2012-04-29

朝の爽波 13 小川春休


小川春休





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以前「乗り過ごしそうで怖い」と書いた電車、さっそく本当に乗り過ごしました。寝てもいないのに三駅も。アナウンスの滑舌があまり良くなかったとは言え、見事な乗り過ごしっぷりに自分で自分に驚いた。とにかく平静を装って最寄の駅で下車し、おもむろに逆路線のホームに並びました。悪い予感は口に出さない方が良いのかもなぁ、と少々迷信めいたことなどを思いながら。

さて、まだ読み始めたばかりの第二句集『湯呑』、引き続き第Ⅰ章(昭和29年から34年)から。〈夜の湖の暗きを流れ桐一葉〉について、「琵琶湖の広さを思い浮かべます。湖北、堅田、志賀、と瀬田へ出るまでの空間と時間を。」とのご感想をいただきましたが、これがまさにご名答。昭和31年10月に、虚子を堅田に迎えての稽古会が催され、この句はその際の句なのだそうです。

夜の湖の暗きを流れ桐一葉   『湯呑』(以下同)

例えば川の流れは、上流から下流へ、その方向は定まっている。しかし湖の水の流れは、これと定まった方向を持たずゆらゆらと流れる。秋の訪れとともに落ち始める桐の葉は、その大きさゆえに、夜の闇の中でもそれと分かり、流れゆく水の行方をも教えてくれる。

ポストに手さし入れ冬至の日が低し

この動作、気軽に葉書を投函するような様子ではなく、何か大事な封書をしっかり投函している様子が見える。苦心の原稿でも入っていたのか、その封書に捉われていた心が、投函した瞬間に、ふっと解放される。そのとき初めて気付く、冬至の日の低さだ。

渦潮へものを投げたる掌のひらき

音がすれば音の方、何かが飛べば飛ぶ方へ、反射的に目が動く。それが人間の生理でもあるが、写生はその範疇を超えた所をも描き出す。投げられた物でも渦潮でもなく、掌の、物を投げた後の放心したかのような広がりに焦点を合わせ、独自の景を現出させている。

七月や山羊の目遠き水上へ

七月は盛夏の頃。山羊が放されているこの野は、さまざまな草が生い出でた高原だろうか。そして遥か遠くには泉か湖か、静かな水辺も見えている。「山羊の目」を景の中心として、鮮やかに大景を描き出している。その手際、選ばれた言葉の的確さが際立っている。

酔ひ戻り夜の鶏頭にぶつつかる

かなり酔っ払っての帰宅、何かが足にぶつかる。よく見れば闇に紛れた鶏頭ではないか。ユーモラスな椿事だが、自分ちの庭の鶏頭に気づかぬとは、かなり本格的な酔っ払いである。上五の「酔ひ戻り」が、その人の状態、動作から場面までも描き出して鮮やか。

凍鶴に立ちて出世の胸算用

凍ったように動かず、片脚で立ち続ける凍鶴、こうして体力と体温の消耗を防ぐ。それに対峙する一人の人間、こちらも寒さに耐えながら、心中では出世への野望を巡らしている。出世欲という世俗的な生々しい感情を肯定しながらも、軽妙ささえ感じさせる一句としている。

葉桜の頃の電車は突つ走る

桜の季節が終わり、青々とした若葉の季節。葉桜の緑が、生き生きと目に飛び込んでくる。電車の実際のスピード云々よりも心理的な印象に基づいた表現だが、断言によって句に強靭さが生まれ、確固とした印象を残す。毎年五月頃になると、ふっと心に浮かぶ句。



今の街に引越して来てはや一年、最近通勤ルートが変わったことで、私の「テリトリー」が徐々に広がってきました。以前から知っていた生どら焼きや串団子の旨い店に加えて、小鰯の刺身の旨い店、素材の良さを感じさせるケーキ屋も開拓、気になる蕎麦屋とお好み焼き屋もある。一月から爽波の句を鑑賞し続けてはや三ヶ月、句作の方でもこんな感じに目に見えて「テリトリー」が広がってくれればいいんですけど、ねぇ。

さて、第二句集『湯呑』は引き続き第Ⅰ章(昭和29年から34年)から。〈夕方の顔が爽やか吉野の子〉は昭和33年9月、四誌連合会の主催で催された吉野山鍛錬俳句会に出席した際の句。この頃の爽波はなかなかに血気盛んで、ホトトギスの若手に喝を入れるつもりの発言がホトトギス自体への批判と受け取られ、一悶着あったようです。尖ってますね。

妻ときて風の螢の迅きばかり  『湯呑』(以下同)

蛍というとゆらゆらと飛び交う姿を思うが、掲句では強風に乗って目の前をさーっと、明滅する光の線を成して過ぎてゆく。もっとゆったりとした気持ちで蛍を見たいが、これでは闇に走る光の線を追うので精一杯…。下五の字余りが余韻を残す、浪漫を感じる句。

夕方の顔が爽やか吉野の子

例えば吉野という地の句を成すときに、そこに住む者と旅人とでは、自ずと視点が異なる。掲句の場合は明らかに旅人としての視点。その弾みのある言葉からは、長旅を続けて夕刻に辿り着いた吉野で、最初にこの子に出会ったような、そんな感興の新鮮さを感じる。

犬くぐり入る受験子の燈の籬

受験シーズンは二・三月、春先のまだ寒さの残る時期のこと。殊更に「受験子の燈の籬」と言うのは、深夜まで灯をともしているのが、その家にとって珍しいことであるのによる。籬をくぐり入る犬の表情も、主人一家の異変を察知して、そわそわと落ち着かない。

受験期や夜は直ぐなる幹ばかり

受験シーズンの二・三月、日中はあたたかになったとは言え、まだ夜は寒く、花も緑も少ない時期。受験勉強で夜を更かす窓を漏れる、かすかな光。その光に照らし出されるのは、直立する幹ばかり。木々にも受験生にも、本格的な春の到来はもうすぐそこだ。

人駈けて真昼の芥子の土ひびく

一読、自然な言葉の連なりのようでもあるが、かなり凝縮された表現の句である。よく乾いた土、土の響きとその背景となる真昼の静けさ、そして土を響かせるばかりの「人」の不思議なまでの存在感の無さ…。実景であると同時に抽象でもあるような、そんな作品。

留守の家や鳴く葭切と釜の飯

静まり返った留守宅を、ほしいままに響き渡る葭切の声。そこに釜の飯が突如現れる。いや、ずっと存在していたのだろうが、句中の言葉の並びとしては「突如現れる」としか言いようがない。葭切の声にびくともせず、留守宅の主のような存在感を放っている。

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