2012-10-07

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 7 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 7 〕


小林苑を


『里』2011年8月号より転載

木槿夕雨こんなところに赤ん坊
  飯島晴子『春の蔵』

我が家の木槿はようやく花芽がついたところだ。六月の雨は鬱陶しいが、木槿が咲く頃の夕方の雨は爽やかな感じがする。サッと降ってくると、辺りがふいに翳り、雨の匂いに囲まれる。

俳句を始めた頃、通っていた講座では、毎週、講師の森田緑郎先生が佳句十句を選んでこられ、受講生に好きな句を講評させた。或る日の十句の中に、「こんなところに」という措辞の句があった。どんな句だったかは忘れてしまったが、「こんなところに○○○、という形は近頃よく見かける云々」と話されたことは印象に残っている。

そのときの話は、初心者の私にはすこぶる興味深かった。なんてことはない、「こんなところに」で七文字、季語で五文字を当てはめてしまえば、勝負は五文字の斡旋だなァ、なにか意外性のあるものを置けばいいのか、と安直に考えたのである。

コンピューターを使って俳句を作るという試みがある。登録した語彙がコンピューターによりランダムに組み合わされて句ができる。人間では思いつかないような組合せが面白い句を産むかもしれないというわけだ。五七五の定型がこんな試みを可能にするし、やってみたくなる所以でもある。こうしでできた句を読み取ろうとすると、つくづく人間は言葉の意味や文脈の呪縛から逃れられないものだと思うと同時に、それこそが言葉による表現の妙味だと気づかされる。

意味をなさないように思われる言葉の組合せから伝わってくるものを読み取ろうとするとき、読み手にねじれが起こる。快か不快か、どちらにしても常とは違う感覚に襲われる。逆にいえば、意味をなさないと思われる言葉の組合せから伝わるものがあるとき、それは作品として成立する。

「わが俳句詩論―自伝風に―」〔※1〕で、晴子は定型についてつぎのように述べる。
「五・七・五でつくられる世界がこれまでにきめた色合い、感触・雰囲気などなどと、どれだけ異質のものを現出することが出来るかというのが私の興味である」「五・七・五によって決められている世界を脱するのは、当たり前のことながら言葉の力によるしかない。今までから在る言葉の体系を五・七・五に乗せていたのでは、作品は今までから在る時空より出られない。言葉を定型に逢わすと、言葉はそこでさまざまの反応を見せる。単語と単語とをただ合わすより、単語と単語を定型において合わすほうが、要素が一つ加わるわけだから、より屈折した、複雑な反応の様相が得られる。…(略)…さまざまな反応の中から、別の体系を掴みだすことも可能なはずである」
別の体系を掴むとは、当時でいえば前衛的姿勢ということになるだろうが、晴子はなによりも自分自身の精神の問題なのだと語る。既成のあらねばならぬ自分から解き放たれたいと切望する。

定型という制限があることで、意味の体系から逃れ(晴子は「既成の本意を越える」という〔※2〕、放り出された十七文字。読み手は手懸りを与えられるだけ。そこから紡ぎ出せるものがあったとき、なにかを手にしたと感ずる。なにかとはずいぶん乱暴ないい方だが、そのなにかこそが作者のいわば主題なのであって、俳句形式に依ってはいても、それはさまざまななにかだ。ときには、作者を離れてなにかが生まれるかもしれない。

掲句に戻ろう。まず「木槿夕雨」と七文字の字余りで、「木槿」+「夕雨」はひとかたまりの言葉として飛び込んでくる。夏の盛りに、木槿は枝を張ってたっぷりと花をつける。そこに雨。映像的な場面設定である。第二回の「キャベツ」+「一望」第三回の「春」+「山火事」にも見られる助詞を省いた複合名詞とでもいうべきもの。絵画や写真よりも映画の一場面を思わせるのは、これらの中には時間があるからだろう。省略された助詞は読み手に僅かな時間を与えるし、字余りとは時間の長さでもある。

初心の頃といえば、俳句は一瞬を切り取るものと教えられるが、実作品においては必ずしもそうではない。掲句でも、むしろたっぷりと夕雨を見せたあとに、「こんなところに」と転じる。赤ん坊はごく普通に窓際のベッドなんかに寝かされているのだろうが、一句の中では、木槿夕雨という屋外の空気感にひたっていると突然、柔らかな無垢の存在が出現する。まるで赤ん坊が雨に打たれているようで、まさに「こんなところに」なのだ。同時に「こんなところに」は、それまでの空気感との断絶、ふいに立ち現れる現実への違和の表出でもある。

 私達は普段「こんなところに」と聞けば、「どんなところ?」と反応する。既成の体系にのっとって、ということだろう。一方で、俳句の中で語られれば、その違和感だけをすんなりと受け入れる。もう「こんなところに」が使い古されたあとに私達はいる。

ところで、「こんなところに○○○」の措辞は掲句が初出なのだろうか。一寸、調べただけでは前例を見つけられなかったが、気になる。これは宿題としておくことにしよう。


〔※1〕〔※2〕『飯島晴子読本』収録、『俳句研究』一九七七年

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