2012-09-02

朝の爽波 31 小川春休


小川春休






31


さて、今回は第二句集『湯呑』の第Ⅳ章(昭和52年から54年)から。『湯呑』もだいぶ終わりが近づいてきました。今回鑑賞した句は54年の年頭から夏頃にかけての句。2月には堅田吟行、二十年ぶりに、堅田の中井余花朗邸を訪ねていますが、爽波にとっては非常に思い出深い地だったようで、次のような随筆を残しています。
  湖もこの辺にして鳥渡る  虚子

 虚子先生について私個人の思い出に濃くつながる句と言えば、鎌倉の虚子庵に始まって山中湖、鹿野山と続き最後は堅田での会で終わりを告げた東西の若人のための稽古会、そしてたびたびのお泊りではいつも充分に寛がれて、素顔の先生に接することのできた京都鹿ケ谷のミューラー初子邸などで示された幾つかの句となるが、さて一句をと言われれば躊躇いもなく「鳥渡る」の一句を挙げたい。
 この句は昭和二十二年十一月、堅田の中井余花朗居に於て作られた。そして私も幸いにして、この句座に連なることが出来たのである。
 この句は、堅田の浮御堂から湖に向かって左前方に湖中句碑として刻まれている一句だから、近江の地を訪れてこの句碑を望見した人も多いことと思う。
 昭和二十二年と言えば私は大学を出て社会人となったその年、まだ戦後の荒廃が色濃くその跡をとどめて、所謂“物資不足時代”の只中にあった。そういう中で私は結婚して、京都の北白川に妻の両親と共に一家を構えたのである。毎日の暮らしが身に沁みて切実であった。そんな中で、京都から山一つ隔てた近江堅田の地へ虚子先生が来られる、との知らせに、身辺のすべてを放ったらかせて、先生ご滞在中の堅田の余花朗居へ三日ほどを毎日往復したのである。今の湖西線などという便利な乗物も無くて、浜大津から江若鉄道の僅かの便を得て、憑かれたようにして、堅田通いをしたものであった。昨今であれば堅田にどこか宿を求めてということであろうが、当時の私としてはそれもとても覚束ない事であった。
 虚子先生や立子さんも、そして主たる余花朗氏も私をあたたかく迎えて下さった。そういう私個人の切実な思いの中に豁然としてこの一句がある。
 先日、二十年ぶりで余花朗氏を訪ね、その庭先に立つこの句碑にしみじみとまみえ、虚子恋しの思いに胸を熱くしたのである。 
(波多野爽波「堅田通い」)
今回鑑賞した〈虚子の鴨立子の鴨と見て立ちぬ〉はその折の句。何ともしみじみとした味わいの句ですが、師への思いも踏まえて読むと、より一層沁みますね。

寒桜きのふは人を見舞ひきて  『湯呑』(以下同)

鹿児島・沖縄地方で栽培されていた寒桜と、山桜と富士桜の雑種の冬桜とは本来別種だが、季語としてはどちらを指すこともある。掲句に詠まれたのは冬桜の方であろう。眼前の白々とした冬桜の華やかさと寂しさとが、昨日見舞った面影と、淡く響き合っている。

虚子の鴨立子の鴨と見て立ちぬ

秋に飛来し、春に北方に帰る鴨。昼間は群れをなして水に浮いているが、その群れもよく見ていると、一羽一羽に性格のようなものが認められてくる。一組の、親子と見える鴨に、虚子・立子父子の面影を見出す爽波。師への敬慕がしみじみと伝わってくる句だ。

猫の恋池亭二軒の荒れざまは

早春、猫たちの、雌への求愛の鳴き声や雄同士の争う声が昼夜を問わず聞こえる。池亭は池のほとりの小屋、それを二軒も持つ池とはかなりの大きさ、元は立派な庭園だろうか。下五「荒れざまは」からは、「荒れざまときたら…」という心の声が聞こえるよう。

蜜豆や四囲の山みな明智領

安土桃山時代の織田家臣の中でも、滋賀から山陰方面にかけての広大な地を領した重臣・明智光秀。謀反人として有名だが、領民たちには有能な善君として慕われた。市街を離れ、蜜豆に一時の涼を楽しめば、山並は光秀治政の頃と変わらぬ姿を四方に巡らせている。

夏木立ぽつかり弓場の日向あり

塀の有無はともかく、弓の稽古場であるからには、射手から的までの充分な距離があり、地も起伏なく雑草もなく整えられている。夏木立の作る、濃い木蔭の中に、忽然と現れたかのような広々とした弓場は、穏やかな、しかし緊張感を伴った明るい景を見せる。

明易の水に映りて枯れし松

色変えぬ松と言われ、年中青々とした葉を蓄えている松と言えども、枯れるときは来る。それが明易の、鏡のような水面に映って現れた。映像は、実像では見えぬはずの幹の陰、枝の陰までも、つぶさに見せる。その景の空気までも感じられるような、クリアな描写だ。

寺を出て海原高き盛夏かな

塀をめぐらし、外界から隔絶された静寂の中にある寺。そこを出るところから一句は始まる。海が荒いというのではなく、波が高いというのでもなく、海原が高いという表現からは、エネルギーに満ち満ちた、海原の圧倒的なボリューム感が読み手に即座に伝わる。

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