2012-06-17

【週俳5月の俳句を読む】村越 敦

【週俳5月の俳句を読む】
So what?

村越 敦


春深しみどりの池に木は倒れ 佐藤文香


なんのことはない光景である。春であることにもはや倦んでしまうような午後のぬるい空気感。その只中にある池は緑色に濁り、水面近くを漂うだけの鯉はもはや生きているのか、死んでいるのかすらわからない。そんな池には朽ちてしまった木がまるでさ緑の水面に突き刺さるかのように倒れこんでいる。作者は池のほとりにひとり佇んでいる。いや、ひとりではないかもしれない。それに佇んでいるわけでもなくて、無造作に置かれたベンチに座ってホットドックを頬張っているのかもしれないし、読み古した文庫本をただ目で追っているだけかもしれない。

この句で描かれているのは本当にありふれた景色で、ありふれた内容以上のことは一切語られていない。しかし、それで十分である。物事は、続きを尋ねたくなるくらいが丁度よいのだから。


寝台車夏の冷たい人の手が 佐藤文香


途上国を鉄道で旅すると、その効きすぎた冷房に辟易させられることがしばしばある。気休めに毛布が置かれていたりするものの、たいてい等級の低い寝台車のそれはあまりきれいなものではないし、それでも仕方がないので寒さをしのぐためにそいつを頭まですっぽり被って眠ろうにも、肝心のベッドが硬くて眠れやしない。仕方がないので日本からもってきた文庫本でも読もうと試みるも、隣のコンパートメントからは酒盛りだかなんだか知らないが絶えず楽しそうな声が聞こえてきて気が散るばかり、気がつけば窓の外はうっすら白み始めているし、ふと二段ベッドの下を覗いてみると寝ていたはずのおばあさんがいつの間にか起きていて、持参したのであろう果物をペーパーナイフで剥いていたりする。

そんな寝台車で共に旅を続けている人(異性でも、同性でも構わない、と読んだ)の手にたまたま、触れることがあった。その手は過剰とも思える冷房のせいで冷え切っていて、おもわずハッとさせられる。
レールの継ぎ目を車輪が通り過ぎる規則正しい音と、ファンが回る重低音だけが空間を支配する中で触れてしまった手の冷たさは、未完成の黙の中である種の罪悪感を伴うものですらある。




最近、何のために俳句を書くのかということを考えされられる機会が何度かあった。肝心なのは、なぜ(Why)俳句を書くのかということではなく、何のために(For what)、という点である。ある人は生きるために書くのだというし、ある人は賞を受ける名誉のために書くという。

しかし、この問いを立てるという行為そのものに意味があるのだろうか。
考えれば考えるほど、だからなんだ、という気がしてならない。


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竹岡一郎 比良坂變 153句 ≫読む
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