2012-05-13

朝の爽波 15 小川春休


小川春休





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先日、「童子」の如月真菜さん、音羽紅子さんのお二人によって「虚子の実(み)」というホームページが作られておりました。まだ出来たばかりですが、これから虚子について鑑賞など充実していく予定のようです(しかしなぜ「実」なんだろう。「パイの実」という有名な菓子にあやかった…?)。特定の作家の作品を継続的に鑑賞していく記事・企画という意味では、週刊俳句では、野口裕さんの「林田紀音夫全句集拾読」がおなじみ。詩客の「戦後俳句を読む」も性格としては少し近い、かな。岩淵喜代子さんの「原石鼎」ブログでは岩淵さんや様々な書き手が石鼎の句を読み解いています。spicaの西村麒麟さんの記事も結構特定の作家をまとめて読んだりされてますね(京童おもしろかったよ京童)。こういう鑑賞が全部データベース的に整理されて、「新・増殖する俳句歳時記」みたいに検索とかできるようになってると便利なのになぁ、とか、誰か論作ともに実力のある作家が中村草田男をぐいぐい読み解いてくれないかなぁ、などと無責任なことを最近思っています。あ、もちろん私は爽波の鑑賞、たんたんとがんばりますよ、たんたんと。

さて、第二句集『湯呑』は引き続き第Ⅱ章(昭和35年から48年)から。鑑賞では採り上げませんでしたが、この時期の句に〈サルビアの散つて同床異夢なりし〉という句があり、その前書が「四誌連合会解散」となっています。四誌連合会はその名のとおり「年輪」「菜殻火」「山火」「青」という四つの俳誌からなる会で、連合会賞や鍛錬句会などを開催し、爽波にとっては様々な作家と知り合う機会ともなったようですが、この句からすると、労多くして…、という思いもあったんでしょうね。

後頭は昏さの極み冬星見る  『湯呑』(以下同)

冬の夜空、雲も少なく、見渡す限り星が散らばっている。星々を明るく感じるほど星がよく見える夜だったのであろう。明るい星空を見上げる自身の後頭部こそが、星の光の届かぬ最も暗い場所であるとは、自らの身体をもってアンテナたることに徹した空間把握だ。

芹の水照るに用心忘れた鶏

水田、野川などの湿地に群生する芹。降り注ぐ日差しと、芹の水の照り返す光とで、目を開いていられないほど。時刻は昼に近い頃であろうか。いつもはそこらを警戒して歩き回っている鶏も、この日差しと照り返しの眩しさに、用心を忘れた様子で佇むばかりだ。

春没日マウンドの高み踏みて帰る

「踏み帰る」ではなく「踏みて帰る」であることから、ただ単にマウンドを通っただけではなく、少しはそこに立ち止まっただろうこと、マウンドに何か思い入れのある人物の感慨が窺われる。字余り、特に助詞「て」の生み出す、句の世界の奥行きを感じる。

梅雨長し折箱に箸も添ひ漂ふ

降り続く長雨にひたひたと水嵩を増す、濠を思う。川の流れや、寄せては返す海の波は、見る者に時間の流れを思わせるが、濠の水にはそうした動きがない。捨てられた折箱と箸とは、捨てられたときのままのような姿で漂い続ける、時間が止まったかのように。

秋立つ海砲塁跡で水着に替へ

砲塁とは、大砲を取り付けた小要塞のこと。昭和30年代後半の句であるが、まだ浜辺などには先の戦争の遺物が残されていたのであろう。季節は立秋、海水浴客は少なくなってくる頃。人気の少ない海を思う様泳ごうとしているのか、広々とした寂しさを感じる。

猫走り去りてしぐるる捨椀あり

この時雨、いつ降り出したのであろうか。降り出した後に猫が去ったのか、それとも猫の去った後か。その、いつ降り出したかはっきりせぬ所が、時雨らしくもある。猫の動と捨て椀の静、さ行音とら行音の織り成す流れるようなリズムを味わって読みたい。

秋彼岸てのひら出して羽毛享く

よく晴れて、風も少ない秋の彼岸。そこに降ってきた羽毛の白が眩しい。ふと手を出してそれを受け止める人、何故そのようなことをしたのだろう、恐らく本人にも特に理由などなく、気づいたら掌を出していたのではあるまいか。不思議な明るさを湛えた句。

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