2012-07-01

池禎章さんの俳句 第1回 西原天気

池禎章さんの俳句
第1回 鮫食って棕櫚一本の枯れる景

西原天気


鮫食って棕櫚一本の枯れる景  池 禎章(以下同)

鮫を食べる習慣は土地が限られるようだ。土佐に生まれ、土佐に暮らした禎章さんは、ふだんからよく鮫を食べたのだろうか。棕櫚は鳥が種を運ぶ。土壌を選ばないので、思わぬ場所に自生したりする。主が庭に植えたというよりも、ひょんなところに伸びた棕櫚1本が、いまは枯れている。

昨年9月に池禎章(いけ・ていしょう)さんは99歳で亡くなった。生涯に句集は3冊。『河口原』(平成元年・1989年)、『卒寿』(平成13年・2001年)、そして亡くなられる前年2010年に出た『白寿片々』。『河口原』のあとがきに「いつの頃からか、句集出版は生涯一冊と、漠然と思いさだめていた」とありますから、『卒寿』『白寿片々』は予定外だったのかもしれません。ま、予定どおりには行きませんよね、禎章さん。1冊きりなんてカッコよすぎるし、もったいなさすぎる。

掲句は、『卒寿』の「狂気 平成元年~二年」の章に収められた一句。禎章さん亡き後は、ちょっと違った景色にも見えます。



禎章さんの句を初めて見たのは、『麦』誌上でした。俳句を始めて1年くらいの頃、ひょんなことから「麦の会」に入会。『麦』の同人欄は、同人になった時期が古い順に並ぶ。最初のページにある大ベテラン・禎章さんの5句を、『麦』が届いたらまず読む、というのが習慣になりました。禎章さんの句に魅せられ、ファンを自認するようになって程なく届いたのが『卒寿』。ページをめくるたびに心躍りました。

ここでは、禎章さんの句を、気ままに読んでいこうと思います。句集評でもなければ、作家論でもなく、ただ気ままに読み返してみる、ということです。今回は、第2句集の『卒寿』から。順序として適当かどうかはわかりませんが、私が最初に出会ったのが、この句集なので。

簡単に、略歴に触れておきます。

明治45年(1912年)5月、高知県香美群香宗中ノ村(現・香南市)生まれ。昭和5年(1930年)、18歳の年まで土佐で暮らしたのち上京。昭和20年(1945年)1月に応召、終戦とともに復員し、それ以降は土佐に暮らす。中島斌雄の『麦』の創刊からの同人。



では、ぼちぼちと。『卒寿』に並んだ順とほぼ同じ順で拾い読みしていきます。

試みにゆすれば散ず辛夷のばか

揺すってしまうのもお茶目なら、「ばか」と句を終わるのもお茶目。辛夷の呆けた感じを詠むのはめずらしくもないでしょうが、句というは口調が大事です。そこに作者があらわれます。

禎章さんには、一度きりですが、お会いしたことがあります(この思い出話は連載が終わるまでに何度かすると思います)。友人3名連れ立って、土佐のお宅を訪ねたのです。禎章さんは、想像したとおり、お茶目で、優しくて、都会的で、典雅な雰囲気をお持ちの人でした。

土佐に長く暮らすというと、田舎に引きこもった感じを想像してしまいがちです(すみません、私がそうでした)。けれども、考えてみれば、土佐には古い歴史があって(土佐に限らずその土地土地には古い歴史がある)、たかだか百数十年の都会=東京とはまた違う、もっと大きな歴史に裏打ちされた「都会性」があって当然なのです。

一方、東京暮らし(18歳からの約15年)も、禎章さんの洗練に影響を与えたかもしれません。いま思い当たったのですが、禎章さんが上京した昭和5年は、浅草にカジノ・フオーリー(喜劇王・榎本健一が世に出るきっかけとなった軽演劇団)誕生の年。東京モダニズムの全盛期、東京が最も刺激だった時代のひとつ。青年・池禎章は、そのとき、そこにいたのですね。

ちなみに『卒寿』の略歴には、「昭和五年、勤務先で机を並べた工場長が宗匠を名乗る江戸っ子俳人であったことから、芝界隈の運座巡りがあり、月並俳句に馴染む」とあります。芝で句会、浅草や日本橋で遊ぶ。詳しいことは聞いていませんが、勝手に想像してしまいます。

さて、句集に戻りましょう。

江東区木場の一会の黒揚羽

往時を偲んだのか、ひさしぶりに出かけたのか。木場らしく、ぴしっと決まった一句。

烏骨鶏あそぶ簡素な冬落暉

烏骨鶏と入り日の安定的な取り合わせ。「簡素な」がスパイス。

小半日坐る椿の真正面
蚊柱の幾十万が阻みおり


このあたりの句は、趣向としては比較的シンプルながら、気分がきちんと伝わってきます。

実印を持って漂う蛍の夜

のっぴきならないのか、すっとぼけているのか、判然としない、この微妙な感じは、禎章さん独自のもの。

紛れ殖ゆむぎわら蜻蛉「ひばり」逝く

美空ひばりが亡くなったのは平成元年(1989年)6月24日。ムギワラトンボは、四国だと少し早めなのか。あるいは、訃報からややあって詠んだのか。

なお、禎章さんは、いわゆる有名人の訃報に際して、多くの句を残しています。今もお元気なら、「ザ・ピーナッツ姉逝く」といった句をきっとつくられたんだろうな、と。

大群の毛虫見し日の終列車

蜻蛉やら毛虫やら、小動物もよく出てきます。私が「麦の会」にいた頃は、やたらとジャンボタニシが登場しました。禎章俳句に登場する小さな生き物は、微小さ、可憐さよりも、むしろ、「うわっ!」という感じの生々しく、ふてぶてしい存在感を伴うことが多い。

バイク売り払って手ぶら鳥渡る

バイクとは、家よりも、クルマよりも身軽です。それも売り払ってしまった、この「手ぶら」感は、そうとうなものです。

揚羽らに反転の技寛美逝く

ほらね。また、あった。訃報に呼応した句です。藤山寛美が亡くなったのは平成2年(1990年)5月21日。喜劇人として超ビッグネームですが、関西ローカルでもあり、ご存じない方も多いかもしれませんが、揚羽の反転との照応が美しい。「技」という語に、寛美へのリスペクトが込められていると見ました。

本日の鴉は薄暑かつ短気

この鴉のふてぶてしさ。鴉と対面するに気力をみなぎらせる、この感じが、作者の覚悟というか、生き方なのですね。

船虫の楽園があり出口なし

神話的な風味も少し。「出口なし」と言い切る口調。

YS機けなげに飛んでさくらんぼ

南国市にお住まいだった禎章さんを訪ねたとき、家の真上を旅客機が低く飛んでいました。土佐空港(現・土佐龍馬空港)が近いのです。

掛軸の奥にとんぼのくに烟る

掛軸の奥に「とんぼの国」を見出す。虚を詠むにとどまらず、「烟る」の一語を置くことで深いコクが出ました。アイデア一発を投げ出したままにせず、もう一歩踏み込めないかと模索する。書くとは、そういうことです。

芋虫がお肉みたいと抓まれる

軽く、このように詠んでもらえるのも、うれしい。趣向ばかりでは肩が凝ります。

エジプトを次女が漂ういなびかり

娘さんは、留学なのか仕事なのか、このとき、エジプト上空です。たしかにYS機には、健気にしっかり飛んでもらわねば、父親としては気が休まりません。

流浪中ですよ殿様ばった飛ぶ

この句の「ですよ」など、禎章さんの句は、どんどんと自在というか、勝手気ままというか、口調のヴァリエーションを増していきます。

心臓に障る金額赤とんぼ

無心されたのか、見積もりが出たのか、その金額に、「心臓に悪いで、ほんま」と。

こういう切り取り方は、もう、にやっとするしかない。さきほど、「実印がさまよう」句がありましたが、俗なことも懐広く包み込んで、軽妙に処理する。座五の「赤とんぼ」もまた、ひょいと身をかわす感じがクレバーで、なんとも言えません。カッコいい渡世です。

木斛の満つ花ディックみね逝けり

はい、また訃報です。ディック・ミネは平成3年(1991年)6月10日歿。表記を「ディックみね」としたのは、ナカグロ(・)を嫌ったのでしょう。

コレラ菌混入せしは月光裡

めずらしく伝奇的・幻想的な句です。

短日の木箱紙箱うわっとある

「うわっとある」なんて、キャリアの浅い人はできませんよ(笑。

綿虫の行方訝りつつボケる

自分で「ボケる」とおっしゃる。もちろんそれを信じるわけには行かないが、ここは現在形30パーセント、未来形70パーセントと解す。「ボケる用意はありまっせ」というわけだ。ボケを怖がらない。それもまた成熟の一形態と覚悟を決めるのが伊達。

満つ絮の冬至たんぽぽソ連消ゆ

ソ連崩壊は1991年12月26日。時事というのはなく、出来事をこのように詠んでおくことは、禎章さんにとって大切なことだったのでしょう。

そういえば、土佐にうかがったのは12月初旬でしたが、そこらじゅうにたんぽぽが咲いていました。

ぎゃあと泣けそうな大輪黄水仙

さっきの「うわっと」と似ているようで、ちょっと違う。泣くほどの大輪。此の世に一瞬現れる涅槃かも。

漆黒の蝌蚪に魂消る昼の月

「たまげる」は、魂が消える。蝌蚪と昼の月が、「たまげる」のなかにある魂を呼び起こす。俳句は構文や文法から漏れ出たところに、コクが風味が出っりもします。

ハフハフと泳ぎだす蛭ぼく音痴

この句はですねえ、最初詠んだ読んだときびっくりしました。「ぼく音痴」という収め方というか、展開が。

こういうのは、ひとつの境地だと思います。といっても、人間的・精神的なものではなく、言語的。俳句的な。



と、ここまでが、平成元年(1989年)から四年にかけての句です。

いかがでしたか。好きな人は好きでしょうし、そうでない人はそうでない。当たり前ですが、俳句って、そんなものです。

いいセレクションができていればいいのですが。

次回は、句集『卒寿』の後半を読んでいきます。

(つづく)

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