2012-04-15

俳句の自然 子規への遡行01 橋本直

俳句の自然 子規への遡行01

橋本 直             

初出『若竹』2011年2月号

子規の自然

子規のことを書いた虚子の文に子規の言葉として以下のような一節がある。
余は人間は嫌いだ、余の好きなのは天然だ。余は小説家にはならぬ。余は詩人になる。(高濱虚子「子規居士と余」四)
人は嫌いだが自然は好き。だから俳句を詠むのだ。という気分ならば、今でも結構普遍性のあるものではないだろうか。ここで正岡子規の言ったという「天然」は、いまなら「自然」と使われるのが普通であろう。では子規は、なぜ人間が嫌いで自然が好きだ、などと思わず漏らしてしまったのだろうか。

単純に自然を志向するという一点において見るなら、遡って芭蕉の「造化随順」、後年の虚子の「花鳥諷詠」、さらには昨今の金子兜太のいう「アニミズム」等まで、同じ枠に括れそうである。

俳句から離れ一般化してみると、昨今の地球温暖化に伴うエコロジーブームでの諸現象や、失われた魂の故郷を求める人々(例えば離郷した団塊の世代)に田園で暮らすことをメディアが煽る風潮にいたるまで、一つの心性の網目が日本の文化を貫いてきていると言えるかもしれない。もちろん詳細に見れば、実際は複雑多様なものだろうが、このゆるやかな網目こそが「発句」と「俳句」を下支えしてきたものであるようにも思われる。

さらにその根源を考えるとき、一つには、江戸以前からの漢籍、詩歌からの文学的回路との接続があるだろう。いわゆる老荘思想の実践者や、陶淵明のように官職を棄てて浮世を厭い田園自然に親しんだ漢詩人は枚挙にいとまがない。隠遁生活または、仙人願望とでもいうべきもの。あるいは、西行や芭蕉のような、世捨て人のように自然に分け入り、漂泊の中に暮らす生き様もあった。

しかし、果たしてこれらは先の子規の叫びと、同じなのだろうか。

虚子の文の引用部分は、正確には「人間よりは花鳥風月がすき也」(明治25年5月28日 碧梧桐宛子規書簡)や「僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス」(同年5月4日 高浜虚子宛子規書簡)などをもとに、虚子なりに解釈・要約した文言であり、だから勘違いはできないが、そのころ正岡子規の抱えていた問題は、以下のようである。

当時の帝国大学で選ばれし者の責務として学問を全うすることは命がけの過酷な道でもあり、肺病と学問のストレスで疲れ果てていた子規は、一種の鬱病とおぼしき状況(子規自身は「脳病」と呼んでいた)になっていた。そこで気分転換して試験勉強するために出向いたはずの田園風景の中では、ついつい句作することにこの上ない喜びを見出してしまう。
何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道などをぶらり\/と歩行いて居ると其愉快さはまたとはない(中略)試験だから俳句をやめて準備にとりかゝらうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山出来る(『墨汁一滴』)
結局帝国大学を退学することになる子規は、当初小説家として世に出ることを志し、満を持して執筆した作品「月の都」を、同い歳にして既に小説家として世評の高かった幸田露伴に読んでもらったものの、芳しくない評価を受けて出版を断念してしまう。そのとき、思わず先のように手紙に書いてよこしたと虚子は書いた。

これより後の子規が「写生」による叙景の詩として俳句を近代化せしめたことは周知の通りであり、引用部分はその一節だけをみるとまるで人生に挫折して人間嫌いとなったのが原因で自然詩人になったようであるが、子規が「写生」を提唱するのはもちろん人間嫌いのためではない。

実際の子規は寂しがり屋で人間が大好きだったし、多少のまねごとはしたものの、実際に本気で隠遁することも漂泊することもなかった。

なにより、子規個人は開化後の新しい文明世界の中で、古典的趣味世界を愛しつつ、それとは一旦断裂をすることで俳諧の発句に新しい美を構成しうる技法として見出したのが俳句の「写生」だったのであり、子規の内面中「写生」提唱の前後に惹かれる自然の内実がころっと変容したとは思われない。

ではなぜ子規は私信の中で先のような書き方を選んだのであろう。単なる気分の問題では、ない気もするのだ。語った子規と読んだ虚子の差異のようなもの。

近代以降の俳句は、自然を如何に観、扱ってきたのだろう。

逆に言うなら、日本人が惹かれる「自然」の正体とは、なんなのだろう。

そもそもなぜこのような素朴な問いをいま立てているのかというと、昨今の環境問題を視野に、俳句に自然を詠む人=自然を愛する人=自然破壊をしない思想をもちうる人、というような図式を文章化したものを散見することがあって、この百年の文明文化の所行を省みない気分のお気楽さ加減にショックを受けたからである。

何かが決定的に間違っている。子規と私はちょうど百歳違う。子規以来の百数十年、俳句の詠んできた自然はどのようなものであったのかあらためて溯り、いま我々の詠もうとしている自然とは何であるのか考えてみたい。そのスタートとして、これよりしばし子規へと遡行して行きたいと思う。
               

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