2012-09-30

文法外の文法と俳句の文語(後編)  大野秋田

 文法外の文法と俳句の文語(後編)  

大野秋田



本論考は、『澤』平成24年8月号「文法外の文法と俳句の文語」を、加筆の上、前後編の形で再掲載するものです。

≫(前編)


二. 俳句の文語          

教科書の文法

昔の人は文法に対して存外柔軟な考えを持っていたのではないかと思われる。文法は従うべきものだが場合によっては破格も許されるくらいに思っていたのではないか。

正岡子規は『俳人蕪村』において「更衣母なん藤原氏なりけり」「我宿にいかに引くべき清水かな」、「大文字近江の空もたゞならね」の三句について「此等の俳句を尽く文法に違へりとて排斥する説には反対する者なり」と述べている。

外山正一が自作の詩の注に「繋り結び、テニヲハ等は、旧来の法則に拘泥せず」と記したこと、佐佐木信綱が「文法も変遷する」といい「文法の法則を破つてもよい自由」を説いたことは「已然形終止」(前編)に述べた。

宮地伸一『歌ことば雑記』によれば、斎藤茂吉は自作に「死にぬらむ」を使い、音調がよいからだと言ったという。それは「与謝野寛から、従来の文法的にはまちがいだが、新しい歌ではかまわぬだろうと教えられた」のだという。同書には土屋文明が「居れり」について「標準文語文法では違法ということになっているが、吾々の使う文法は、そんなことはかまわないのだ」と言ったことも書かれている。

また係り結びは中古の和歌では「桜花今日こそかくも匂ふともあな頼みがた明日の夜のこと(『伊勢物語』)のように結ぶ語の後に接続助詞が来るなどして結びが流れる以外は鉄則だったが、近代の韻文では同一の作者で、「ぞ・こそ」と係っても結んだり結ばなかったりする例ははなはだ多い。

明治時代には、標準語の制定、言文一致運動、漢字廃止論、ローマ字専用論、新しい文語文である普通文の創出等さまざまな国語改良運動があったから、この時代に育った人が文語文法といえども絶対的なものではないという考えを持っても不思議はないのかもしれない。

明治38年文部省が「文法上許容スベキ事項」を発表し、普通文といわれた当時の文語文にあった一六項の慣用を認めたとき、その「理由書」に「国語文法トシテ今日ノ教育社会ニ承認セラルゝモノハ徳川時代ノ国学者ノ研究に基ヅキ専ラ中古語ノ法則ニ準拠シタルモノナリ、然レドモ之ニノミヨリテ今日の普通文ヲ律センハ言語変遷ノ理法ヲ軽視スルノ嫌アル」としたが、これが発表されたこと、受け入れられたことは、文語文法も絶対的な法則ではないという考えが広く社会に存在したことを示している。

近代俳句短歌において、文法的上破格の名句名歌は数多く存在する。破格が意識的なものだったかどうかはわからないが、後に破格が指摘されても、それによって作品が価値を減じるということはなかった。作品が感動を与えるものであれば、文法上の瑕瑾は問題ではなかったのである。



二一世紀の今日、俳人の文法観はかえって厳格化していると思われる。

遠藤若狭男は、『俳句研究』平成20年冬の号の「俳句時評」で、自作の「われが癌とはすさまじや生くるべし(後に『去来』に入る)について、俳人某から文法の誤りを指摘され「蔑むような目を向けられた」ことを書いている。若狭男は音数律の問題から、また生きる決意を表すのに「生くべし」では不十分と考え「生くるべし」としたという。後述するが現代短歌ではラ変以外でも「べし」の連体形接続は珍しくないし問題にもならない。俳句では一つ覚えの誤用論に付き合って自作の意図まで説明しなければならない。

前稿で取りあげた池田俊二『日本語を知らない俳人たち』によれば、池田がある俳句の結社を退会する時、主宰に「高校一年程度の文法をご存じないような人を、これ以上師と仰ぐことはできません」と言ったそうである。(池田の書いたものを読むとほんとうに文法をご存じなのかと思われる箇所がいくつもあるのだが)

万事大様だったのは昔のこと、これからの俳人は突っ込まれたり弟子に逃げられたりしないように文法の勉強もしっかりやらなければならない。



よい文法の本が相次いで出た。昨年3月刊行の中岡毅雄『俳句文法心得帖』に続き、昨年12月に佐藤郁良『俳句のための文語文法入門』が刊行され、どちらもよく売れているようである。

中岡の本は俳句の文法書としては前例のないA5版である。活用表を手書きの太字にする、要点にイラストを使う、会話体の説明をまじえるなど読みやすい工夫がされている。

佐藤の本は『俳句』誌の連載時より注目していたが、単行本になったものを読んで改めてさまざまな配慮と工夫を感じた。文法の解説が明快で行き届いているのはいうまでもないが、教科書の文法から外れる文法も柔軟に扱っているところ(私などにはそれでもまだ厳しすぎると思えるが、「入門」の本だから原則がしっかり書かれている方がよいわけである)、俳句の文語が純粋な古語ではないことをきちんと指摘しているところなど我が意を得た思いがした。練習問題は平易にしてあり、容易に身につくようになっている。例句や練習問題の句には著名句もあるもののはじめてみる佳句も多いから楽しみながら読んだ。

付録の「文法間違い早見表」は、26の文法事項の正誤を判定した便利な表で、俳句短歌の文法書に前例のないものである。しばしば問題となる文法について明快な見解を示したものであり、重要な問題提起をしたものだといえるだろう。

安田純生『歌ことば事情』(平成12年)は、短歌の総合誌で文法の連載や特集が掲載されること、短歌教室や歌会が一面で文法教室の趣を呈していることをあげ、三〇年前と比べてその傾向が顕著になったとし、「文語が、人々にとって、いっそう遠い存在になってきたのであろう」と述べている。俳句の文法書が一年で二冊出てそれぞれが短期間に版を重ねるのも同様の事情からであろう。

理由はどうあれ俳人が文法に関心を持つのは俳句のためには喜ぶべきことである。俳句の文法は教科書通りのものばかりではないが、まず正格の文法を知らなければ違いを認識することもその是非を論じることもできないからである。



今回俳句の文法書を七冊ほど読んだが、それらは皆当然ながら高校の古典文法の教科書を下敷きにしている。

古典文法の教科書は中古の文法である。文法書によって正しい文法の知識が普及するのはたいへん結構だが、それは一面で中古の文法を絶対視し、そこから外れる文法を誤用扱いする風潮を生む。その傾向は以前より強まっている。

前稿「助動詞「し」の完了の用法」で、「」の完了の用法、今回、前編で「已然形終止」「カリ終止」「まじ」の未然形接続について述べたが、中古の文法にはなくても長い歴史を持つ文法の正用誤用は、変遷した歴史を踏まえて論じられなければならないだろう。

俳句の文法は中古の文法だけで成り立ってはいない。芭蕉「有難や雪を薫らす南谷」の「薫らす」は文語なら「薫らする」、口語なら「薫らせる」となるべきで、これは下二段型の使役の助動詞「す」を四段化させた破格である。芭蕉には「夜すがらや竹氷らする今朝の霜」もあり、「雪薫らする」とすることもできたはずだが調べに配慮したのであろう。この連体形「す」は使ってはいけないのか。

芭蕉「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」の連体形「死ぬ」は中古の文法なら「死ぬる」だが、口語「死ぬ」はいけないのか。秋桜子「羽子板の師直こそは売れ残る」は「売れ残れ」でなければならないのか。

すべてを中古の文法で割り切ろうとすれば「誤用」は続々出て来るし、「誤用」を一つ許容すれば、許容しなければならない「誤用」は続々出て来る。中古の文法のみを使って作句できる俳人は、おそらくいないだろう。中古の文法は大本の基準ではあるが、俳句の文法を中古の文法のみに限定することは不可能である。

俳句の言葉は昔も今も一〇〇%文語ではない。一切口語をまじえず作句できる俳人も、おそらくいないだろう。簡単な話が、「出る・出す」は使わない、必ず「出づ・出だす」を使う、口語の一段活用は使わない、必ず文語の二段活用を使う、という俳人はいるだろうか。

俳句の総合誌で、助動詞「」と文語を混用した句を口語がまじっていると批判しながら、「やうな」「さうに」「出す」を文語と混用した句はほめるという矛盾した句評を読んだことがある。混用に批判的な俳人も自作では気づかずにまじえているだろう。

口語を使うのが適正でないケースもいくらでもあるだろうが、混用自体は異端視されるべきものではない。俳句はもともと文語と口語を混用することを忌避しなかった。後述する。



俳句の文語というのははじめからかなりゆるいものであった。近世の俳諧は、和歌連歌とは異なる独自の用語の体系を持ち、それは文語という言葉で一括りにできるようなものではなかった。

俳句は文語でその文法は教科書の文法という考え方は俳句の言葉を狭くするものである。俳句は文語ではあるがどこまで文語なのか、またその文語の実態とはどのようなものなのかということはもっと考えられ論じられてよい。

念のためにいう。本稿は俳句の文法書を批判するものではない。よい文法書を得て正格の文法を知ることは俳句の文語のあらゆる問題を考える上での大前提である。



疑似文語

俳人の文法に対する考え方が昔より原則的になっているのは事実だが、その一方で、俳句の文語に疑似文語がしばしば使われているのも事実である。

そもそも言文二途に分かれた中世以降、規範通りの文語文を書けた者がどれくらいいたのだろう。尚古的言語観を強く持っていた兼好法師の『徒然草』の文法が中古の文法と違うことを指摘する論文はいくつもある。国語学の知識を備えた近世の国学者の擬古文ですらそれが指摘される。

阪倉篤義は「ことばの古さと新しさ」(日本語講座第六巻『日本語の歴史』)の中で「一般の文語文というのは、国語史的知識からすれば、さまざまの時代の要素の入り混ったぬえ的なことばを用いた文章が大部分」と述べている。

ぬえ的なことば」すなわち擬似文語が生まれて来る理由はわかりきったことのようで存外複雑である。それを明快に解き明かしている一節を紹介する。

文語体で文を綴る際には、既に成立している文語体の文章を規範とし、それに基づいて文を綴る作業をする。即ち、(規範とすべき文語体の文章A→「読む」→〈規範〉→「書く」)という過程を経る。この文章Aが、古い時代の言語である場合にもそれがそのまま規範化されるわけではない。「読む」という作業が媒介しているが、この「読む」がその時代の言語を基礎にしてなされるために、その影響をかなりの程度に受けざるを得ない。更に、「書く」段階にある、書き手の習慣、創造の意欲も加わり、新しく書かれた文語は、もとの文語体との間に隔たりが生じてくる。(山口明穂・「文語体」『国語学大辞典』
パターンとしての文語の形は、ひとたび成立すると、それ自体が一つの典型としての権威を持つことになって、後代の人は、直接には、これをモデルとして文語文を書くことになる。もとそれが、誤解に基づく「擬古語」であったとしても、その事情はもはや忘れられて、本来の古語であるかの如くに、文語の世界に受け継がれて行く。(阪倉篤義・前掲論文)

これらは、文語一般についての指摘だが、現代の俳句短歌に擬似文語の生まれてきた筋道を驚くほど的確に言い表している。また安田純生の「現代短歌の文語体は、口語を、作者が文語形と信じていることばに置き換えたものという傾向が強い。本質的には口語表現であって、それに文語の衣装を着せているともいえる」(『歌ことば事情』)という言葉は、もっとも端的に現代短歌俳句の疑似文語の生まれ方を言いあてている。

短歌の世界では、近現代短歌の文語の語彙・文法に、規範とした中古語とは同じでない擬似的なものが数多くあることは以前から認識されていた。

米口實『現代短歌の文法』は現代短歌の用語が擬似古典語だということを繰り返し述べている。前稿の最後に紹介した宮地伸一、安田純生の五冊の著作は、近現代短歌で誤用も含め、いかに多くの文語が語彙・文法両面において新たに作られたかを教えている。近現代の歌人が、その複雑な感情や想念を大昔の言葉で表現しようとすれば無理な使い方をせざるをえなかったのは当然で、また理解の不足や文法研究の時代的限界から生じる誤用もあり、その積み重ねが知らず知らずのうちに短歌の文語に擬似性をもたらしたのである。



俳句は短歌に比べれば疑似文語は少ない。詩型が短く、季語が入り、雅語を嫌い、用言助動詞副詞の使用が少ないからである。

短歌にも共通して存在するのだが、現代の俳句でよく見られる擬似文語の例をいくつか挙げる。「来し」は古語では「こし」である。(「来し方」には「こし」「きし」二通りあった)明治の短歌でもほとんどは「こし」である。しかし現在、多くの俳句は平仮名表記では「きし」としている。四段上二段動詞が上に来るとイ段の音が三連続して音韻上不都合はないのかと私などは思ってしまうのだが平仮名表記は「きし」が圧倒的に多い。口語「来た」に引かれるのだ。(この問題は安田純生『現代短歌用語考』が詳述している。宮地伸一『歌言葉雑記』中の「コシとキシ」は、「新アララギ」のホームページの「短歌雑記帳」二〇〇二年六月で読むことができる。ちなみに今年の歌会始の御製は「津波来(こ)し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」であった)

また神や皇子の誕生、神の出現に使われた「(生・現)」を生まれるもの、現れるものなら何にでも使う。また「食べる」に相当する古語は「食ふ」だが謙譲語「食ぶ」を使う。現代語では「食う」はぞんざいないい方で普通は「食べる」だが、古語も同様に考えてしまうのである。

また動作の継続や状態の存続を表す補助動詞「ゐる」をそのままの形で、あるいは「…していた」の意味で「ゐし・ゐたり」の形にして盛んに使う。

ゐる」は上代では座っている、とどまっているなどの意味の動詞で、後に存在動詞化、補助動詞化したのだが、それとて中古の用例までは座っている、とどまっているなどの意味から完全に離れたものではないという。(小学館『古語大辞典』たがって現代俳句の「ゐる・ゐし・ゐたり」はほとんどが疑似文語である。

ゐし・ゐたり」は口語と文語を併せたものだともいえる。同様のことは「をり」にもいえる。動詞「をり」は「一定の場所にある状態で存在する(小学館『古語大辞典』意である。

松岡静雄『歌学』(昭和五年)は、補助動詞「をり」について「動詞と連ねて存在の意を表示する場合には、住ミアリの如くアリ(在)を用ひることを例とし、居リは『月に向かひ居り』のやうに明に『居』の意を表明する必要のある場合の外は用ひられぬ」として「花咲いて居り」「見て居り」「疲れ居り」「光り居り」「結び居り」などは「語法からいへば重大なる過誤である」としている。

また存続の意味で「ありぬ」「をりぬ」「ゐぬ」という終わり方をする俳句をしばしば見るがこれも「あった」「いた」を文語風にしたものであり、古典にこんないい方はない。「ありぬ」は「ありぬべし」(「ぬ」は強意・確述)からの類推で生じたのであろう。

これらの怪しい文語の擬似性が意識されにくいのは読みや意味の問題であり、活用や接続の問題ではないからである。『日本文法大辞典』の「文語」の項に「文語文という場合、使用語彙も無視できない要素ではあるが、主として語法によって口語文と区別している(「語法」とは文法のこと)とあるが、俳句や短歌の文語でも同じである。俳句短歌の文語で問題になることのほとんどは、文法、それも活用と接続とが文法的に正しいか否かということでしかなかった。

「…そうだ」「四角い」という口語として生まれた言葉を「…さうなり」「四角き」と文語の活用にしたり、「煮詰める」という一段活用として生まれた言葉を文語めかして「煮詰むる」と二段活用にしたりすることまで行われる。活用と接続が中古の文法に合ってさえいれば文語とされる。文語とはまことに「ぬえ的なことば」であった。



現代短歌は、活用と接続においても一線を越えている。

『短歌の想像力と象徴性』(短歌と日本人Ⅶ)中の座談会「文体」で、小池光は「でも現代短歌では『春は来べし』は百パーセントなくて、『春は来るべし』で流通して全くおかしくないというのが短歌の文語ですから、文語と思っているものが実は文語ではなくて、現代短歌語なんです」、永田和宏は「誤用も含めて実験だと思います。文法なんて、本来そういうものでしょう。みんな文法に照らしてこれは正しいとか誤用だとか言うけれど、最初から文法があって、みんながそれに従ってきたんじゃなくて、慣用を最大公約数として体系化したのが文法なんですよ」と述べている。

安田純生『現代短歌のことば』には「べし」以外にも「まじ」や「らし」や「らむ」のラ変型以外への連体形接続、「死ぬ」や助動詞「す」の四段化等々の例があげられている。



俳句の文語

文語、疑似文語、口語、一首中の文語口語の混用、文法の破格―現代短歌の用語・文体は驚くほど奔放なものになっている。岡井隆は、昭和44年刊の『現代短歌入門』(書かれたのは昭和36年~38年)に、「定型とは、自然のままの言葉の配列や用語法を否定しないでは成立しない詩型」といい、「口語と文語、古語と新語、外国語と日本語、和語と漢語」といった既成の分類を超えた「短歌語の体系」が必要といったが、50年後の今日、その「短歌語の体系」は実現している。

俳句と短歌の文語、というより俳人と歌人の文語観はだいぶ違ってしまった。しかし歴史的に見れば、俳句は、近世の俳諧の段階に、すでに現代短歌のように 奔放な「俳諧語の体系」を持っていたのだった。カステラやメリヤスやフラスコなどの外来語も使った。惟然や鬼貫は口語の句も作った。

近世俳諧の用語、文法の自由さををよく教えるのは、新日本古典文学大系の『芭蕉七部集』(平成2年)と山田孝雄の大著『俳諧文法概論』(昭和31年)である。

 『芭蕉七部集』の付録の上野洋三「七部集の表現と俳言」は、従来貞門談林の俳諧において論じられることの多かった「俳言(はいごん)」を蕉門俳諧に及ぼして論じ、また俳言の範囲について深く考察した画期的な論考である。上野がなぜ蕉門俳諧の俳言の研究に取り組んだか、今までなぜ蕉門の俳諧で俳言が論じられなかったかについては上野自身の言葉を読まれたい。俳諧の用語の特質は「俳言」にあった。和歌・連歌に使われた「雅言」ではない言葉のすべてが「俳言」である。

俳言については、国文学者では潁原退蔵、栗山理一、中村幸彦、乾裕幸、俳人では仁平勝の諸家が論じているが、具体的な言葉のレベルでは説明が十分とはいえず、名詞(特に漢語・仏語)や俚諺が取りあげられことが多かったが、それ以外での俳言の範囲がわかりにくかった。国文学者の場合、詠まれた題材や事柄が、俳言に属するか否かが問題で、活用語や助詞などの国語学に属する事項は関心の対象外だったのであろう。

中村幸彦は「俳言とその流れ」(『中村幸彦著述集』第二巻)に「語史的には雅言と同根同源であっても、近世に近付いて語形語法を異にした日常語など」と述べ、名詞や諺以外にも活用語や助詞も含まれることを指摘したが、具体的なものではない。この論文には俳言の例として『猿蓑』「市中は」の歌仙の表六句から「市中」「門」「二番草」「うるめ」「不自由」「とひやうし」を、『炭俵』「振売の」の歌仙の表六句から「振売」「鴈」「ゑびす講」「やすみ」「番匠」「小節」「片はげ」「好物」「割木」を挙げているが、活用語は「やすみ」だけである。

この『芭蕉七部集』は白石悌三と上野洋三との校注だが、上野担当の『冬の日』『春の日』『あら野』『続猿蓑』では一句ごとに脚注で俳言を指摘したため俳言が具体的にわかるようになった。

『続猿蓑』の、芭蕉「八九間空で雨降る柳かな」「夕顔や酔てかほ出す窓の穴」「盗人にあふた夜もあり年の暮」、支考「涼しさや縁より足をぶらさげる」、千川「しら梅やたしかな家もなきあたり」、一道「はいるより先取りてみる落葉哉」、宗比「山鳥のちつとも寝ぬや峰の月」でいえば、名詞「八九間」「」、口語の助詞「」、口語の動詞「出す」「ぶらさげる」「はいる(はひる)」、口語の助動詞「」と「あふた(あうた)」の音便、口語の形容動詞「たしかな」、口語の副詞「ちつとも」は俳言である。

当時の人に文語口語という概念はないが、和歌連歌が絶対に使わないこれらの口語を俳言という意識で使ったのである。これらの句はすべて文語と口語とを混用している。近世の俳諧でも近現代の俳句でも文語口語の混用はごく普通のことだが、その淵源は俳言である。

中村「俳諧の客観性」(前掲書)に、蝶夢編『蕉門俳諧語録』中の支考の「『渡し舟堤に見ゆる人待ちて、俳言侍るや』と人の問ひしに、人が渡舟まつとは連歌の心なり。渡し船が人を待つとは俳諧のかぎりなり。さる人は『堤に見えた人まつて』など、詞のあるを俳諧と思へるなるべし」という言葉が引用されている。

これは支考が、句の俳諧性は俳言にのみ由来するわけではないことを教えた箇所だが、質問者は「見えた」「まつて」などの言葉があってはじめて俳諧になると思っているのだろうと述べていることから口語の活用語や音便も俳言であったことの例証となる。

中村「俳言とその流れ」は俳言の意義を明快に述べている。

連歌に対して俳諧の一道を樹立する立場に立った松永貞徳は、人びとがそれに魅力を感じていた庶民性、自由性、滑稽性の三要素を、明確に掲げて、人びとをこの道で導いた。実作においてもその三要素を可能ならしめる第一のものを、俗語の使用にすえた。そして貞徳はこれを「俳言」と称した。『御傘』でいう俗言である。(中略)この貞門俳諧に起こった俳言の使用は、俳諧の歴史の続く限り、決定的な条件として、談 林、蕉門、そしてそののちのちまでも守られたのである。そういう意味では、俳諧とは俳言の詩だと定義してもよいとさえいえる。  

「俗語」は今でいう俗語(=あらたまった場面では使われないくだけた言葉)やスラングのことではない。「世間一般の人が日常に用いることば。詩歌文章に用いる雅語の対(『角川古語大辞典』)である。それが俳言であった。

卑俗なもの日常卑近なものから漢語仏語、また雅語同然のものまで幅はあるにせよ、また門流によって変化はあるにせよ、従来の詩語には使われなかった言葉ということでは一貫していた。言文二途が進行した中世以降、和歌連歌の言葉は雅言だったから、俳諧が俳言=俗語=日常語を使ったのは破天荒な文学的事業であった。「俗語を正す(『三冊子』)、「俗談平話をたゞさん」(『二十五箇条』)は俳言を詩語に高めようという思いを述べた言葉である。



山田孝雄『俳諧文法概論』は、主に「用言と助詞」(山田文法では助動詞も用言)の用法を、多くの例句(芭蕉、鬼貫、蕉門、蕪村等々)を挙げて説いた本である。緒言において「俳諧といふものは大体文語の法則によるのが標準であるが、その間に於いて往々俗語や破格の語遣ひを交へてゐる」と述べている。「破格」はもちろん文法上の破格である。破格という指摘は再々出て来る。

「俗語」は右に述べたとおり和歌連歌に使われた雅言ではない言葉。文法に関していうのだから多くは口語である。口語では、文語の二段活用でなく口語の一段活用を使った例句を、芭蕉「むめがかにのつと日の出る山路かな」、許六「涼風や峠に足をふみかける」等実に89句挙げている。現代俳句でも二段活用の重さや古さを嫌って一段活用を使うことは普通だが、俳諧は盛んに行っていたのである。

口語の助動詞「」を使った例句を丈草「水底を見てきた皃の小鴨哉」、其角「初桜天狗の書いた文みせん」等35句挙げ「頗る頻繁に用ゐらるゝ」としている。口語の助詞「」を使った例句を芭蕉「かげ清も花見の座では七兵衛」、「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」等63句挙げている。他にもさまざまな口語を使った多くの句を挙げている。

また、主格「」を使った句で、「独立性の句の主格」の例句を芭蕉「稲づまやかほのところが薄の穂」、暁臺「乙女子が御衣打つらし神の石」等37句挙げ、「付属性の句の主格」を14句挙げている。主格「」は、来歴が複雑で、用法に制約のない今と同じような主格助詞となったのは室町時代とされる。山田は口語とはしておらず、連歌にも稀にあるから俳言ではないが、中古までの「」の用法とは違い、口語といってよいものであるから引用しておく。(本書は古本でも高価だが、東京では都立区立図書館中の九館が架蔵し、地元の図書館を介して借りられる)

『岩波現代短歌辞典』の「口語と文語(俵万智)は「サラダ記念日」以後の短歌について次のように述べる。

俵万智の短歌は、ときに文語をまじえ、また、かたくなに定型を守ろうとしている。さらに俵の場合は、会話を多く取り入れることによって、口語と定型をなじませる工夫を、積極的におこなった。(中略)さらに90年代に入ると、ほぼ100パーセント口語の世代が現れる。(中略)口語か文語か、という選択ではなく、いかに効果的に口語を取り入れ、文語を取り入れ、それぞれをどう生かすか、というところへ現代短歌はたどりついたのだ。

短歌の口語化の運動は明治時代からあったが、規模は小さく長続きはせず浮かんでは消えた。現代の短歌の口語化は空前の規模ですでに長期にわたっており、完全に定着したものといえる。特に一首中に文語と口語を混用する短歌は年代を問わず作られている。



現代俳句の「口語と文語」はどうなっているだろう。

いうまでもなく文語の句が圧倒的に多いが、それらも総じて文語という印象を薄めるような作り方をしていると思われる。

一句中の文語の量が少なくなったというわけではない。俳句は短い上に季語もあるから、もともと一句中に文語と特定できる語は一語か二語という句が多かった。昔の文語の名句のような、いかにも文語らしい格調を持ち、重厚なあるいはうねるような朗々誦すべしといった調べの句は少なく、軽快で明るく、文語の句でありながら口語的な印象を受けるような作り方をする句が多いのである。また作者の意識はどうあれ文語口語の境目のない句もきわめて多い。

豊里友行「髭を剃るサーフィンのように飛蝗湧く」、神野紗希「冬の水流れて象の足下へ」。両句の動詞助動詞助詞は文語口語に共通して存在する(「ように」「流れ」の連用形は同形)ものであり、文語の句ともいえるし口語の句ともいえる。

また文語口語混用の句も多い。矢野玲奈「会はないと決めし日に巻く春ショール」、山口優夢「鳴り出して電話になりぬ春の闇」、谷雄介「寝た順に起きてくるなり猫柳(例句はいずれも『新撰21』これらは一見して混用がわかるが気づきにくい混用もある。また完全な口語の句や口語会話体の句も珍しいものではない。

現代俳句の文体は多彩だが、俳句という詩型の表現の特質から考えても、俳句が短歌のように著しく口語化していくことはないだろう。俳句は、文語を守りながら文語色を薄め、口語ないし口語を感じさせる言葉を取り入れて文体の現代化をはかっているのだといえる。

俳句の文語がこれからどうなっていくのかわからないが、俳句の言葉のあり方を考えようとするとき、近世の俳諧の言葉の自由さは一つの指針となるであろう。

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