2012-04-15

〔俳コレの一句〕南十二国の一句 村田 篠

〔俳コレの一句〕南十二国の一句
鏡の見える場所……村田 篠


鏡みな現在映す日の盛   南十二国

鏡というのは、基本的に怖いものだと思っている。そもそも「映る」ということが怖い。なにより、自分自身の目では見ることのできない「自分」を、まんまと映してしまうことが怖い。

だから、鏡の俳句は、なにかしら仄かな怖さをまとっている。「実」ではない「虚」を覗く怖さ、自分で自分を見ることの怖さ、日常気にもかけていないものが映りこんでしまう怖さ。数え上げればきりがない。

私の中の、そうした鏡のイメージをさらりと払拭してくれたのが、掲句だ。それは何より、鏡の映すものが「現在」だと言い切っていることに由来する。けれどもこの句は、決して一般論めいたフレーズに季語を取り合わせているわけではない。「日の盛」という季語が、その生理に訴える力が、強く作者の存在を感じさせてくる。そこには、囚われることなくしずかに鏡を見ている作者がいるのである。

が、この「現在」ということばは、実際のところ、具体的には読者になにも見せてくれない。さらに言えば、それは何であってもよいのかもしれない。鏡の中にあるのは「時間」だけだ。ある暑い夏の日の昼下がり、そのなかの一瞬である「現在」が鏡によって切りとられている。この句が見せてくれるのは、そういう光景だ。

鏡と、鏡を見る自分と、鏡の外の世界。少し後ずさってこの光景を見ると、鏡が、その映し出す世界よりはるかに大きな時間の中に置かれていることに気づく。いや、昔から、いつだってそうだった。ただ、時間の流れを俯瞰できる場所がどこにあるかを知っていて、そこから鏡を見たことがあるかどうか、ということだけだ。

作者はたぶん、その場所を知っているのである。


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