2012-12-23

朝の爽波47 小川春休



小川春休





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〈面伏せて都踊に草引きをり〉という句について、当初、私はこの「草引きをり」とはそういう舞踊の振付だろうと思って鑑賞していました。しかし何となく本当にそんな振付があるのか不安になり、京都に詳しい「澤」の先輩・高橋和志さんに訪ねてみたところ、「都踊の会場である祇園の歌舞練場はかなり広いので、敷地の一隅で草を引いているおばちゃんを見かけたというのもありうると思います。華やかな行事と日常、芸妓・舞妓と普通に働く女性の対照。振付なら(草引きではなく)若菜摘にするのではないかと。自信があるわけではありませんが。」とのこと。なるほど、聞いて納得。鑑賞文を大幅修正させていただきました。

さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十七年」から。今回鑑賞した句は、昭和57年の春、それも都踊の頃から種浸しの頃なのでほぼ晩春の句。57年4月には、編集部を一人で担当していた田中裕明がとうとう就職、編集部不在となってしまいました。やむなく爽波自身が主宰として自ら編集の一切を背負うことに…。さらにNHK大阪文化センターの講座を毎週持つこととなり、爽波にとっては急に重い負担を背負うことになった春なのでした。

面伏せて都踊に草引きをり  『骰子』(以下同)

都をどりは、毎年四月一日から祇園甲部歌舞練場で開催される舞踊公演。都をどりの上演中か準備中か、歌舞練場の敷地内の草を引く人の姿が見える。「面伏せて」との描写から見えてくる草引く人の佇まいは、都をどりの舞の華やかさとは別種のものだが、これもまた都をどりに似つかわしい。

骰子の一の目赤し春の山

句集の題の由来となった句。静止している骰子(さいころ)ではなく、振られて出た骰子の目が一だったと読みたい。骰子の目の赤と春の山との取合せは鮮やかなだけでなく、茫洋とした広がりの中での骰子遊びは、どこか仙境のようなこの世ならざるものを感じさせる。

ポケットのあちこち探す椿かな

日本人には万葉集の頃から馴染みの椿。掲句の椿も「椿かな」と詠嘆されていることから、観賞対象となる立派なものを思う。一方、観賞者はポケットばかり気にしているが、得てしてこういう時はポケット以外の場所も探すのが吉。春らしい雰囲気が楽しい句。

大根の花まで飛んでありし下駄

下駄を飛ばして翌日の天気を占うという遊びも、すっかり懐かしいものとなってしまった。下駄が思ったより遠くまで飛ぶ、そしてそれを探して行き、ついに大根の花のもとに「あった!」と見つける。掲句の「ありし」という表現に、そうした心の動きを読む。

湯殿から首出してゐる鮊子漁

鮊子(いかなご)には、水温の上がる六月から十一月頃まで夏眠をするという面白い習性があり、漁は稚魚が約三cm程に成長する三月頃に行う。海の方からの漁の気配に、がらっと湯殿の窓を開けて顔を出す。漁が生活の中心にある、港町の暮らしが見える。

ざつくりと切つたる繩も種浸し

発芽を促すため、稲の籾種を水や温水などに浸す。田植の予定日から逆算して種を浸し、芽が出そうになると蒔きつける。農家の忙しくなってくる頃だ。切られた縄は種袋を括っていたものだろうか、物の存在感が、雑然とした生活感のある景の核となっている。

産土神に隣れる家の大種井

産土神(うぶすな)とは生まれた土地の守り神のこと。種井は、発芽を促すために稲の籾種を浸しておく井戸だが、「大」の字が付くぐらいなので、浸してある種袋もかなり大きく、広い田畑を持つ農家のものなのではなかろうか。その土地の風貌の見えてくる句だ。


【参考資料】イカナゴのシンコ漁解禁(神戸新聞News)
https://www.youtube.com/watch?v=kdUvG-Ptpx8

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