2012-09-16

〔俳句関連書を読む〕中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』 猫髭

〔俳句関連書を読む〕
中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む……猫髭


渡邊白泉は、生前は「反ホトトギス」の新興俳句運動の旗手と謳われるほど注目を集めたのにも関わらず、軍国主義の台頭で治安維持法により弾圧され、出るはずだった句集も出せず仕舞いという、「ツイていない俳人」だったが、そうツイていないわけでもないと思わせる本が出た。中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』(春陽堂)がそうである。

白泉の俳人としての業績は、白泉に師事した三橋敏雄が白泉没後に編んだ『渡邊白泉全句集』(沖積舎)が、初出誌に可能な限りあたって丹念に編まれた初出発表順句集と白泉自筆稿本による『白泉句集』、及び白泉が加わった三吟歌仙一巻を併載した決定版だが、如何せん、定価8400円は高過ぎておいそれと手が出ない。

本書は、その『渡邊白泉全句集』を定本に、全作品約千三百句の中から百句を精選した袖珍本で、それぞれに七行ほどの解説を付したものなので、あとがきまで155ページのそれほど厚い本ではないし、一気に読める。新書版をひとまわり大きくしただけの小冊子にも関わらず、紙が片手で読んでも親指でめくるのに適した硬さで、タイトルの『疾走する俳句』に連動した、疾走するように読める作りになっていることもある。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という代表句を記した腰帯が読むのに邪魔なので外すと、印刷された黒い腰帯が現れて、そこに白泉の代表句が白抜きで十一句並ぶという懲りようで、写真も白黒だが多数収録されていて、これで1400円というのはリーズナブルで、白地に赤いタイトルのシンプルな作りながら、白泉に対する並々ならぬ思い入れが溢れた一冊だということがわかる。どれだけ業績が優れていても、誰でも手にとって読めるという袖珍本がなければ、去るもの日々に疎しである。作者中村裕は三橋敏雄に師事とあるので、白泉の孫弟子にあたるから、白泉は時代には「ツイていない俳人」だったとしても、弟子たちには「ツイている俳人」だったといえる。なお、三橋敏雄は西東三鬼に終生仕えた俳人だが、彼を三鬼に紹介して師事する事を薦めたのは白泉である。

目次をくくると、採り上げられた百句が四ページに亘って並ぶ。この百句の多彩さに驚く。発表順に恣意的に引いてみる。治安維持法による弾圧(これには俳人側の密告も重なるので、一概に権力側の強制だけとは断じられない)を受けたために、当時の時勢も参考までに挿入する。作品の表記は旧字旧仮名と新字新仮名が混在するものがあるが、それは戦後の新字新仮名に変更した時代の流れで是非ない部分もある。わたくしの母も旧字旧仮名変体仮名で育ったので、未だに新しい字ではどう書くのかと尋ねることがある。

大正2年3月24日、東京都赤坂生れ。本名は威徳(たけのり)。中学四年の時『子規俳話』に接し、蕪村に魅了され、やがて自分でも俳句を作ってみようと思い立つ。

白壁の穴より薔薇の國を覗く 昭和4年 16歳

街燈は夜霧にぬれるためにある 昭和9年 21歳

鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 昭和10年 22歳

昭和12年7月、日中戦争勃発。

われは恋ひきみは晩霞を告げわたる 昭和12年 24歳

銃後といふ不思議な町を丘で見た 昭和13年 25歳

憲兵の前で滑って転んぢゃった 昭和14年 26歳

戦争が廊下の奥に立ってゐた 昭和14年 26歳

昭和15年2月新興俳句(「京大俳句」)弾圧事件。5月白泉検挙。8月三鬼検挙。白泉は三ヵ月後起訴猶予となるも、執筆禁止となる。

昭和16年12月、対米英大東亜戦争開始。

庭中にまはりてふるや春の雪 昭和18年頃

鳥籠の中に鳥飛ぶ青葉かな 昭和18年頃

昭和19年6月応召。横須賀海兵団入団。

めつむりて打たれてゐるや坊や見ゆ 昭和19年 31歳

夏の海水平ひとり紛失す 昭和19年 31歳

昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾による大東亜戦争敗戦日。翌15日玉音放送。

玉音を理解せし者前に出よ 昭和20年 32歳

新しき猿又ほしや百日紅 昭和20年 32歳

砂町の波郷死なすな冬紅葉 昭和23年 35歳

昭和25年6月朝鮮戦争勃発。

まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました 昭和25年 37歳

昭和27年4月。サンフランシスコ講和条約締結による国際法上の大東亜戦争終戦日。

昭和28年7月朝鮮戦争休戦。

昭和29年3月、米軍の水爆実験により第五福竜丸被曝。

地平より原爆に照らされたき日 昭和31年 43歳

万愚節明けて三鬼の死を報ず 昭和37年 49歳

あぢさゐも柳も淡き雨のなか 昭和39年 51歳

極月の夜の風鈴責めさいなむ 昭和39年 51歳

松の花かくれてきみと暮らす夢 昭和40年代

おらは此のしっぽのとれた蜥蜴づら 昭和40年代

谷底の空なき水の秋の暮 昭和40年代

昭和44年1月30日、バスに乗ろうとして転倒した際、脳溢血を起こし死去。沼津市立沼津高等学校教諭。享年55歳。

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白泉と言えば、腰帯に代表される戦争俳句が最も有名で、無季口語俳句というイメージが強いが、有季定型俳句あり、俳諧趣味の俳句あり、これほど多彩にひとりの俳人が俳句を自在に詠んだというのは、珍しい。しかし、唯一というわけではない。

新興俳句の拠点である「京大俳句」を興した俳人たちで言えば、昭和6年刊の『高浜虚子選 日本新名勝俳句』で「帝国風景院賞」に輝いた、

  噴火口近くて霧が霧雨が 藤後左右

の藤後左右が奔放さでは白泉に引けを取らない。

  夏山と溶岩(らば)の色とはわかれけり 藤後左右(昭和5年)

と、これは桜島を詠んだ句だが、白泉も、

  溶岩は太古のごとく朝焼けぬ 白泉(昭和9年)

と本籍の富士河口湖町の溶岩を詠んでいるので、白泉も左右の句を知っていた可能性も高い。左右は「京大俳句」を興した俳人の一人で、白泉は「京大俳句」に投句していたために第二次京大俳句弾圧事件で捕まっているので、知らない筈はないと考えるのが自然だろう。

左右の溶岩の句はルビが英語の「らば」だったので当時は新鮮だったのだろう、虚子親子も溶岩を詠んでいる。

  溶岩に秋風の吹きわたりけり 高濱虚子

  溶岩色(らばいろ)を重ねて古りて冬ざれて 高濱年尾

年尾の句は「溶岩(らば)」だから、明らかに左右の先例を踏まえて詠んでいる。

京大の学生だった左右は、誘われて余技で始めた俳句で「ホトトギス」の巻頭を飾るという、本人も驚くデビューを飾るが、彼が「ホトトギス」輩出の俳人たちの中で異才を放っているのは、卒業するや「京大俳句」という新興俳句の立ち上げに参加して、以降は奔放な口語俳句を詠み始めることで、

  スラバヤを出しな軍刀にけつまづいた 左右(昭和17年頃)

などは、逆に左右が白泉の「憲兵の前で滑って転んぢゃった」を踏まえて詠んだようなおもむきがある。軍刀とは軍人の魂であり、軍旗を跨ぐなどと同じで、見つかったら軍法会議ものであるが、御両人、どちらも舌を出している。

左右は、晩年まで、

  新樹並びなさい写真撮りますよ 左右

といった飛んでる俳句や、

  裁判長浜が消えたから貝も消えました 左右

といった公害俳句の破天荒な句ばかり詠んでおり、その句柄の変遷は、俳句の振幅の大きさでは白泉に匹敵すると言える。しかし、左右は「誰もやったことのないこと」に憑かれたように猪突猛進する、破天荒で無邪気でエネルギッシュで面白過ぎるほど愛すべき「ツイている俳人」なので(「京大俳句」を興した一人なのに、事件当時、左右は医業に専念していたため逮捕は免れている)、同じように有季定型俳句から始めて無季口語俳句も詠んだとはいえ、死ぬまでそれらを並行して、その時の日常にあわせて読み続けた白泉とは、表現の振幅の大きさでは同じように比類ない才能を持ちながら、「行きっぱなし」の左右と、「往還」する白泉とでは全く質が違う。左右の破天荒な俳句に興味がある向きは、関悦史の『藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた』を参照願いたい。「べつに御中虫の句ではない。」といった関氏の解説に笑えるような句を左右は詠んでいる。

「行きっぱなし」と「往還」の違いはあるが、この二人は、いわゆる戦意高揚のためだけの翼賛俳句を詠んでいない。文学者の戦争責任の問題は、『転向』(平凡社)として戦後話題になるが、飯田蛇笏の句集『白嶽』など、病死や戦死した自分の子どもたちを詠む、魂で詠んだとしか思えない痛烈な句に混じって、今詠むと、これがあの「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」の蛇笏が詠んだとはとても信じがたい翼賛俳句も多々あり、俳壇では「転向」問題は喧しくなかったのだろうかと不思議に思ったほどだった。新興俳句の山口誓子もシンガポール陥落の際は戦勝俳句を詠もうと苦吟しながら夜徘徊していたら不審者で誰何された体験を随筆で書いていたから、長谷川素逝のように優れた戦場句を詠む俳人もいたが、蛇笏のような「ホトトギス」生え抜きのトップクラスの俳人すらもが数多の翼賛俳句を詠んでいた時代だったから、銃後俳句も戦場俳句も、白泉も左右も詠んでいるが、翼賛俳句だけは詠んでいない、という意味で、特筆される俳人だと思う。あとは平和でなければ俳句は詠めないと完全に句断ちをした原石鼎ぐらいしか、わたくしは寡聞にして知らない。橋本夢道も詠んでいないが、投獄されていたので発しようが無いということはある。獄中で、

  大戦起るこの日のために獄をたまわる 夢道

と詠んでいるくらいで、こちらは筋金入りの一徹プロレタリア俳人である。橋本夢道については、甥の殿岡駿星が書いた『橋本夢道物語』(勝どき書房)が無類の面白さなので、興味のある向きはそちらを参照願いたい。

白泉に戻れば、白泉の句の自在さには、時に「玉音を理解せし者前に出よ」といった一見一喝するような句はあるが、では天皇に対する弾劾句かというと、戦場で幾多の戦友の死を見てきた白泉が、死者の代弁をするような思い上がった句を詠むとは思えない。死者に対して生き残った自分も含めての権威を振り翳す生者への皮肉であり、自分を安全圏に置いて詠んだ句ではないように思える。要するに、「上から目線の句」は白泉は詠まない。というより詠めない。常に地べたから詠んでいる「下からの目線の句」である。

白泉の多彩な句の根幹にあるのは、この「常に自分の目線の句を詠む」という一貫した姿勢であり、常に自分が居る場所、自分が日常に暮らしている場所から言葉を発しているという詠み方だと思う。銃後でも、戦場でも、恋でも、家族でも、死でも、自分を巻き込むものごとに対して、常に自分はこう感じる、こう思うという姿勢を崩さない。有季も無季も、文語も口語も、その違いには拘泥せず、そのつどの自分の思いを満たす受け皿であれば自由に歌い分ける。

ただ、多分シャイなひとなのだろう。暴力を憎むひとなのだろう。しかし、腕力の無いひとなのだろう。心優しいひとなのだろう。えらい意見にゃ頭が下がる、下がりゃ意見は上通ると、弱い自分を守るために、韜晦し、酩酊し、ひとりごつように、俳句を詠まなければならなかったひとのような気がする。

それが渡邊白泉の銃後俳句や戦争俳句が、あの強制の時代にあって、数多くの翼賛俳句の中で、最良の俳句として今も輝き続ける理由かもしれない。現に、翼賛俳句の数々は、詠んだ本人や弟子たちが戦後封印しているのか、文学者の戦争責任という『転向』問題としては出て来ない。例えば、蛇笏は翼賛俳句を詠んだが、息子の飯田龍太もまた中学校四年の時、これは白泉が俳句に志した年齢でもあるが、

  熱き銃後の真心あれば 満州吹雪もなんのその
  銃後固けりゃお国のために 心置きなく花と散る

という翼賛標語を残しているから(有泉貞夫「俳人蛇笏・龍太と戦争」山梨ふるさと文庫)、ばりばりの翼賛親子だが、『飯田龍太全集』(角川書店)では全く触れられていない。作者の中村裕が飯田龍太が白泉の風鈴の句を執拗に貶めていると本書で触れて、なぜそれほどけなすのか不思議がっていたが、

  くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏

  極月の夜の風鈴責めさいなむ 渡邊白泉

では、どう見ても俳句としては蛇笏の句の姿の方が美しいが、蛇笏と白泉では、俳句の言葉の出所が全く違うので、白泉の句の方に詩情をびんびん感じるという人もいる。真冬の風鈴の音が現実と切り結んでいる不安の象徴のように聞こえれば、それは句の姿が美しいとか美しくないとかではなく、生きている息苦しさのリアリティとして響くということになる。龍太が白泉の句をわからないのは、というか、わかりたくないのは、白泉の句から立ち上る、今なお銃後を戦争を生きている、そういうリアリティが、翼賛俳句や翼賛標語を素通りして清算しなかった龍太には不気味に思えるからではないだろうか。

中村裕は『やつあたり俳句入門』(文春新書)という本があるように、やたらとやつあたりする癖があり、新興俳句に肩入れする余り、入れ揚げ過ぎている箇所もあり、勇み足もあるとはいえ、本書の百句解説と白泉小論には、この不遇の俳人の真価を何とかわかってもらいたいという、いじらしいほどのパッションが感じられて、読んでいて、いろいろと考えさせられることも多々あり、普通のアンソロジーではここまで白泉の凄さがわからなかったのは事実である。

中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』は、庶民の暮しを脅かす様々な「順応を強いる圧力」に対して、俳句の自由を守った一俳人の記録でもある。

白泉の俳句の多彩さは、白泉が蕪村から入ったように、古俳諧の研究者でもあったため、俳諧の奔放さを受け継いでいるのかも知れないということを思い出したので、最後にそのことについて触れたい。

白泉の句業を世に広く知らしめたのは、三橋敏雄の『渡邊白泉全句集』の前に、昭和32年刊の『現代日本文學全集91 現代俳句集』(筑摩書房)があり、その選者であり、藤後左右や橋本夢道も掲載する慧眼の碩学で、巻末の名論として名高い「現代俳句小史」を著わした神田秀夫がいる。彼は「俳道所思」(「俳句」昭和39年8・9月号掲載)の中で、西鶴の『好色一代男』、芭蕉の『奥の細道』、蕪村の『春風馬堤曲』に触れて、「俳諧は美の拡充者だつた。何しろ相手どつたのは和歌だけなんだから、和歌でさへなければ何やつたつて構はないと、独吟あり、俳文あり、川柳あり、したい放題だ。これが俳諧本来の姿だつたのである」と述べたあとで、こう言い放っている。

明治になつて、ヨーロッパ文化の潮流に足もとを洗はれると、俳諧は俄かに萎縮して自己限定を始め、連句を切捨てて、「俳句」と称し、新傾向―あれは「俳句」ぢやない、新興俳句―あれも「俳句」ぢやない、前衛―あれも「俳句」ぢやない。
一体、何が起つたといふのだ。ただ、ひとりで堅くなつて、悴んでゐるだけの話である。籠の口はあいてゐるのに、籠の中の止り木をつかんではなすまいとしてゐる小鳥のやうな美の縮小者、―これが俳人か。
神田秀夫が『現代日本文學全集91 現代俳句集』に白泉を入れたのは、白泉を新しい美の拡充者として、「この俳人を見よ」と差し出したのである。



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