2012-09-30

透明な身体 大石雄鬼『だぶだぶの服』を読む 小野裕三

透明な身体
大石雄鬼句集『だぶだぶの服』を読む

小野裕三



大石雄鬼さんとの付き合いは長い。それはもう十年以上も前の超結社句会「豆の木」での出会いから始まるのだが、よく覚えているのはそこの句会で僕がいち早く注目したのが、齋藤朝比古さんと、この大石雄鬼さんだった。その「豆の木」代表のこしのゆみこさんが、本書の栞でこう書いている。「<豆の木>で<夏痩せ>の句が出れば大石さんの句に間違いない」。確かにこの句集を見ると、何度も夏痩せの句が出てくる。そしてまるでそのことに呼応するかのように、句集のタイトルは「だぶだぶの服」。確かにご本人も痩せ形の体型ではある。しかし、このことは意外に彼の俳句の本質に繋がっている気もする。

いささか余談だが、大石さんは俳句の作者を当てる名人でもある、というのが僕の印象だ。つまり、句会の場に無記名でどっと出された句のそれぞれにつき、この句はこの作者、というのをかなりの確率で当てる。この〝作者当て名人〟ぶりは驚嘆に値する。まるで体全体が〝俳句センサー〟になっているのではないか、と思わせる。

俳句という形式は一般的に言って、環境と身体の掛け合わせで決まるみたいなところがある。どのような環境に作者自身が身を置くか、というのが作品に大きく影響する。あるいは、本人が持っているキャラクターというか、身体の質感のようなものが、作品に大きく影響する。いずれにせよ、俳句とは環境とそこに置かれた身体との掛け合わせによって決定される。だから、俳句とはいつもどこか「生体実験」めいている、と感じる。散文という形式があくまで「思考実験」を主体とするのに対して、俳句という形式はあくまで「生体実験」。そんな対比が当てはまる気がする。

そしてその「生体実験」の場において、大石さんの身体はどこまでも透明である印象だ。人によっては、自分の身体の色を徹底的に前面に出すことによって俳句の独自性を成立させる場合もある。あるいは、あえて特殊な環境に身を置く(あるいは意図せずに置かれる)ことによって俳句の独自性が出てくる場合もある。いずれにせよ、それは環境と身体の掛け合わせによる「生体実験」だ。その図式で言うと大石さんの流儀はかなり独特で、とにかく徹底的に自分の身体を消し去る。消し去ったのちに、彼の身体はどのような環境にも敏感に反応するセンサーになる。

 冬花火からだのなかに杖をつく

 盲腸のあたりで手毬ついてをり

 花火見てきしざらざらの体かな

 とんかつの荒野が口にある遅日

 肩車より白鳥のやうに下ろす

こういった、きわめてユニークな「生体実験」的俳句は大石さんの俳句の真骨頂だと思うのだが、それも彼独特の鋭敏さを持つ透明な身体があるからこそできることだ。

透明な身体が作る俳句の特長はもうひとつあって、それは身体自体に傾向や癖がないがゆえに、どんな環境であっても適応性が高い、ということだ。どこから来た球でも受け止めて巧みに打ち返す、そんな天才バッターという雰囲気だ。

 先頭はねむりはじめる蟻の列

 犀が水たまりを押してゐる彼岸

 菜の花やピーターパンはすぐ驚く

 ギターの穴浮かんでゐたり春の川

例えば、このような変幻自在さを持つ。でも一方で、こんな具合でも行ける。

 六月の劇団員が空作る

 焼却炉のつぎはぎの銀梅雨に入る

 憲法講座にハンガー多し春暮るる

驚くのは、どちらもなんとも無理のない感じがすることだ。ものすごくしなやかに身体を曲げて動いている、というか、ほとんど実は身体など存在しないのではないか、と思わせるような自在さ。大石さんの俳句は、端から端までどこでも行けて、しかもきわめてシームレス。しかも透明な身体ゆえか、いろんなものもよく見えている。

 夏障子破れて森が見えてをり

 絵屏風の山へ逃げゆく道細し

 光あるところを掃いて雛の日

透明人間には、普通の人に見えないいろんなものが見えているのかも知れない。いや、彼の〝作者当て名人〟ぶりから推察すると、それはたぶん真実なのだ。

繰り返すが、俳句という形式は基本的に環境と身体の掛け合わせによる「生体実験」のようなものである。しかし、その「生体実験」において、自分の身体をかくも透明化することによって、まるで透明人間のような自在さと鋭敏さを獲得した俳人はけっこう珍しい。

 夏痩せて小学校のなかとほる

この人の「夏痩せ」に騙されてはいけない。それはきっと、俳句仕様に合わせるべく彼が身体を透明化させていく前兆なのである。


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