2012-07-15

【週俳6月の俳句を読む】黒岩徳将 更新性

【週俳6月の俳句を読む】
更新性
黒岩徳将

俳句は、僕がこの文章を書いている間にもずんずんと更新されている。

新しい俳句を作った瞬間にその俳句は既存の作品と化してしまい、作者は推敲に時間を費やしつつも、次の作品にとりかかる。新しい作品を発表した瞬間から、他人は「作者AはBという作品を作った」という事実を認識する。

その認識を更新するために、作者はまた新しい作品を作ろうと取りかかる。会心の一作ができたからといって、おちおち喜んでもいられない。次もいい俳句が作れる保証など、どこにもないからだ。

最短の詩型である俳句は、このサイクルが速い。

また、何をもって「新しい」とするかの基準は他人の俳句を読み込んでいる量(勉強量とはあまり言いたくない、俳句を読むことが勉強なのかどうか今の僕にはよくわからないからだ)によって異なる。

自分の読んでいる量が少なかったから、対象としている俳句が「新しい」かどうかの判断が、僕より俳句を読んでいる人と大きく食い違う、という事態は避けたい。そうした理由から、僕は俳句を読んでいきたい、と思うようになった。

知識は時に障害になるかもしれないが、自分の知識をどの場面でどの程度適用するか、というコントロール能力は俳句に限らず重要だ。

浴衣着てどの町からもはるかなり 平山雄一

おそらく夏祭りか何かの景だろう。複数の色とりどりの浴衣が想起される。最初に読んだ時には、近場の町から人々が浴衣を着て集まっている、という解釈をしたが、よくよく立ち止まって考えると物理的におかしい。もう一度落ち着いて読むと、主体は「この町」にいるのだが、浴衣を着ることによって生まれる妙な浮遊感が、一句に漂っている。

確かにスーツや制服と違い、薄手で涼のとれる浴衣からは、現実世界から少しはみだした感覚を覚える。浴衣とそれに続く現象に論理的な関連性がないからだ。しかし、どこか納得してしまうところがある。こういう句を作るには、一般的な感覚を意識的に「ずらす」ことが必要だと思う。

クレマチスから私まであと少し 北川あい沙
枇杷の絵のいつを仕上げとしたものか 同

俳句から「私はこの季語に惹かれたから書いたのだ」というメッセージが伝わってくる句だ。上の句は、私ではなくクレマチスの側から発想したことが手柄を得ている。クレマチスが待ってくれているという安心感がある。

下の句は、色をつけている段階だと考えた。あの濃淡の微妙な枇杷の質感が出ているのか、出ていないのか、キャンバス越しに悩む主体の顔まで見えてくるかのようだ。いずれも、形式の上では他の季語にすることもできる。しかし作者は、この季語を選択したからこそ、という意志を見せたいのだ。季語に頼っているという言いかたもできるが、それは同時にクレマチスと枇杷への信頼なのだと取りたい。

ウォータースライダーの塔他全面雲 藤田哲史

確かに、ウォータースライダーは現代の塔だ。現在、僕は古き街並みが残されているヨーロッパに住んでいるので、中世の人間がウォータースライダーを見たら息をのむに違いないと感じる。この句は主体がウォータースライダーで遊ぶ人間を見ているから、背後にある雲を一緒に切り取っている。

それはよくわかるが、気になるのは「他全面」だ。おそらく「ほかぜんめん」と読むのだろう。この「他」の使い方は僕にとって新しかった。高い塔の、もっと上にある雲へと「他」が視点を押し上げている。合わせて20音、五七五の韻律も気にしていない作り方であるが、何度か繰り返して読むとなかなか頭から離れない。連作全体を通してみると、タイトルの「緑/R」からもわかるように、色を意識している句が多いことは容易にわかるが、それではRはRedなのだろうか、それは浅はかな推量なのか。

Rのつく単語をいろいろ並べてみたが、答えらしきものは見つからなかった。そもそも、そう考えさせることが作者の狙いなのだろうか?

この文章の枕では、詠み手を中心に更新性について考えたが、読み手についてはどうだろうか。この文章によって、ほんの少しでも新しい読みを更新することができたらそれはとても喜ばしいことである。


第267号
佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む

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