2012-05-20

俳句の自然 子規への遡行03 橋本直

俳句の自然 子規への遡行03

橋本 直           

初出『若竹』2011年4月号
(但し加筆・改稿がある)
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明治二十二年七月一日、東海道線の鉄道(新橋・神戸間)が全通した。この頃まで、東京から松山への移動には、まず新橋から横浜までを汽車で移動し、横浜から神戸まで客船に乗り、さらに神戸から松山行きの客船に乗り継いで、船中だけでも二泊三日は要すという、今から見ればずいぶん長旅であった。年譜に拠れば、子規は明治十六年の上京以来、この二十二年の夏までに二度程帰省し、この船便で東京と松山を行き来している。

以下余談である。今から見ればかなり違和感のある話だが、明治二十七年十月発行の『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社発行)には、旅の護身用に、という宣伝文句でピストルの広告が出ている。今で言えば旅行ガイドや時刻表の広告欄にピストルの広告が載っているようなものだろう。当時は銃の携帯は許可制で認められていたということは分かっていたのだが、多少調べた範囲では、当局の政策方針やら管理取締については資料があったものの、一般庶民の短銃携帯の実態はつかめなかった(違法を含めれば今でもそうだが)。分かった範囲で簡単には所持できそうもない印象をもっていたのだが、このような広告に出くわし意外で驚いた。

なぜこういうことを書いているのかというと、いずれ触れることになろうが、子規の従弟の藤野古白が明治二十八年にピストル自殺しているからである。以前から精神に持病を抱えていた彼がなぜピストルを入手できるのだろうか、という疑問があり、読んだ限りで当局の資料から詰めていった調査研究資料からの印象と、この古本に出ていた広告のお気楽さとの落差はどうにも妙だ。どこかに間隙があるのだろう。

さて本題にもどる。正確に言えば、先の時点でまだ子規は子規ではない。この二十二年の五月に喀血していた正岡常規は、ホトトギスが鳴いて血を吐くという故事に因ってそれ以後〈子規〉の号を用いることになるからである。喀血後の子規は療養に努め、小康を得て学年試験をすませた後、同郷で二歳下の友人勝田主計(しょうだ・かずえ)(後に大蔵官僚・内閣参議)に付き添われ、東海道線に乗って帰省している。全通してわずか二日後の七月三日のことである。

小康を得ていたとはいえ、病身の長旅である。汽車であれば船とは違って陸路を行く分、途中で体調が悪くなったとき最寄り駅で下車が可能であるし、途次休み休み帰ることもできるから安心だという判断があっただろう。が、子規の性格から思うに、好奇心から乗りたい気持ちも強かったのではないだろうか。静岡と岐阜で一泊して、三日かけて神戸に着き、そこから船で松山に帰っている。

子規はこの年の冬も汽車で帰省しており、子規の句帳『寒山落木』明治二十二年作の句のうち、詞書からこの汽車の旅の作と思われる句が三つ確認できる。

  氣車にて
 夕立の下かけぬけし美濃路哉(『寒山落木』明治二二年・抹消句)

  袋井
 冬枯れの中に家居や村一つ (同 明治二二年)

  垂井
 雪のある山も見えけり上り坂(同 明治二二年)

「冬枯れ」句の袋井は静岡、「雪のある」句の垂井は岐阜で、両県は先ほど書いたとおり、夏の帰省の折に子規が宿泊したところである。静岡と岐阜の何処で泊まったのかは未詳であるし、冬はどうしたか不明なのだが、宿泊した場所の近辺ゆえ詞書を付けて句にしたのかもしれない。

その袋井は東海道五十三次のちょうど真ん中にあたる宿場である。子規の、というより、明治初期の文化の感覚の中では、東海道といえばまだまだ江戸以来の十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の東海道であり、北斎や広重の描いた五十三次の風景のイメージであったろう。一方の垂井は、東海道ではなく中山道である。開通当時は現在の東海道線が走っていない区間に線路が引かれていて、垂井は難所の一つで非常に急勾配の地点があったという。子規はその急勾配が印象に残って一句にしたと思われる。

ところで、一番初めの地名ではなく「氣車にて」と詞書のある「夕立の」の句は、子規によって抹消句とされている。夕立自体はありふれたものだろうが、詞書が汽車そのものであることや、「かけぬけし」という躍動感ある表現を選んでいるところなど考えると、当時の最新最速の移動手段である汽車があっという間に夕立の下を駆け抜けるスピード感をテーマに詠もうとしたと思われる。そして、おそらくは東海道線が中山道を走るという新しさ、あるいはそれまでの歴史的連想からすれば意外な事態、つまり「東海道」の意味内容の変容が、子規に夕立の降る場として「美濃路」という下五の措辞を選ばせたのではないだろうか。

この東海道線の全通以後、東海道は名古屋から鉄道は美濃路へ、街道は伊勢路へと南北に別れた。これは言わば江戸と明治の文明の分かれ道である。そして、鉄道の通らない東海道の先には江戸の歴史的連想が待っている。例えば広重の「東海道五十三次之内 庄野」はその中にある。「夕立の下かけぬけし」という表現は、詞書がなければ、雨にうたれ駆けている人物の姿を連想する方がずっと〈自然〉な読みであるだろう。それはまさに広重の「庄野」の情景にぴったりなのである。

子規が新しさに感動して詠んだはずの句は、詞書がなければまるで新味のない風景になってしまう。おそらく最初の読者たる子規自身がそれに気がついて抹消句としたのだろう。この時、子規がありのままを詠んだはずの新しさへの、彼自身(かつその時代)の読みの倫理は、新時代の言葉の意味内容の変容には遅れていたといえはしまいか。


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