2012-06-17

【俳誌を読む】それぞれの心地よい地平 『豆の木』No.16を読む 西丘伊吹

【俳誌を読む】
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『豆の木』No.16を読む

西丘伊吹


超結社句会「豆の木」が出している、通巻16号目となる俳句誌を拝読した。

「豆の木」とは、ホームページの説明によると、「超結社/1950年以降生まれの俳句実作者の会」であり、「主な活動は、毎月1回の目白での席題句会」と「月2回木曜日の銀座での句会(仲間募集中!)」とのことである。

何度か句会にお邪魔させて頂いた記憶では、「超結社句会」とうたわれている通り風通しのよい雰囲気が印象的だった。なにか、“すでに在る”思想や理想に向かって技を磨き合うというよりは、それぞれがそれぞれの心地よい地平をさがしてひたむきに俳句を作っている、そんなイメージを抱いた。



本誌はまず、俳句作品集といった体裁で、各メンバーの10句作品とエッセイが掲載されている(西原天気氏がブログで一句鑑賞をされているので、ぜひ参照されたい)。

10句作品を拝読すると、作風はある程度ばらばらなのだが、それらが違和感なく収まっているところが興味深い点である。この不思議なまとまりには、表紙の写真――「豆の木」代表・こしのゆみこさんの“陶猫”の写真――が一役買っているのではないか、と夢想する。悲しんでいるのか微笑んでいるのか、怒っているのか楽しいのか、どのようにも見てとれる表情をたたえた、陶器でできた猫。彼(彼女)がまず、ここではない世界に連れて行ってくれて、“そこから”はじめて私たちは「豆の木」の俳句を読み始めるのである。

各人の連作は、第17回豆の木賞を受賞した、宮本佳世乃氏の印象的な一句にはじまる。

  雪もよひ紙飛行機に夜の来る  宮本佳世乃

例えば、日常のなかの影であり、歪(ひず)み。

  虹立ちてフィルムに不要部分かな  矢羽野智津子

  育児書をめくってみても青葉木菟  室田洋子

  酸性かアルカリ性か春の夢  岡田由季

  花冷えて名前が心細くなる  峠谷清広

  天高しすぐに忘るる花ことば  山岸由佳

ふっきって。(なぜか、この句には泣かされた) 

  雑巾で行こう隅々まで四月  遠藤治

「死ぬ」といわれてはじめて、読む者はその内実に心を向ける。

  巷説やさびしい兎から死ぬと  太田うさぎ

立ち止まって、じっとそれを見つめる。

  ひりひりと蚯蚓の一日はじまりぬ  月野ぽぽな

  鯛焼の尻尾の先の淑気かな  内藤独楽

  春光のとび跳ねている金庫かな  嶋一郎

  炎昼のうごかぬ水とうごく水  吉田悦花

もののかたちを。

  パイナップルの切り身山盛り鳥雲に  菊田一平

  一月のコントラバスは横になる  上野葉月

  春の形なりキューピーが立つている  近 恵

あるいは、目の前の景色が、キュビスムの絵のようにゆがむ時。
  
  水澄んで段差になつてをりし父  大石雄鬼

  祝日の風鈴市に着水す  小野裕三

  スツールに足組み毛皮夫人は海  中嶋憲武

ふとした営為のなかに、感情がほどける。

  明朝で打ちたき手紙北開く  古城いつも

  さやけしや毛を褒められて赤ん坊  三宅やよい

  あんぱんを千切る妻いて冬ぬくし  吉野秀彦

不思議な懐かしさのなかで。

  横向きの人を描いて帰燕かな  高橋洋子

  春の雲ながれるいたくない注射  こしのゆみこ



さて、俳句作品に続いては、メンバーの小論が五本収められている。紙面の都合から、そのうちの数本にふれさせて頂きたい。

五本のうちの三本は、週刊俳句編の『俳コレ』評。太田うさぎ氏の作品を峠谷清広氏が、齋藤朝比古氏の作品をこしのゆみこ氏が、渋川京子氏の作品を三宅やよい氏が、それぞれ論じている。

こしのゆみこ「齋藤朝比古氏の光と影と闇――『良夜』を読む」

この論では、朝比古氏の句に「日向や光に対比する」ものとしての「影」や「闇」が多く使われていることが指摘される。それらは単純に対比としての役割を担うのであって、こしの氏曰く、朝比古氏は「闇の暗さを語らない」。この指摘は非常に面白いと感じた。確かに、朝比古氏の句には、あっけらかんとした中に置き忘れられたような物悲しさを感じることはあっても、闇や影といった語から連想される「感情的」な暗さや、じめじめとした印象は汲み取れない。光があれば闇がある、というシンプルな事象。「実景」に基づいて詠むという朝比古氏のスタイルに照らせば当然ということだろうか。

  青空へ巣箱の闇をかけておく  齋藤朝比古


三宅やよい「渋川京子の彼岸往来――『夢の続き』を読んで」

「渋川さんは喪服が似合うと思う。」という素晴らしい一文で始まるこの小論は、こんな論を書いてもらえたら作家として幸せだろうな、と思ってしまうほど良質で、瀟洒な包み紙にくるまれたプレゼントのようである。渋川氏の人となりに沿いつつ、自由な想像力と確かな足取りで組み立てられる鑑賞は、読んでいて嬉しくなる。

  抜け道は群衆のなか冬あたたか  渋川京子

この抜け道はどこへ通じるのだろう。海を渡るモーゼのように、この人が歩くとどんな人ごみでもさあっと二つに分かれて道が現れるような気がする。(本文より)
この他、太田うさぎ氏を「平成の女虚子」と評した峠谷清広氏の小論、そして三島ゆかり氏のコラム「古本という愉しみ②『スターシップと俳句』」が収録されている。『スターシップと俳句』(ソムトウ・スチャリトクル著/冬川亘訳、ハヤカワ文庫、絶版)は、なぜか我が家にもあるのだが、三島氏の論を拝読して、読み返してみなくては、と思った。


最後に、とりわけ多彩な図像が目を引くのが、こしのゆみこ氏の小論である。

こしのゆみこ「旅ノート13・有元利夫のピエロ・デッラ・フランチェスカを訪ねて」

本論は、1985年に逝去した画家・有元利夫が影響を受けたという、イタリアのルネサンス初期の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画をたどる旅の記録である。
有元利夫は、自身の東京藝術大学の卒業制作として、「私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ」(1973)という題で、在学中の欧州旅行から強く影響を受けた作品を残している。

実際に何度もイタリアに足を運んでピエロの作品を観たこしの氏は、ピエロの描く女性像について次のように書く。
いつも思うのだが、ピエロの描く女性は色っぽくもなく、弱々しくもない。堂々として、威厳がある。

有元利夫が一番ピエロに影響を受けたのは、この媚びない女性のかたちなのだと思う。
本誌に掲載されている「マグダラのマリア」の図像は、確かに、逞しいといっていいような広い肩幅に太い首が印象的な、立派な体格のマリアである。こしの氏が指摘する通り、それは有元の描く女性像にまさにぴったりと重なる。数年前、目黒の庭園美術館で開催された有元利夫展に足を運んだが、何をおいても印象深かったのは、首も腕も太く、どっしりとした不思議なフォルムで堂々と描かれる女性の姿だった。そして、ここまで書いてふと気付いたのだが、興味深いことに、それでも彼女に「重さ」は感じられなかった。不思議な浮遊感、非現実感のなかで、彼女はただ“そこにいる”。

そういえば、有元を愛した田中裕明は次のように詠んだ。

  雪解川有元の絵にからだ浮く  田中裕明

有元の描く女性については、本誌にこしの氏の素晴らしい考察があるので、実際に読んで頂けたらと思うが、こしの氏が様々な角度から指摘するように、「個」や「感情」や「関係」を極力排する方向に向けて有元が描いていったのだとすれば――。絵のなかの彼女が、現実味を帯びず、浮遊感すら漂わせていたことは、何ら不思議ではないのかも知れない。

  桃咲いてぼおんぼおんと人眠る  こしのゆみこ
(こしのゆみこ句集『コイツァンの猫』ふらんす堂/2009年より)

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