2012-08-12

池禎章さんの俳句 第3回 西原天気

池禎章さんの俳句第3回 私コスモスいつも離陸路着陸路

西原天気



池禎章さんの第一句集『河口原』(麦叢書/1989年)は、終戦後の1946年1月の句作から始まります。

北風の地に遺るもの白鷺城

前書に「復員・昭和二十一年一月身辺整理のため上京」とある。1945年1月応召、終戦により同年8月に復員、郷里の土佐から、戦前戦中を暮らした東京へと向かう途中に(山陽線の車窓から)見たのが姫路城だったのですね。

姫路空襲は1945年6月22日および7月3日。「姫路市街地全域に焼夷弾が降り注ぎ(…)総戸数の40%が焼失」(≫Wikipedia)。姫路城は「奇跡的に焼失を免れ」との記述もあるので、掲句の「遺る」は、現実的な意味を帯びます。

返り花穹を故郷としてひらく

この穹(そら)には解放感や喪失感やいろいろな思いがこもっているようにも読めます。

短日のジープが運ぶ日本人

終戦直後のおなじみ(私たちにはドラマなどでおなじみの)景。前書「敗戦下南海大地震 三句」のうち第3句。南海大地震は1946年(昭和21年)12月21日4時19分過ぎ、和歌山県潮岬沖で起きたマグニチュード8.0の地震。安政南海地震ほの被害ではなかったものの、禎章さんの住む土佐でも、船が陸上に打ち揚がるほどだったらしい。

山河暗々さけびては上ぐ大焚火

この句が「敗戦下南海大地震 三句」のうち第1句。語のチョイスや口調はテンションが高い。ただ、この時期の句に、後年の禎章さん独特の作風はまだ希薄で、「この時代」のテンションとひとつづき、という感じです。

それでも…

卒然と蜷の一つのまろぶ秋

鶏一羽銀河の下に飼われけり

蛇投げる春の没日へ絶叫し


…などの動物ネタには、すでにユニークな感触。

編年体の『河口原』をさらに読み進めます。

短日の菊の薄紅紙幣(さつ)積まる

土佐では銀行に勤めた禎章さん。数少ない職業俳句。

ここまでが戦後十年あまり。昭和31年(1956年)まで。次からは昭和30年代。

老杉に囁きやめぬ銀河の尾

火蛾と酌む湖の深部となる部屋に

あざやかに幻想的な(というと矛盾を含む言い方でしょうか)句に目がとまります。このあたり、私が知っている後年の禎章さんにはあまりない怜悧な感触。きれいです。うっとりもさせる句群。

昭和40年代へと読み進めましょう。

全歯抜くほかなしやけに木瓜赤し

身辺の出来事+季語、というと、頻繁で目新しくもない構造のようですが、そこはそれ、微妙な生々しさと韻律に、やはり禎章さんならではの味があります。

代田掻くバーブ佐竹の髪をして

出た、人名句。

バーブ佐竹を知らない人にはググっていただくことにして、知っていても、「髪をして」ってどんな髪だっけ?と。













見ても、やっぱり、よくわかりません。

アポロ飛ぶ世の朝顔に黄色なし

時事を扱う後年のスタイルがすでに。しかしながら、すこしコクが足りない感じです。

アポロ11号による月面着陸は1969年(昭和44年)7月20日。朝顔は、さまざまな花色がありますが、黒と黄は、まだ出来ないそうです。

双蝶の黄鮮烈に「よど」還る

こちらも時事。よど号ハイジャック事件は1970年3月31日。帰国は4月5日。

目ひらきて夏菊の彩すでに見ず

骨壺の母鬼百合の国にゆく


「母逝く」の前書のうち2句。

次から昭和50年代。

鉄屑にすべて切り口秋風裡

めずらしく正統写生風。

老眼の虚をねらっては薔薇崩る


視覚の、この微妙な感じ。

豆の花みなあちら向くざんざ降り

下五での舞台設定。

蜥蜴また争う裸劇場あと

「裸劇場」はストリップ小屋でしょうか。

べに茸に瞑るは僧のみならず

民俗的、あるいは説話的な面白さ。

アイリスに雲たなびけり麻酔以後

身体感覚。

づぅんづぅんと台風据わる広辞苑


オノマトペの奔放は、この句が最初かもしれません。

広辞苑との照応/斡旋/二物衝撃。用語はなんでもいいのですが、この時期の「現代俳句」は、その点で乱暴でした。成否は議論の余地あり、でしょうが、少なくとも、句が縮こまっていない。

8章立ての『河口原』の5つ目「残齢」は昭和56年(1981年)から昭和58年の3年間・113句を収める。

全天に雷雲ざざと開くチャック

劇的です。事情はわかりませんが、劇的。

私コスモスいつも離陸路着陸路

土佐の禎章さんのお宅の真上あたりを旅客機が頻繁に飛び交っていたことは、《第1回 鮫食って棕櫚一本の枯れる景》でお話ししました。だから、これまるっきりの実景なのです(禎章さんがコスモスか人間かはさておき)。

じつは、この句、禎章さんを存じ上げる以前から、知っていました。「麦の会」の先輩である長谷川裕さんから口伝えで聞いていたのです。ああ、んあとキュートな句だろう!と。それも、相当の老齢でいらっしゃる大ベテランが、こうもキュートな句を!

そのときは「離陸路着陸路」は、ただ漠然と、コスモスの上、低空を飛行機が飛ぶさまを想像していたのですが、土佐に行ってみて、まさに「離陸」と「着陸」が間近にあることを知り、たいそう感慨深かったのです。「ここが、あの句の現場か!」と。

この句は、禎章さんの句が、それまでになく(それまに増して)自由に、のびやかに、なんでもアリに、またトンデモなく展開していく、その始まりのような気もします。

金星の氷るどよめき不整脈

松葉杖ちまたの蝶に黄を与う


集中、隣り合うこの2句は、身体の不具合、ちょっとした困りごとが、世界(身体を取り囲むもの)と、奇妙な交感を見せています。

それぞれ「どよめき」「ちまたの」の4音が、独特の興趣を添える。ありきたりの定食、どこにでもある出来合いの味付けから、いちだん、コクが深まるのは、こうした部分が有機的に作用するせいでしょう。

添寝してやりたい眼もと枯ばった

心優しい。

俎に鮫の胴切り旅も涯

旅愁。

冬霞離郷のハンドバッグ藍

また別の旅愁。

寒鴉算数とけず跳び歩く


可笑しい。かわいらしい。「オカシカイラシ」(咄嗟の造語)な一句。

ががんぼと女人空転して真昼

ががんぼは女性のイメージです。「蚊ヶ母」とも書くそうだから、当たり前。

わたし蛇ざざと人体すり抜ける

さきほどの「私コスモス」とスタイルは同様でも、結果はずいぶんと違う。私自身、俳句から象徴性を除去したいタチなので、「蛇」の象徴性に絡め取られた感が残る。それにしても、このイメージ喚起。好きな人は大好きな句、っぽい。

次章「微音」は昭和59年(1984年)からの3年間。

葱坊主めまいして齢一つとる

夜烏からぎゃあと諭され誕生日


こういう年のとり方もあるのですね。

月夜茸に逢わむと酔うて眠りけり

夢遊の果てに突っ立つ月夜茸。

湯冷めしてミヤコ蝶々の鼻見ている


出た、人名句。≫参考画像

次章「遠会釈」は昭和62年(1987年)からの2年間。

羊より冬こおろぎは柔かりき

禎章句ではめずらしい感じの句。

税率に少しの狂気夕すげにも

税率の唐突。

骨壺の骨なお温き月見草

息を呑むほどの木苺一族亡し


この種の喪失は誰にも訪れる。禎章さんが誰かを失ったように、私も私たちも、誰かを失う。みんな同じことを経験するのですが、このことほど「同じ」ことはないのかもしれません。


第一句集『河口原』はこのくらいにします。

次回は、晩年の句が収められた第3句集『白寿片々』を読みます。

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