2012-03-25

シンポジウム「俳句にとって「写生」とは」をめぐって 四ッ谷 龍

シンポジウム「俳句にとって「写生」とは」をめぐって


四ッ谷 龍


先号掲載のシンポジウム記録、「俳句にとって「写生」とは」は、俳句が俳句として成立する根源に関わる問題を扱った、刺激的な記事であった。

内容には、共感するところ、敷衍してみたいところ、違和感を感じるところがそれぞれあった。違和感といっても不快というのではなく、新しい思考へこちらを誘うような、充実した読みの体験だった。

先号の内容について、私なりの感想批評を述べてみようと思う。批評の対象とするのは、主に竹中宏氏と彌榮浩樹氏の言説である。内容は〔1〕が共感と敷衍の部分、〔2〕が違和と批判の部分である。批判といっても、否定するのが目的ではなく、提示された課題をさらに発展させようと考える次第である。


〔1〕

竹中氏は「写生は、俳句が俳句になる境目のところで、何が起こっているか、境目のところで起こっている何を重視するのがいいのか、ということに関わる論題になってくると思います」(「写生の「中味」」)と問題提起している。

俳句はなぜ俳句なのか、俳句はどのようにして俳句になるのか、そこに関わるのが「写生」の問題だと言うのである。

竹中氏のアプローチは面白いのだが、写生という小をもって俳句という大を説明するわけだから、わかる人にはわかるがわからない人にはわかりにくいといった体の論述であることも否定できない。竹中氏のそもそもの写生観に得心しなければ、その先の俳句の問題に進めないのである。だからここでは私は逆に、「俳句性とは何か」を先に考え、そのような「俳句性」から導かれる写生の概念はどのようなものかというように、ごく普通の順番に置き換えて竹中論考を解きほぐしてみたい。



俳句ならではの特性、つまり俳句性とは何か。(「俳句とは何か」ではない、「俳句性」である。俳句とは何かを論理的に説明できるのなら、われわれには俳句を作る理由がなくなる)これを考えるためには、日本文学の枠の中だけで思いをめぐらせず、西洋の詩歌と日本の俳句はどのように違うかを見るとわかりやすい。

現代俳句協会青年部の2011年7月18日勉強会 では「俳句と翻訳」という問題がテーマとなった。日本語の俳句はどのように翻訳され、そこにはどんな問題があるかを話し合った討論会であった。参加者の中に、俳句を翻訳することに否定的な人がいて、俳句は別の言語に置き換えることが不可能であり、翻訳には意味が無いということを言った。さらに、「古池や蛙飛びこむ水の音」を例に挙げ、この「古池」という語の背後には巨大な宇宙がある、それを外国語で表現することは不可能だ、と主張した。

それに対して、私は次のように反論した。西洋の近代詩は、「わが愛する人よ」とか「おお地獄よ憂鬱よ」というような個人の強い思いの継起的表現から出発している。そんな彼らが「古池に蛙がポチャン」とか、「大根の葉がサッサと流れていく」とかの表現を見せられて、「これが日本の詩だ」と言われると、えッ、そんなものが詩なの、と驚いてしまったのだ。その驚きが西洋詩に(とくにダダイスムに)大きな影響を与えてきた。もちろん、一句を正確に外国語に置き換えることは不可能だけれども、日本には西洋とは全然違う詩がありますよと翻訳で示唆してみせることには、世界文学的に見て十分重要な意味がある、と。

モノだけゴロリと提示するような詩は、西洋の概念にはなかった。そこに俳句の独自性がある。それなのに俳句をわざわざ、「古池の背後には巨大な宇宙がある」などと思想的に解釈するのは、西洋的な詩の定義に俳句を押し込めようとする悪しき読みだと言えるだろう。

ここから、「俳句性とは何か」という問いへの答えが透けて見えてくるのではないだろうか。それは、「継続的に発生する個人の情念が作品に抜け落ちている」ということである。(俳句には情念が必要ないとまで言うのは言いすぎである。俳句にも情念は必要だ。継続的説明的に情念を展開することが抜けているのが俳句性と見るべきである。)

俳句と似たような芸術は他にもないだろうかと考えてみよう。華道とか、茶道など、伝統的な芸術ジャンルには、俳句と共通する部分があるが、現代を例に考えると「具体」と呼ばれた前衛芸術グループの作品などには、明らかに俳句と共通するところがある。管球や電球をつなぎ合わせた服を作って、それを着て踊る「電気服」(田中敦子)、木枠に張った何枚もの紙を前進しながら突き破っていくパフォーマンス(村上三郎)などが有名である。これらの作品には、情念も思想も精神もない。ただ、「モノや行為がゴロリ」とあるだけなのである。そのゴロリが世界の美術界を驚かせた。

「継続的に発生する個人の情念が作品から抜け落ちていて」「モノがゴロリとある感覚」を、私は「俳句性」と考える。これは今「具体」を例に挙げたとおり、俳句だけの問題ではなく、さまざまな分野で発揮されうる感覚なのである。

こうやって見ていくと、今私が述べた「俳句性」と、竹中宏氏が言う「写生」は非常に近いといういことがわかっていただけると思う。
「写生派は、俳句の外とされる部分をとらえて、放さないようにしようとする」
「写生派の俳人は、そういうところで、価値的に上下関係をつけていない。何が来ても、俗な言い方をすれば、句材にしてしまう」
「写生は、根本的な態度として、俳人の創作活動を方向付けていく最初のきっかけなのではないか、と思います」
「写生というのは、けっきょく俳句プロパーの問題とは言い難いものです。有季定型は、俳句プロパーの問題です。(略)でも、写生っていうのは、そういうものとは質が違う」(「写生の「中味」)
竹中氏は、ゴロッとあるモノを手放さず摑んでいくのが写生派の態度であり、それは俳句以外の分野でも成立しうることだと考えている。

「(四ッ谷が言うところの)俳句性」に準拠して俳句を作ることを氏のように「写生」と呼ぶのは、いささか問題があると言うべきかもしれない。非写実的な、形式論理を破壊したような俳句であっても、「俳句性」に準拠することは可能なのだ。波多野爽波は、中村草田男の「金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り」を写生句だと言っていたほどで、写生派の人は「写生」をことばの原義を超えて拡張的に使いすぎてきた。

この点について竹中氏は、
写生派の俳人たちが、自分たちの写生体験、あるいは写生という営みをどう説明してきたか、というと、それらはほとんど役に立たない。虚子俳話の言葉の表面だけとって引用しても、非常に浅薄な理解に終ってしまう。彼らは自分の中で起こっていることを、つまり句作の体験の突端で起こっていることを、批評的な言語として出してみせる、ということをやっていない。
それは、彼らの責任というよりは、あの時代は自分たちの体験を語ろうとすれば、ああいう語り方になってしまう時代だった。明治時代に西洋の画論から吸収された理論の枠組に、とりあえず従って語ることしかできなかった。
と掬い取っている。私もこの指摘はそのとおりだと思う。彼らには「写生」以外のことばが思いつかなかった、あるいは大衆に向かって平易に語ろうと思えばこういう言いかたしかなかった。

私自身は写生に代わり「俳句性」という語を立てて考えているので、自分が批評を書く際には「写生」という語を俳句の中心に置いて考察することはないだろう。技術上の意味で「写生」という用語を表面的に使うことは、ままあると思うが。(「この句における写生的な描きかたは...」などというように)

(つづく)

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