2012-07-22

小池康生句集『旧の渚』評 彼の世界の主人公……上田信治

小池康生句集『旧の渚』評 
彼の世界の主人公

上田信治


『銀化』2012.7号より転載

  夕しぐれ魚にするとだけ決めて

 この人が、街に晩酌のあてを買いに来たのか、これから飲む店を物色しているのかは、分かりません。軽い雨に肩を濡らしてやや心急かれつつも、あくまで心軽く、義務も約束もない夕刻を先へ先へと行く様子が書かれているだけです。

〈魚にするとだけ決めて〉の中七下五は、句またがりのリズムと口語の言いさしによって、読者を引っぱりこみ、その時その場に感情移入をさせるように働いています(「決めてゐる」「決めてをり」とした場合の、平板さと比較すれば、明らかでしょう)。

臨場感を生むこのフレーズは、ト書きのようでも、小説かエッセイの地の文のようでもあり、あいまって、句中のこの人を、何かの主人公のように見せています。

  家族とは濡れし水着の一緒くた
  四万六千日東京タワーにも寄りて
  秋うらら他人が見てゐて樹が抱けぬ


これらの句が語られるとき、いつの間にか作者本人の話に、とりわけその人柄の魅力の話になってしまうのは、無理からぬことだと思います。

いったい、人が芸術とか表現と呼ばれる営みに求めるものの、何割ぐらいが、人と出会い通じ合いたいという、コミュニケーション欲求に発するのでしょう。ひょっとしたら八割か九割ぐらいが、そうなのではないでしょうか。

人は、何か佳いもの、素晴らしいものを求めて、いわゆる芸術に接するわけですが、人がもっともシンプルに感嘆するのは、作品を通じて、その向こう側にいる素晴らしい人に出会えたと感じるときです。

くったりと重い家族全員の水着への注目は、その人がそんなことに気付いてしまう視線を持ちつつ家族の中にいる、という不思議を感じさせます。一緒くたの水着の一員である自分を、見ているもう一人がいる。その、ふと客観的になってしまう視線のほうに、この人の精神の本体があるのではないか。

それは、パリのアメリカ人ならぬ東京の大阪人だった作者が背景にある二句目でも変わらず、出身地までは分からなくても、この人が東京をずいぶん軽く見て、軽く楽しんでいたということは、十分に分かるのです。

句が良くて、句の中のその人が本人の印象を裏切っていないから、評者は、「いやほんとにこういう人なんですよ」と書くのでしょう。それは作品の成功なのだと思います。

なぜなら、読み手が素晴らしい人に出会うためにそれを読むように、書き手もまた自分に出会うためにそれを書くからです。言い換えれば、そういう人であろうとして、人はそれを書く。

三句目。もともと本人がここまでロマンチックであったかどうかは分かりません。しかし作者はそう書いて、句中のその人を、そういう人として存在せしめた。むしろ作者は、この句に出会うことで、このように過剰にロマンチックな人であることを、自分の人生に取りいれたのではないか。

この句のちょっと小唄のような調子には、そんな自分に対する照れが書き込まれているように思います。とりわけ「ぬ」が、おっさんくさくて良いのです。それがあるからこそ、この乙女のような告白を、読者は肯うことができる。

それは「一緒くた」の乱暴さや「にも寄りて」のふらふら気分にも、共通して見てとれることです。句中の人に息を吹き込み、作者の分身として存在させるマジックが、こういったちょっとした言葉の操作にある。

先に述べた「何かの主人公のような感じ」とは、ここに発します。そして、一句の中心にある人がいて、それが作者の分身であると感じられることで、句は、そこから想像される作者の人柄を背景としてあるいは広がりとして持つ。

いわば、彼が主人公であることによって、物語の(あるいは世界の)感触がそこに生まれるのです。

句集を編むことの意義の一つは、その全ての句が作者の存在と共に読まれることにあります。虚子は、橋本鶏二の第一句集の序を求められ「鶏二は作者である。」と、ほぼそれだけを書き送りました。作者とはつまり、句にその名が書き込まれる人、匿名の書き手の時代を通過して、個性化を果たし終えた人のことだと言ってもいいでしょう。

句中のその人は、作者・小池康生の世界の主人公として、生きています。そして読者は、主人公を乗り物として、その世界に遊ぶことができる。

一方で、作者・小池康生とその世界は、彼が創作したフィクションだということも、忘れずにいたい。人柄が素晴らしいのは本当ですが、俳句が良いのは、俳句が良いからです(当り前ですね)。

  前半と後半のある十二月
  注文の前に裸になつてをり
  絨毯に乗ればこの人おもしろい
  数へ日の換気扇より空の音
  さくらんぼ日のあるうちに雨はやみ
  無花果は箪笥の色をしてゐたり

句集『旧の渚』の世界は、時に軽妙に時に謎めいて、なんとも楽しい。人事の句はもとより、叙景句あるいは自然詠と見える句にも、中心に主人公がいて、その世界を感じている気配がある。

そこにいるのは、私たちもちょっと知っている、あの人です。




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