2012-10-07

【週俳9月の俳句を読む】井口吾郎の回文俳句の世界 山田航

【週俳9月の俳句を読む】

井口吾郎の回文俳句の世界

山田 航


僕の肩書きは一応歌人だけど、今回ばかりは「回文作家」としてここに書かせてもらおうと思う。僕の回文歴は短歌よりずっと長いのに、回文をメインにして語らせてもらえる機会なんてめったにないからだ。

そんなわけで井口吾郎である。彼は回文俳句をひたすら作り続けている俳人だ。たまには普通の俳句を作りたい気分になったりしないのだろうか。それでも彼は回文で詠む。まるでそれが自分の使命であるかのように。

俳句は形式が対称形なので短歌よりはよっぽど回文で作りやすいが、それでも十分難しい。僕が今まで作った回文俳句といったら、「君ならば居るか明るい薔薇並木」くらいなものである。ひょっとしたら、井口氏はとっくの昔に同案を出しているかもね。

「週刊俳句」9月2日号に掲載された『沢庵自慢』は、すべての句に人名を詠み込んだ人名回文句。登場させた人物の写真や画像を連作の下に貼り付けておくという遊び心が最高だ。

ダリと旱雲素潜りで独りだ

尾崎放哉ばりのこの言い切り方がたまらない。内容は? 内容はない。それが回文のいいところだ。それにしても旱雲も一人きりの素潜りもダリには似合わないなあ。ダリの孤独はもっとアトリエの隅っこでひっそりと消化されていそうだ。

回文のいいところは、テクストの表象に一切の個性を必要としないことじゃないかと思う。だって完成形は上から読んでも下から読んでも同じな一種類しかありえないのだから。ましてや五七五なんてルールをさらに追加していればなおさらのこと。井口氏の回文俳句が魅力的なのは、自分にしか作れないものを作ってやろうという気概がまったくないからだろう。それよりも、言葉をおもちゃにして自由に遊ぶことのほうがはるかに重要。回文俳句を作品たらしめている要素が出来上がったテクストそのものではなく、それが形成されるまでの行為の方にあるのだ。なんだか現代美術のようだ。

我が沢庵自慢魔人芥川

強引だなあ。この強引さがいいのだ。世界観がとっ散らかって混沌としている。回文はそのルール上、テクスト的な意味においては整然とした秩序がある。しかしイメージ的な意味においてはまるで無秩序。「魔人芥川」が沢庵を自慢するような猥雑で超現実的な世界が立ち現れてくる。テクストとイメージがともに極端に振れていて、常に互いを高度な緊張関係で牽制し合っている。

案山子うながす様さすがナウシカか

極端に振れて暴れまわるテクストとイメージが一瞬混じり合って比較的きれいな日本語になった瞬間は、感動としか言いようのない気持ちが湧き上がってくる。

回文俳句の本質は「軽味」にある。それは俳諧の原点に通ずる部分も少なくないのだろう。そう思うと、井口氏の姿勢はかなり批評的なものに見えてくる。回文俳句はただ頭を空っぽにして楽しめばいいものだ。そうすることで、行為としての文芸、現象としての文芸という俳句の姿が再び立ち上がってくる可能性もあるはずだ。


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