2012-12-30

極私的2012年回顧 関悦史

極私的2012年回顧

関悦史



SSTの「スピカ」連載とか

年間回顧記事は『現代詩年鑑』(『現代詩手帖』の2012年12月号)に出してしまったばかりでことさら新しいネタもないので、その辺も含め、個人的なこの一年をふりかえる。以下は単なる身辺雑記となるので、読んで何かの足しになるところはない(まともな回顧記事は詩手帖の方を見てください)。

SST(榮猿丸・関悦史・鴇田智哉)はこの十二月、スピカの「つくる」コーナーに合作句を連載させてもらっている。

放っておくと、この一年ユニットとしては何もしないまま終わりになりかねないので、私が二人とスピカに持ちかけ、年末に連載、音声ファイルも使うというところまでは八月末に決まったが、そこからが長くて、実際に顔を合わせて上野動物園で吟行をやったのが十月二十一日だった。

動物園をうろついた後、おのおの短冊に単語を書き合わせていって、私が持ち帰って打ち込み、メールで適当に割り振って一応31句出来はしたものの、散文部分をどうするかがなかなか決まらない。

ツイッターで質問を募集して、都合を合わせ、ラジオ部分の録音のために上野のカラオケ店に集まったのが十一月二十六日。

ここでいきなり猿丸さんが、梅﨑実奈さんに丸投げしてSSTスクラップをやってもらってはどうか言いだし、既に内諾は得ているようなので、お任せすることになった。

しかしこの時点で既に連載開始の五日前であって、梅﨑さんはこの後急に多忙となることになる。スピカ側への入稿は始終ぎりぎりとなった。落ちそうになると慌てて日程を変えたりもして、全部人任せに見える割には連絡調整でけっこう手間がかかっているのだ。

カラオケ店と、そこを追い出されてからはアメ横の上野寄りの地下喫茶店で雨宿りしつつ適当にしゃべった録音は、私が持ち帰って、ITは全く得意ではないのに動画に変換し、youtubeにアップすることになる(この日は午前中からカラオケ店に籠りながら、誰も一曲も歌わないという変な利用法となった。ドリンクバーにポタージュがあったので飲んでみたが、それ風味の白湯だった。あの不味さは忘れがたい)。

それとは別に鴇田さんがツイッターでSSTbotのアカウントを作って、これによくわからない発言をさせることになった。

三人で適当にログインして発言させているが、自分以外のはどれがどちらの発言なのかわからないが、発言回数はごく少ないままである。このままロボットの幽霊となることが予想される。


一月の出来事

考えたらスピカ「つくる」の連載は、一月にも私単独で「もはやない都市 読まなくてもよい書物」というのをやっていた。あれも今年だったのだ。

個人的なノスタルジーの話などしていてもしょうがないのではないかと、始まってから気づいたが、途中で変えるわけにもいかず、そのまま一ヶ月続けてしまった。

 

前年末に拙句集『六十億本の回転する曲がつた棒』が出ているのだが、初版五百部が尽きて三百部増刷との知らせが来た。震災後の物入りな時期にあちこちからの支援で出せた句集だが、ともかく赤字にせずに済んだのはありがたい。

 

震災で屋根が壊れて、以後ずっと雨の度に家中の雨漏りを見て回る生活が続いていたが、長い順番待ちがようやく終わって瓦屋が来てくれたのも一月。

ただしこれで直ったかと思いきや、工事後、大雨の日にまた漏り始めたので、六月に再工事となった。以後、現在のところ、目に見える雨漏りはなくて済んでいるようである。

桐生の山田耕司さんも震災以後、雨漏りがひどかったようで、ツイッターでぼやき合ったりしていたが、どうなっていることか。

 

「らん」の中村光三郎さんという面識のない方の第一句集『春の距離』の序文を書く機会があった。鳴戸奈菜さんの紹介によるものだったが、その中村光三郎さんが六十六歳の若さで病で亡くなった。

ちょっと安井浩司を連想させるような、不可思議さの中に寂しさを湛えた独特の句風だった。出版記念会に出席しなかったのが悔やまれる。打ち合わせの電話連絡で何度かお話ししたが控え目な方だった。

 

一月はこの他、「鷹」の新人会吟行(小川軽舟主宰も出席するイベントである)にゲスト参加させてもらっていて、根岸の子規庵周辺をうろうろしている。

句会・吟行の類は滅多にしないので、今年、人との吟行はSSTの上野動物園と、この根岸の二回だけとなる。私としては大変吟行の多い年であった。そういえばスピカのSST連載、当初は「吟行の魅力」とする案もあった。

 

俳句と関係ないところでは、大学の美術同好会の後輩に山下陽子という人がいるのだが(版画家やモデルで同姓同名がいるようだが別人)、長いこと音信不通だったのに、急にメールをもらった。人づてにこちらの句集出版を知ったらしい。

向こうも本を出したというので交換した。

向こうのはマンガで、『ある日突然ダンナが手裏剣マニアになった』というすごいものである。作画は義妹がしたという、家内制手工業的実録マンガであった。

このダンナ、勤めも辞めて手裏剣に打ち込んでいるらしい。人生いろいろ過ぎる。


二月、京都に行ったり瓦礫が片付いたり

サト父こと佐藤栄作氏の招きで京都に行き、愛媛大学写生・写生文研究会の京都研究会にパネリストとして出て、竹中宏、岩城久治、中田剛、青木亮人各氏と喋ってきた。栄作氏は佐藤文香御尊父。
 宮本佳世乃さんが京都まで聴きに来ていたので、一緒に東寺を見物して帰ってきた。

 

二月九日に榮猿丸、生駒大祐、野口る理の三人が、わが家まで瓦礫処理の手伝いに来てくれた。

震災以来、庭に積んであった瓦がこれでようやく片付き、残ったテレビアンテナを六月に粗大ゴミとして処理して、ともかく視界から瓦礫が無くなった。

来客が滅多にない家なので、介護後の遺品も自分の引越荷物も投げ出したままなのだが、下宿にいた頃は「こんなに部屋をきれいにしている人見たことがない」と言われたりもしたのだ。本当ですよ。

 

二月二十四日。

御中虫が突然「関揺れる」を入れた句を連続ツイートし始めた。何をやっているのだ一体と思ったが、これが後に句集『関揺れる』となって松岡正剛氏の目に留まり、ついでのような形で拙句集も「松岡正剛の千夜千冊」で取り上げられることとなった。

これが四月九日のことだが、松岡正剛事務所の人が悪乗りして、私のいたずら書きのマウス絵だのオリビア(ツイッターのアイコンにもしている一つ目の黄色い物体)までサイトに乗せてしまった。

虫さん本人は、最近ツイートは何もしていないので近況不明である。


三月、mixiコミュも意外な効果がある

河野典生が亡くなった。中学生の頃から愛読していた作家である。

日本におけるハードボイルドの草分け、幻想SF、ジャズ小説の書き手として知られたが、長いこと活動を休止していたので、入る人もいまいと思いつつmixiで「河野典生」コミュを作っておいたら、没後、娘さんから突然メッセージが来た。

河野典生氏本人が生前このコミュを見、「ファンの方というのはありがたいねぇ」と喜んでいたというのだ。驚いた。

松山巌氏にインタビューすることになったのも「松山巌」コミュを作っておいたのを、親しい人に見られたのがきっかけだった。何がどう転ぶかわからない。

三月には吉本隆明も物故していて、後日『現代詩手帖』が総特集を組んだため、その号だけ私の俳句時評のコーナーは休載となっている。

 

二十日、現代俳句協会青年部の勉強会「句集のゆくえ」に山田耕司、中本真人両氏とパネリストとして出席。人様の句集の制作予算だとか、わりと生臭い話も淡々と語られる会となった。

あと、ツイッターで馴染みの佐間央太氏が私の震災句とツイートが対照できるサイトを作成してくれている。http://ameyu.net/Seki/


四月、落ちたり受かったり

二十八日、歌人の石川美南さんから声がかかり、石川さんの歌集『裏島』『離れ島』批評会に今野寿美、斉藤斎藤、高木佳子各氏とパネリストとして参加。

翌二十九日、拙句集もノミネートされた宗左近俳句大賞公開選考会のため、関係者一同うち揃って新潟・雪梁舎美術館へ。

落選して、選考委員の中原道夫氏馴染みの店に皆で連れていってもらい、他の候補者ともども残念会をやっていたら、同日に選考会が行われていた田中裕明賞受賞のメールが来て、一転祝賀会となった。


五月、同衾と金環蝕

この私的回顧をここまで書いて思い出したが、五月二十日に猿丸さん、鴇田さんともども西原天気さん宅に集まって、haikudrive の ust中継「ごきげんいかが5・7・5」というのをやっていたのだ。

この前、梅﨑さんに訊かれて、今年はSSTとしてはスピカの連載以外何もしていないと答えてしまった。梅﨑さん、すいません。ustをやっていました。

それで、天気さんのお宅というのが結構遠いので帰れなくなり、池袋のホテルで猿丸さんと同衾した。「同室」ではなく、ダブルベッドで一緒である。部屋がなかったとはいえ、いいのだろうか、これ。

翌朝、金環日蝕があった。

池袋の路上に観測に出てきた人たちから手製の遮光板を借りて代わる代わる太陽を見、猿丸さんはそのまま出勤していった。


六月、住宅街の画廊で中西夏之氏に会う

五日に眞鍋呉夫氏が死去。小説『天馬漂泊』を頂いて感想を返したばかりで、句集『月魄』についてもなぜか複数回書く機会を与えられたりしていたのだが、お目にかかることなく終わってしまった。

三月に八田木枯氏にも、こちらの書いたものは読んでもらえつつ面談の機会を逸したまま亡くなられた。

 

自由が丘の画廊で中西夏之氏の新作展があり、会場でご本人と面談。穏やかな方だった。


七月、授賞式

八日に田中裕明賞の授賞式があった。ほとんど顔見知りばかり三十人くらいのアットホームな会となった。

その模様をまとめた冊子が一月に出るそうで、選考会部分はまだ見ていないが、授賞式部分は全員からコメントをもらって、それが全部そのまま書き起こされているので、前二回の冊子と異なり、飲み会の実況のようなことになっている。


八月

普通に何か書いたり、勉強会に出たりだけであった。


九月、いわきへ

十五、十六の両日、いわき市に行っている。

駒木根淳子さんから連絡をもらった震災復興支援ツアーで、津波跡と祭の様子を見学。

帰ってから参加者一同で句を作り、それをまとめた冊子の売り上げを寄付することになってまだ販売中だが、このくらい句が作りにくかったことは後にも先にもない。被災地報道も減る一方であろうし、「忘れていない」と現地の人に伝える役くらいには立ったのかもしれないのだが。

なお、この冊子は四ッ谷龍さんの制作だが、利益ではなく売上全額が、復興に取り組む地元団体「プロジェクト傳」への寄付になる。


十月、逗子から銀座へ大返し

高橋睦郎氏に以前から、庭に泉を造ったから見にきなさいと誘われていて、機会がつかめずにそのままになっていたが、八日に高山れおなさんが行くのに同行させてもらい、ようやく果たせた。

睦郎氏のお宅は、西洋骨董の部材を買い足しては造りつけていく手仕事の集積で出来ていて、書斎、寝室は言うに及ばず、風呂、トイレ、天井の桟一本に至るまで規格品そのままの箇所がない。こうなると家自体も詩人の「作品」である。

和漢の古典からゴシップに至るお話を伺いつつお昼を御馳走になり、そのまま三人で逗子から銀座まで取って返して「安井浩司・俳句と書」展懇親会に出席。安井浩司氏にも久々でお目にかかれた。

 

二十一日には、前出のとおり、上野動物園でSSTの吟行もあった。

たまたまスカパーの「Edge」という番組から長期取材を受け始めたところだったので、この日の模様も撮影されてはいるのだが、まだ編集中らしく、使われるかどうかは不明。

なお、この前の週には、「私にとってはこれも吟行ですから」などと言って、テレビスタッフ四人を引き連れ、オリエント工業のラブドール展覧会を見に行ったりもしている。そのときの句は『ガニメデ』第56号に掲載。


十一月、トークイベントとか

四日、『NHK俳句』の「ネクスト・ジェネレーション」コーナーの撮影があった。

三人、三ヶ月分のまとめ撮りだったが、一緒に撮影を済ませた他の二人は、それぞれこの後すぐ結婚または婚約している。

 

十日、詩人の田中庸介氏、翻訳家のジェフリー・アングルス氏とトークイベント「Reading&Talk [ナノポエトリーとマクロポエトリー]」に出演。

この時の教訓は、チラシはくだけた気安い感じのものよりも、これを聴くと大変ためになる、とか、これを聴かなければ詩については語れない、とかいったもののほうが勉強熱心な聴衆には届きやすいのではないかということだった(チラシではコロッケそばの話をしていたのだが、中身は結構硬かったのだ。おまけにコロッケそば本体は結局食べずに解散してしまった)。

後で来客名簿を見たら中に森岡正博氏の名があった。三人の誰の知り合いでもないらしく、何でお運びくださったのか謎である。

それにしても写生句の良さの通じにくさよ。


十二月、冬眠中

スピカのSST連載の他は至って普通。

来年に向けて、変な企画が進行中ではある。

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