2012-09-02

林田紀音夫全句集拾読 229 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
229




野口 裕




階段の途中がつづく風の街

昭和五十八年、未発表句。「階段の途中」という言い方が紀音夫には間歇泉のように時折出てくる。ここに取り上げた句だけでも、

  階段の途中で暮れてトルソの少女(昭和五十四年、未発表句)

  階段の途中がいつまでもつづく(昭和五十五年、未発表句)

  階段の途中老人ばかり増え(昭和五十七年、未発表句)

とあり、フライングしてこの年代より先の句を見ると、

  階段の途中の歩幅旅に似る(昭和五十九年、未発表句)

と続き、形式的には、

  階段の途中の山河濃く見える(昭和六十一年、「海程」発表句)

で完結する。

階段の途中が引き起こす、未完結な気分にその時々の感慨がすくい取られ、最終的に「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」に代表される若山牧水的な寂寥感に包まれた句に結実することになるのだが、発表句を完成品、未発表句を未完成品と見るのは単純に過ぎる。どの句もそれぞれに発表句とは別の味わいを有する。

おそらく、「階段の途中」、ひいては「階段」が引き起こす連想には、多種多様な句へと誘う触媒のような作用があると見てよい。昭和五十四年未発表句を鑑賞する際に、

  階段をぬらして昼が来ていたり   攝津幸彦(『鳥屋』昭和六十一年)

  階段がなくて海鼠の日暮かな   橋閒石(『和栲』昭和五十八年)

  鉄階にいる蜘蛛智慧をかがやかす   赤尾兜子(『蛇』昭和三十四年)

を引用したが、そうした引用が可能になることも、そのことの傍証となるだろう。季語だけが特権的に連想を引き起こす作用を有するわけではない。無季の句が成立する一つの要因ではある。

脇道に大分それてしまった。元の句に戻ると、階段の途上で感じた風(おそらく強風)に街という存在そのものに対する不思議さ、その中にいる我の不思議さを感じつつ、若干の疲労を覚えている自己へと、句はくりかえし響いてゆく。「風の街」という措辞の効果大。

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