2012-06-10

【週俳5月の俳句を読む】藤幹子

【週俳5月の俳句を読む】
竹岡一郎「比良坂變」を読む

藤 幹子


それは息をもつかせぬ神話だった。

数多なる忌を継ぎ重ね秘めはじめ   竹岡一郎
狐火にのしかかる骨灰の俺

なぜか戦いの続く世界の中で,あまたの死と超常的なものが交わり生まれおちた少年=ヒルコ。

少年が冱てし少女を抱き起す

彼が凍土に見つけずっと行動を共にする少女=ヒルメ。

少年の氷柱に少女赫へり
少年が少女の臍に霰置く
少年の髪を少女が梳く焼野

彼らが睦合い交わり合うほどに,戦いは花火のようにますます絢爛に巨大に輝く。

帝国の回路へ感染する鬼火
うららかに町を咀嚼する機械
鋼鉄の蛹を割つて超てふてふ
弾も石も尽き掃蕩の肉つぶて

彼らは何の謂であろうか。ヒルコとヒルメという名前は,日本書紀にあるイザナギ・イザナミの子らに見られる。神になれず放逐された子(蛭子)と,太陽女神として崇められる子(日る女は天照大神の呼び名と言われる)と,対象的な2人の名だ。特に

陽は臨界を業として海女照らす

とある事からしても,少女の名が陽の女神のものであることは間違いないのだろう。けれど名は兄妹のそれでいて,彼らは無邪気に,また奔放に戯れ,性を交わす。

彼らを取り巻く世界はどうだろう。先の大戦を思わせる描写が散見されるが,何を敵としているのかもわからない,革命を,帝国を,とあるけれども,実態は朧だ。黄泉の国と現世をつなぐという比良坂が常にこの世界に向けて開いており,生者と死者が境もなく戦い続ける。屍が累々と増えるなか,何事かが少女=陽の神の逆鱗に触れたのか。

少女怒れば少年の朧なる
陽は臨界を業として海女照らす
あめふらし愛づるに突如融解す
滴れるウラン生者への一揆
チェレンコフ光に涼める元帥達

核兵器,あるいは原子力に依る何らかの被害を暗示する句が現れ,世界は一転,ものみな敗者に変わり,少年は少女を連れて逃避行を始める(原子力は少女が発現したという事なのだろうか)。

やがて戦った者たちは英霊と祀られ,

軍票を焚き迎火を保ちけり
英霊へ栗飯の香の立ちにけり
薬莢に翅生えて鳴く汀かな

戦いもまた過去のものとなった。それに呼応するように,天照の少女は天へ,つまりは銀河のかなたへ去っていく。

鹿に乗り少女還るは触の夜
少年が少女へ銀河起こしけり
少年ヒルコ少女ヒルメの花野明く

少女のために銀河をもひらいた少年は,一人異形として残される。彼の頭上へ背後へ,流星群がいつまでも降り注いでいる。



…何という事だろう,鑑賞を行うつもりが,結局「私が考えたかっこいい比良坂變の物語」を書いてしまっているではないか(実をいうともっと書いていた)。その種の読み解きは,本当はそれほど重要なものではない事が分かっていたにもかかわらず,である。

「比良坂變」を読みながら思い出したのはマックス・エルンストの『百頭女』だった。短いキャプションの添えられたコラージュ作品が連なって小説を(小説,らしきものを)成す,コラージュロマンと呼ばれる一書である。彼はこの本以外に数冊のコラージュ小説をものしているが,いずれもコラージュの材料には大衆版画,作者も明記されない大衆向け雑誌や本の図版,当時あるいはそれより少し前の通俗小説の挿絵――誰もがどこかで見たことのあるような,細密ではあるが個性を排除した銅版画を使い,知っているはずの風景や事物を思いもよらぬ悪夢のような光景に,あるいは幻想郷のような風景に仕立て上げている。

小説(ロマン)と銘打たれてはいるが,面白いのはそれらコラージュ作品一つ一つ,キャプション一つ一つが,順に並べられてはいるものの,決して整合性があるわけではない事だ。「惑乱,私の妹,百頭女」という意味深な呼びかけや,エルンストの作品にしばしば自身の投影として現れる「ロプロプ」が随所に繰り返し現れ,何がしか連続した物語があるように見えるのだが,その実全体の筋は,つかもうとすればするほど朦朧としてしまう。

訳者で解説も手掛ける巖谷國士は言う。

…謎は謎のまま,いわば永劫回帰にゆだねられる。読書(というべきか?)のあいだに私たちが味わうのは,集中よりもむしろ逸脱である。細部まで明瞭でありながら偶然に支配されているこの銅版画の集合は,私たちの読解をつねに無限の拡散にまかせ,ときには物語の外へとイメージを開放してしまったりする。
(中略)
要するに『百頭女』は文学による絵画であり,絵画による文学である。そればかりではなく,文学と絵画とをなにか混沌とした世界(それをしも「惑乱,私の妹,百頭女」と呼んでみたい気分もある)のなかで切り貼りし,無数のデジャヴュ(既視)の幽霊と共に蘇生させてみた試みである。

(「顔のない書物――解説にかえて」巖谷國士  『百頭女』)

デジャヴュの幽霊,まさにそれこそ「比良坂變」のおもしろさの一部であり,読者に読み解きを強制する力ではないだろうか。

帝国,革命,玉音。臨界,ウラン,死。象徴的ではあるが,いささか食傷を覚える言葉を所々にちりばめながら,取り合わせはけっして陳腐ではない。そして,それぞれの句は常に横たわる比良坂と,意味深な少年少女の物語によって(まるで乾かぬ糊で貼りあわされたかのように)つながり,イメージを増幅させ,結果として輪郭の定かでない大きな物語を出現させる。

その流れの中で,ふと,鬼火とは何か,巨人とは何なのか,市電の撥ねたへんなものとは何だったのか―――そう考え始めた時,ふたたび「比良坂變」の物語は膨張し,読者を解釈の快楽へ(それは解釈放棄の快楽へもつながる)連れて行ってくれるだろう。大げさであるかもしれないが,それがこの句群の楽しみ方であろうと信じてやまない。


第264号
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