2012-07-01

朝の爽波 22 小川春休


小川春休




22
リンク


リンク

今回鑑賞した〈親切な心であればさつき散る〉については、永田耕衣の文章がありますので、ちょっと(いや、かなり)長くなりますが引用します。
 …次の一句に、私は人生生涯のナゾを快感至極に喫していて、どういうワケか飽きるということがない。かつては一度拈弄した覚えがあるのに、拈弄の端緒さえ掴み損ねた悔が尾を引いている。無類無限、無抵抗のナゾが飽きることなく不会(ふえ)のまま永遠に揺れているのだ。

  親切な心であればさつき散る  爽波

 軽妙だが永遠に重味づくユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレも無い、融通無礙、イナそれさえもない日常茶飯の情緒だろう。正宗白鳥の「一つの秘密」が赤裸裸にひそんでいるのであろうが、ソレがつかめぬモドカシサと快感が不尽である。〈凍鶴に立ちて出世の胸算用〉なら分るのだが、一句の「親切な心」も「であれば」も「さつき散る」もナゾだらけで、快感の深淵を極めているのである。「思想」は元より「人生哲学」がハイデッガー以上に「野の道」に出ていて、「行方不明」の柔軟至極な微笑を不逞なまでに持続している。サツキの花の美学が世阿弥の「花のしほれたらむこそ面白けれ」に関る一徹な宏大さに出ているからだ、ともいい切れぬ。「季霊」のハタラキが、宇宙的な人間性を放射せしめているためのナゾであろうことだけは分るが、ヤハリ波多野爽波の言詮不能な、分け入りがたい人間性に由来していると裁断しておく方が賢明であろう。
 カントは、『美と崇高との感情性に関する観察』(岩波文庫・上野直昭訳)のなかで、「悟性は崇高であり、機智は美である」と書いている。そしてコノ「両様の感情を己れの内に合一してゐる人は、崇高の感動が美のそれよりも強力なることを、但し前者は後者と交代したり又は後者と一緒になるかでなければ、疲れて、あまり長くは味はふことのできないのを知るであろう」と拈弄している。
 私はココで波多野爽波俳句にひそむナゾの形影、その「日常茶飯底」の質はコレダなと思い当てた思いに耽った。先ず「親切」一句を真に言詮的に感賞しようとすれば、全く手も足も出ない、ソノ「快感」の解明に役立つカントの言葉だ。爽波俳句は秀逸ほど「疲れない」からフシギだ。「長く味わって疲れぬ」どころか、「長く味わう」ほどその不尽の「快感」に飽きるということがない。ソレが「法悦」や「孤高」に高まり切らぬ。カントのいう、「崇高」と「機智」とが、爽波の全人性ごめに、合一一如の境を示しているからだ。爽波独自のイロニーが柔らかなのだ。ソコで「日常茶飯底」の而今を行じているからである。…(永田耕衣「爽波布毛一すじ」『花神コレクション〔俳句〕波多野爽波』より(初出『俳句』昭和61年6月号))

さて、第二句集『湯呑』は引き続き第Ⅲ章(昭和49年から51年)から。今回鑑賞した句はだいたい50年の冬の終わりの頃から夏にかけてのものと思われます。この短い期間中に、3月には長女知子結婚、7月には「青」250号という節目を迎えています。

宿引の枯木の中を歩きをり  『湯呑』(以下同)

宿引とは、旅客を自分の宿に泊めようと勧誘するのを業とする客引きのこと。人当たりの良さと、いくらかは押しの強さもないと務まらぬ仕事だ。しかし今は休憩中、客引ならではの法被姿のまま、無言で枯木の中を歩くばかり。そのギャップに、あわれを誘われる。

薊見る実相院のまひるかな

実相院
は、京都市左京区岩倉にあり、代々住職を天皇家の縁故が務めた門跡寺院である。枯山水や新緑、紅葉が名高いが、今は新緑にはまだ早く、薊の花が咲いている。照っても厳しさはない、春の日差しの中に立つ薊と爽波。夾雑物のない静寂が一句を満たしている。

睡蓮に音たてて降る松の塵

七月頃、細長い花柄の先に蓮に似た花を咲かせる睡蓮。名の由来は、明るくなると開き、暗くなると閉じる(眠る)ことによる。水面に点在する睡蓮へ、それと見えながら落ちる松の塵がよく見える。鮮明に聞こえるかすかな音が、辺りの静けさを逆説的に印象づける。

親切な心であればさつき散る

爽波作品中有数の鑑賞困難句であり、一度読むと決して頭を離れない句。無理に鑑賞を試みると、「親切の定義とは」などという泥沼に嵌りそうなので、親切な人を目にした時などに、掲句を心中で呟いたり、頭の中にさつきを散らしたりするのが良かろうと思う。

六月の藪の大きく割れゐたる

六月は梅雨入りの時期、そして夏至を迎える時期でもある。もう新緑とは言えぬほどに、草木も成長してきている。掲句の描写は、目の前の藪を大きく捉えながら、ざっくりとその本質を描き出している。大きく割れた藪の奥の暗がりは、六月という時期ならでは。

宇治の瀬へ大きく吊りし古簾

広く長い縁側を持つ昔ながらの日本家屋を思う。上五の「へ」、中七の「吊りし」によって示される位置関係が的確。古簾の大きさが、その家屋の広々とした作りを思わせ、その先に広がる宇治の瀬の大きさをも暗示している。瀬の音と涼とを、身体中で感じる句。

じやがいもの花の三角四角かな

じゃがいもの花は白や薄紫の、浅い裂け目の入った五角形の花であり、六月頃にはじゃがいも畑一面に花が咲き揃う。一つ一つの花は五角形なので、この「三角四角」は咲きかたまったじゃがいもの花が形作る図形。一面の花々から様々な形を見出す童心が愉快。

0 コメント: