場としても、読む、というところまでにもう一段階欲しいという欲求をどこかで抱いてしまうようにも思う。
おそらく、これから先に生まれてくる俳誌は、ネット上に作品や評論を発表することに伴う「物足りなさ」を、何らかのかたちで補完するように工夫を施したものとなってくるのだろう。
ふたつの“手紙”はそのような意味で、テキストへアクセスするまでのもうワンクッション――例えば「手間」と「ひそやかさ」を、好対照に演出してくれているのではないだろうか。

0 comments: