2012-12-30

朝の爽波48 小川春休



小川春休





48



さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十七年」から。今回鑑賞した句は、昭和57年の春から夏にかけての句。この時期、年譜の上では特にこれという記載はありませんが、57年4月からの編集部爽波一人体勢と新たに始まったNHK大阪文化センターの講座とで忙しくしていたものと思われます。

暗緑の肖像画ある朝寝かな  『骰子』(以下同)

肖像画において、背景は人物に比べてあまり具体的には描き込まれず、暗い靄の中に人物が浮かび上がるように描かれることが多い。この「暗緑」もそうした背景であろう。どこか、朝寝の夢の中までも影響を及ぼしそうな、不思議な存在感を持つ肖像画ではある。

手招かれゆけば緋目高散りにけり

目高は体長四cm程、大きく出た目が愛らしい。夏、水槽や水盤などに飼われ、涼味が観賞される。誰が何の用事で手招いたのか、それは不明であるが、鮮やかな緋目高の、涼を感じさせる様子が強く印象に残る。記憶のどこかにこんな景が潜んでいたような。

黄あやめに機嫌直らぬままにゐる

叢生した葉の中央から直立して、先端に花を付けるあやめ。花色は紫が一般的だが、白や黄のものも。花期である五月頃という時期もさることながら、黄という色の持つ印象を思うと、〈病にも色あらば黄や春の風邪〉と詠んだ師・虚子の句も思い出される。

玄関は八つ手葉がくれ日雷

二十cm以上もある、艶のある大きな葉を付ける八つ手。日当たりの悪い森林の中でもよく育ち、丈夫なため庭木としても育て易い。晴天に突如鳴り出した日雷が、八つ手の影となった玄関を少し怪しく見せる。助詞が少なく、言葉の連なりにスピード感のある句だ。

花菖蒲鰻を食べて強情に

六月頃、色彩も様々に鮮麗な花を開く花菖蒲。まだ土用ではないが食べたくて鰻を食べている。誰もがという訳でなく、偶々この御仁が鰻を食べて強情になった訳だが、人の心の動きの不条理さも含めて、強い存在感がある。妙に生々しく撮れたスナップ写真のような。

掃いてをり茅の輪失せたるそのあたり

旧暦六月晦日に行う夏越の祓。形代に半年間の穢れを託して川に流したり、茅の輪を潜るのが一般的である。掲句の茅の輪、「片付ける」ではなく「失せたる」であることで、片付けた人の存在感が句から消え、茅の輪がどこかへ自然と消えたような印象に。

燈が入る川床の湿りのしるきまま

川床(ゆか)は涼をとるために川に突き出して作られる桟敷。夜の席は緑と川面とが灯に照らされ、昼の席の木洩れ日の中での涼とはまた異なった涼を感じさせる。掲句は昼から夜へ移り変わる瞬間を、「湿り」という皮膚感覚を伴った描写で現出させている。

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