2012-09-16

【週刊俳句時評71】牛の数だけある怖れ 五十嵐秀彦

【週刊俳句時評71】
牛の数だけある怖れ


五十嵐秀彦


ドナルド・キーンはその名著『百代の過客』で、日記文学を日本の文芸の特徴的なものとして高く評価している。
日本では、非常に早い時代から、文学的日記は、日々の出来事の記録以上のものであり、ややもすれば作者の自伝、あるいは文学批評になる傾向が強かったのである。(略)そのような場合日記は、一種の自己探求の書、時としては(『とはずがたり』のように)告白の書ともなった。まことに日記とは、あの最も典型的な日本の近代文学――「私小説」の始祖だったのである》ドナルド・キーン『百代の過客』(講談社学術文庫)p18
「私小説」だけではないだろう。随筆が好かれるのも、そこに日記的なものを感じているからだろうし、そして、俳句もまたそうした日記的な要素を濃く伝承している文芸だろう。ブログやツイッターやフェイスブックなどが日本で特に好まれるのも、わたしたちの日記好きとも関係があるように思える。

日記の体裁のものを誰にでも読まれるようにして発表し、それを不特定の人たちが読むことを、露悪趣味・のぞき趣味として嫌う人もいるのかもしれないが、もともと文芸とはそのようなものだと思っても、あながち外れてもいないだろう。もちろん中には程度の低いものも多く存在しているから、世間の一部から白眼視されることもあろうが、しかし、上質で読むに値する、いや、読むべきとお薦めしたくなるものもけして少なくない。

そのひとつとして今回挙げたいのが、この週刊俳句に昨年11月から不定期連載されている鈴木牛後さんの「牛の歳時記」である。彼は私と同じ北海道の人で、道北地方の下川町在住の酪農家だ。今年の9月2日号で第11回となっている。ほぼ月に1回平均での発表となっているが、この作品を愛読している人は多いのではないだろうか。

北海道に住んでいても、私は牛後さんの書く酪農家の生活について全くといっていいほど知らなかったので、毎回新鮮な驚きを感じながら読んでいる。

酪農地帯に行くと、あちこちにあるあの大きな牛舎の中で、こんなことが行なわれているのか、とか、言葉としてしか知らない「牧閉す」「牧開き」などの季語の、これが実感なのか!とか、本人は淡々と書いているが、読む方は驚きの連続である。そして、にじみ出てくる、生きものを飼うなりわいの厳しさ。それが、牛に対して過度には感情移入をしない姿勢から伝わってくるのである。

牛がどう思っているのかは、牛自身にしかわからない。いや、牛自身にもわからないと言うべきか第1回 2011/11/06

牛の生死は、季節の移り変わりのように私の目の前を通り過ぎてゆく第7回 2012/3/25

そうした酪農家の日常を冷静に、そしてしみじみとつづる「牛の歳時記」は、俳句日記文芸(そういうのがあるとすれば)にこれまであるようで無かったもののように思える。

この自分の生活と俳句とが、例えば蔦に表面を覆い尽くされた古い建物のように、一体不可分のものとなることを密かに望んでいる第4回 2012/1/8

放牧には、人間にとって原初の感情を呼び覚ますなにかがある。だからこそ、無意識の領域と繋がっている俳句とはとても相性がよく、すばらしい句がたくさん作られてきたし、これからも作られていくに違いないと思う第7回 2012/3/25

牛後さんは自分の日常の中からこのように感じ取ることで、酪農と俳句への愛情を確認し、それをまた自分自身に言い聞かせるかのように書き綴っている。

私はどちらかといえば虚構の側に身を寄せがちなため、牛後さんのようにその生活から俳句を思い俳句を作るということの強さに触れ、あらためて俳句の力の出どころということについて考えさせられてしまうのだった。

そうした牛後さんの俳句は、事実すぐれた俳句として結実しており、彼が参加している「いつき組」の「第1回大人のための句集を作ろうコンテスト」で最優秀賞となり、今年4月に句集『根雪と記す』が作成されている。すでに半年ほど過ぎてしまい遅すぎる紹介となってしまったが、9月2日の週刊俳句での「牛の歳時記第11回 干草」を読み、その干草の匂いのみごとな解説に感動してしまって、『根雪と記す』を再読したのであった。

 かげろふに濡れて仔牛の生まれ来る
 牛死して高く掲げる夏の月
 満月や牛の数だけある怖れ
          鈴木牛後 句集『根雪と記す』

牛後さんは、俳句集団【itak】の幹事でもある。隔月で札幌開催のイベントにいつも遠くから参加してくれている。足元から俳句を見つめなおそうとしている【itak】にとって、とても大切な「生活派」の作家だ。

彼の文章は【itak】ブログでも読むことができるので、それも最後に紹介しておきたい。


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