2012-06-10

【週俳5月の俳句を読む】上田信治

【週俳5月の俳句を読む】
ある種の信用

上田信治


見上げては塔の存在柿若葉 沼田真知栖

〈塔の存在(する)〉の「する」が省略された形である、と思えれば話はかんたんなのだけれど、何回読んでも〈見上げては塔の存在〉は〈見上げては塔の存在〉であって、この人は、見上げるたびに〈塔の存在〉に絶句し、〈塔の存在〉という動かしがたさ、それ自体に吸い取られるように、この世から消えてしまう。あとは、柿若葉の照り散らかす光線があるばかり。

そして見上げるのを止めるたび、この人はこの世に帰ってきます。

夏服の胸ポケットにペン斜め 沼田真知栖
冷麦のガラスの器地味すぎる

〈ペン斜め〉〈地味すぎる〉とこの世に書き残した人は、それだけ書いて名を名乗らなかった。しかしこの人は、そう書いたまま、ポケットのペンのようにこの世に斜めにつっささっているようでもある。冷麦の器と心を通わせ続けているようでもあります。

この人は、この世とのつきあい方のようなものについて、書いているのかもしれません。

≫spica



くらがりに雉のおさまるお昼どき 佐藤文香

〈お昼どき〉などという信用のならない時間帯に、おさまっているという〈雉〉も、はなはだ信用ならない。となると〈くらがり〉も、どれだけ、現実と連携の取れている「それ」なのだかどうか。

ただ、〈くらがり〉〈雉〉〈お昼どき〉の組み合わさりが、なんとなく邪魔をしてはいけなそうで、居心地が良さそうではある。その三者の関係は信じられるのではないか。なにかデコイじみたような雉だから、よけい。

梅林に香のなき雨のあがりぎは 佐藤文香
春深しみどりの池に木は倒れ
蜆舟きのふの我を積んで戻る

〈梅林〉も〈みどりの池〉も、もちろん〈蜆舟〉も、現実のそれと連携が取れているような、いないような、なのだけれど。

万の梅の木を映す雨粒が天にあがっていくその際々(きわきわ)の瞬間、梅の香を水の香が圧倒するのだということも、あるいは、木の倒れているみどりの池というジオラマじみたワンショットに、ざっくりと晩春を感じてほしいという趣向も、現実とは別のある種の信用を確立している。

その信用は、ただレトリックのみによって成立している。

〈きのふの我〉に関しては、わー、そんなん積んで帰ってきてどうするん!? という困惑であろうか。出迎えるのは今日の我で、では、蜆漁師はいつのなんの我なのだろう。

この作者には、この種の不意打ちのようなユーモアがある。



海面に佇ちつばくらめ仰ぐ兵 竹岡一郎
戦ける巨きな鼓膜凪の中
まちづくり虹放つ肉まづ敷かれ
参道にサルビヤ濡るる産科かな

153句からなる大作。まずは、連作として全体を読まれるべき作品だろうかと思います。

ここに現れる少年少女、軍国主義、エログロ等々のモチーフからは、唐十郎、横尾忠則、花輪和一などによる、1970年代のいわゆるアングラ作品を連想せざるを得ない。もともと歪んだノスタルジーをテーマにした作品へのノスタルジー、あるいは再構成が、アイロニーとして(あるいは素で)成立しうるかどうか。「ガロ」と言えば高信太郎だった自分には、判断しにくいところです。

けっきょく、上のようなあまりアングラでない句に引かれました。はるかに陸を離れて海上をゆく燕を、故郷の土に立っている時のように見上げる兵。無風の中、巨大な鼓膜は震えて何を聞くのか。虹の根元の財宝とは肉であったのか。参道に産科があるというナンセンス。etc.etc.


第264号
竹岡一郎 比良坂變 153句 ≫読む
第265号
佐藤文香 雉と花烏賊 10句 ≫読む
第266号
沼田真知栖 存在 10句 ≫読む


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