2012-06-24

俳句の自然 子規への遡行04 橋本直 

俳句の自然 子規への遡行04

橋本 直           

初出『若竹』2011年5月号
(但し加筆・改稿がある)
≫承前 01 02 03

前回、子規の習作期の俳句において、近代における新しい事象をそのまま描写したからといって、必ずしも読者が新しみを実感できる表現となっていないことについて述べた。それは、時代時代の読者が自然に受容しうる読み方、いわば読みの枠(倫理)に左右されることになるのだろう。

今回も引き続き、子規の汽車の句を例に考えてみたいと思う。「汽車」の語を詠み込んだ子規の句は、明治二四年から残っていて約九〇あるが、本稿は初期に論点を絞り、二六年までの一九句から抄出し検討したい。

  汽車路や百里余りを稲の花(『寒山落木』明治二四年)

  汽車道にそふて咲けりけしの花 (同二五年)

  汽車道に掘り残されて花野哉  (同前)

「汽車道(路)」は線路のこと。一句目の「百里」は、リアルな描写というより漢籍的、あるいは主観的把握としての長さとみるべきだろう。前回書いた明治二二年の抹消句と違って、いずれもスタティックで汽車のスピードがもたらす新しさは読めない。子規は、はるかに続く線路という新しさに目をとめ、沿線の風景と取り合わせている。線路は景として比較的新しかっただろうし、風景絵画的で浪漫性をもたらす句であるが、「道」のもつイメージと重複する点では新しみは弱い。子規は「汽車道」で二〇句近く詠んでいるが、総じて地味な印象の句となっている。他方、汽車のだす音との取り合わせの句がある。

  鶯の遠のいてなく汽車の音
(初出明治二五年三月一日付五百木瓢亭宛書簡。
『寒山落木』抹消句)

  その辺にうぐひす居らず汽車の音 (同前)

  時鳥上野をもとる(戻る)汽車の音 (同前)

  鶯やこの山もまた汽車の音
(「時事十章」『新聞日本』明治二六年二月一八日)

 菜の花や奥州通ふ汽車の笛
(「寒山落木」明治二六年 ※抹消句)

 あつき夜や汽車の響きの遠曇り (同前)

これらは、根岸の自宅や上野界隈で聞こえた汽車の音と折々耳目に触れた景の取り合わせである。そのうち、引っ越しの挨拶である瓢亭宛の書簡中の二句は作句の動機がはっきりしているので興味深い。引っ越し先である根岸界隈が鶯の名所とされていることをふまえ、越す前の想像句「鶯の隣にほそきいほりかな」とは違って鶯はおらず、「新宅へ越して見れば汽車は一時間に一度位の地震をゆり出して額を落し頭を鳴したるもあさまし」という状況をふまえて先の一句目を書き、さらに「最少し皮肉的に実際的にいへば」とあって二句目を書いている。

今風に言えば前者が場への挨拶句で、後者が事実の写生句というところだろうが、この頃の子規はまだ俳句革新の旗手などではなく、事実と趣向とを知で構成して句作していることが文面からよくわかる。だからこそ新居を隠者のわび住まい風に「ほそきいほり」と詠め、「皮肉的」(意味)と「実際的」(写実)が句に併存できるのであり、またこの趣向が、俳諧の詠み/読み方の枠を越えないのはいうまでもない。

後に啄木の歌の上野駅や蒸気機関車にはノスタルジックな風情が付与されるが、この時、子規にとってそのようなものはない。そしてこの一連の「鶯」句の作り方は、文明の利器である汽車の音を江戸以来の場のもつ風趣と調和しないものとしてとらえてはいるものの、その旧時代のもつ風趣への懐古的な愛情も感じらない。子規の態度はどちらに対しても微妙に乾いている。それは子規の若さからであろうか。

  御殿場に鹿の驚く夜汽車哉 (「寒山落木」明治二十五年)

この句は60を超える鹿の題詠中の一句で、嘱目ではなかろう。汽車の音は風景や自然物とあまりなじまないものとして浮かびあがるが、事実の説明程度にとどまり和歌以来の「鹿」に含まれる抒情を壊すことへの積極性は特に感じられない。

その他の「時鳥」「菜の花」「あつき夜」の風景や音源に距離感がある句にはそういう所がない。もしかすると、当時「脳病」を抱えていた子規にとって汽車の音が不愉快であったため、結果的に文明による自然や人間の疎外を感じ取れるような詠みぶりになったのかもしれない。それにしても、汽車の音によって疎外される江戸以来の趣向という記号を抱えた「鶯」に、この時の子規自身の詠みと読みの態度が垣間見えるという点は興味深い。

  汽車見る見る山を上るや青嵐
(「はてしらずの記」明治二五年)

  汽車の窓折々うつる紅葉哉
(「第六四回文科大学遠足会の記」同二六年)

  穂薄の顔かく汽車の小窓哉 (「寒山落木」抹消句。同年)

  凩に汽車かけり行く別れ哉 (同前)

これら動く汽車とそれに伴う出来事を描写した句は、走る汽車のもつスピードを無難に句にとりこみ得ているように感じられる。特に最後の「凩」句は、子規自身は抹消句にしているが、映画的に汽車と自然物とを融合し得てはいないだろうか。「寒山落木」によれば、抹消を含め明治二四年の作句数は四四一句だったものが、二五年から一気に飛躍し二五三三句、二六年は四六三四句に達する。子規はこのころから本気で句作をはじめており、それに比例して作句の質も上がるのである。

0 comments: