2012-10-21

【週俳9月の俳句を読む】田島さんの補助線で 上田信治

【週俳9月の俳句を読む】

田島さんの補助線で

上田信治



それぞれの幹の手ざはり秋の山 対中いずみ

下五を、場所の説明ととってしまえば、作者(わたし/作中主体/読者の移入の対象)が、秋の山にいて、いろいろな木を触って「手触りが違うなあ」と、あたりまえのことを言っているだけなわけですが。

「秋の山」という言葉は、どうしたって、それを外側からひとつかみに把握する言葉でもあるから、山中の一光景よりも強く、その全貌あるいは本質といったものを思わせる。

結果この句において、「秋の山」とは「それぞれの幹の手ざはり」の総和であり、さらにその上に立ち上がってその本質を明らかにするような、そういう全体性なのだ、ということが宣言されている。

……と、読もうと思えば、読める。というか、そう読んで、自分はほとんどうっとりとします。

「俳句はいったい、何を成し遂げようとしているのだろう、と考える時がある。そこに句があって、それを書いた人がいて、それを読む人がいる。その間で何が起きていて、それにはどんな意味があるのか」(「何がやりとりされているのか」週刊俳句286号)



夜仕事やイヤホン外し静かなる 酒井俊祐

いかにもいかにも。「夜仕事」を秋の季語だと気づいて、「静か」が、秋の夜の冷ややかさをともなった、もっと言ってしまえば、弧愁をともなった静かさなのだと思うと、ますます、いかにも(秋夜/夜長の本意は「弧愁」だと思う)。もともと農事の季語でしかないそれを、オフィスワーカーの現代風景に置き換えることから生じるアイロニーも。

でも、この作品のおもしろさは「俳句は季語が入っているもので、季語とは歳時記に載っているもの」という、かなり退屈な前提を共有することによって成立するもので、その退屈に荷担することに、うしろめたい思いがないではない。

いと小さき交易所かな露の秋 杉原祐之

そして、この「露の秋」にアイロニーを見ていいのか、どうか。

蒸しパンにレーズンあまた小鳥来る 金子 敦
少ししか開かぬ窓や法師蝉 後閑達雄

蒸しパンにレーズンがたくさん入っていたよ、とか、あんまり開かない窓があったよ、とか、それが、その人の言いたいことである限り、聞く価値がある内容とは思えないのですが、世界の一部がかくあったということの提示には、いつでも、ちょっとした奇跡感がともなう。むしろ、どうせ世間話をするなら、こんな話ばかりしていたい。こういう句を見ると、季語は、俳句に何も言わせないためにあるのかな、とも思うのです。

「小鳥来る」=幸福感、「法師蝉」=まだ暑い、の言い換えというふうに読めてしまうことは(季語が共有物であるゆえの)弱点ではあるのですが。

「作者は「季語」がどのようなものであるか、その本質を語ることができない。その「できなさ」ゆえに、季語は季語として果たすべき機能を持たない限りで、機能する」(「季語」という不可知なものについて ~相対性俳句論(断片))



秋の蚊のまともに水のくらさかな 山口昭男
向きかへて蝗の口のよく動く
こそばゆき空となりたる刈田かな

刈田の上の、それ以前よりも広く感じられるような空と、空中にいろいろ散っている感じを「こそばゆき空となりたる」と言ったのは、いかにも的確。そして、作者(わたし/作中主体/読者の移入の対象)は、こそばゆい空だ、と感じている人として、くっきりとそこにいる。

蝗の口の動きのことを言う人は、ただ目として存在していたかのように言葉が使われていて、作者(わたし/作中主体/読者の移入の対象)は、句中には存在しません。結果、ここには個をはなれて、全体へむかう広大な意識のようなものが提示されている。それは、写生という方法の典型的な主体のありようです。

秋の蚊を「まともに」(正面に)見ながら、水の暗さを言うことは、とてもパーソナルなことです。刈田の空をこそばゆいと言うような、共感をもとめる目くばせがここにはない。なぜか、この人はそれを言う。言うのだから、しかたがないじゃないか。これも、写生という方法のもたらす典型的な主体のありようのひとつ(〈さくらんぼ月天心と思ひけり〉〈凍鶴に立ちて出世の胸算用〉波多野爽波)。こういう気持ちの通じない人が句中にいることの不安定なトーンが、この句、なのでしょう。

「俳句は、そのような〈ずれ〉を生み出す〈主体〉を、やりとりしている。句は、作者から読み手へのパスである。それは読み手の〈私〉から少しずれたスペースへ、「そこへ駆け込め」というメッセージのごとく放たれる。実は俳句は、その〈ずれ〉がすべてで、それこそが〈意味〉なのである」(「何がやりとりされているのか」週刊俳句286号)



空中のA氏飛び去る夕餉どき 谷 雄介

「ここで言いたいことは、その句が「有季」であるか「無季」であるか、ということを作者自身が選択することは、実はできない、ということであり、そのような作者の意識を超えて、俳句には「季語」と結びつく「季語的なもの」を必ず呼び込んでしまう、ということだ」(「季語」という不可知なものについて ~相対性俳句論(断片))

俳句が呼び込んでしまう「季語的なもの」とは、それを俳句として読む視線が、特権的な地位を持つ言葉を句中に見いだしてしまうという意味でしょうか。この句の場合、「A氏」が、あるいは「夕餉どき」が?

A氏だけだったら、むかしの小説みたいだけど、夕餉どきが卓袱台を連想させるとしたら、シュールな西岸良平って感じがしないでもない。



秋晴へ向け親指を立ててゐる 西山ゆりこ

この健康さ! でも、何をやっているんだろうこの人は。こんなに健康なのに。

秋茗荷歩け歩けと或る人は 桑原三郎
雨樋に草生えてゐる秋旱

この人は、歩いているのかいないのか。言われたとおり、いったんは歩いているのかなとも思うのですが、庭に出てみたのが精一杯というふうでもあり(笑)。秋茗荷は茗荷の花のことだそうですが、言葉の連れてくるのは、空間に茗荷のあの香りがうっすらと拡散するような、さわやかさです。

雨樋に草、といういかにも俳句的な景。しかし「秋旱」の空間が広いこと、その空間に、光線とかすかな水分が同時にあることのかもす複雑なニュアンス。

種瓢火星に水のあるらしく 桑原三郎

作者(わたし/作中主体/読者の移入の対象)は、乾燥すること、そこに秘められた水分が存在することが気になっている。ここにも一人、気持ちの通じにくい人がいる……はずなのだけれど、つぶやき口調がフレンドリーなので、なんとなく分かってしまう。

「俳句は、言葉でできているけれど、ある意味それは言葉以上のもので、それを言葉として解釈のみを行うと、俳句の大事なところを読み落とすことになる。デュシャンの「泉」が、便器でありながら、便器以上のものであるように」twitter

今回は、勝手に、田島健一さんの週刊俳句記事、「たじま屋のぶろぐ」などを補助線に9月の作品を読ませてもらいました。田島さん、いつも刺激的な問題提起をありがとうございます。

「泉」が便器以上のものであるように、俳句が言葉以上のものだというのなら、言葉は素材だというだけのことで簡単なのだけれど、田島さんの言いたいのはそういうことではないだろう。

いつも、その句のよさを人に伝えるために、その句の言葉の機序のようなものをトレースしているつもりだけれど、はたして田島さんの言う「言葉以上のもの」にどれほど届いているか。すくなくとも、自分にとってよろこばしい句は、常識外のものを含んで成立しているらしいことくらいは、言えたと思うのですが。


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