2012-12-16

【句集を読む】 幻滅とその後 高山れおな『俳諧曾我』を読む 福田若之

【句集を読む】
幻滅とその後
高山れおな『俳諧曾我』を読む

福田若之


高山れおな『俳諧曾我』は、その企画に必ずしも厳密ではない(遊びを持っている)としても、ひとまずは、それをテクストについてのテクスト、自己言及するテクストとして語ることができる。

24句目と書く24句目に他ならず 

第7章「パイク・レッスン」の24句目である。これが俳句なのかパイクなのか(そもそも我々は俳句とパイクの語感が似ているがために俳句とパイクとは類似したものであるという推測を立てているが、「パイク」とは何であるか、どのようなものであるか、ということさえ、言及されていないのであり、実際には裸眼とラカンくらい異なるものかもしれない。

もしシニフィエの類似の度合いとシニフィアンの類似の度合いに正の相関性があるならば、おそらくパイクは俳句とバイクの中間的存在ということになるが、それはいったいどういうことであろうか?)、それともそのどちらでもないのか、もしくはそのどちらでもあるのか、そんなことは今はどうでもいい。

この句は句集の中にあっては、ただ24句目を成り立たせるという機能しか持たないのであり、そこにはいかなる芸術的再現性も認められない。かわりに、この句は「24句目」という抽象概念そのものを書物の白いページの上にオブジェとして現出させる。

より厳密に言えば、「24句目と書く24句目に他ならず」と24句目に書かれている、ということだけが現実であり、この句が、命題として何を言及しているのか、(この句が)「24句目と書く24句目」に「他なら」ないのか、それとも、「24句目に他ならず」、それゆえ「24句目と書く」と言うのかは依然として不明であり、それもまたこの句の表面それ自体の具象性を高める結果につながっているように思われる。

「これはパイクではない」とパイクかな

注意しなければならないのは、テクストについてのテクスト、という存在がすでにメタ的に語られるべきものであるということである。

テクストについてのテクストは、それ自身テクストであるがゆえに、メタテクストとして発話されておきながら、直ちに対象化される。ここで示した句は、マグリットの『イメージの裏切り』(それは白い背景とパイプの絵、それに付された短い文章からなる絵画である)に書かれた「これはパイプではない」という自己言及的な言及に端を発しているが、この句をマグリットの作品の直系の子孫であるとするわけにはいかない。

『イメージの裏切り』は、まずはマグリット自身の手によってさらにパロディ化、対象化される。その実践の代表的なものに『対蹠地の夜明け』(ないしは『対蹠地の黎明』とも訳される。こちらの訳がより一般的か)に収められた『二つの神秘』と題された版画があり、この作品には中空に浮かんでいる(ように見える)巨大なパイプのようなものと、画架にかけられた『イメージの裏切り』に酷似したタブローが描かれている。

そして、さらに、これら二つの作品をミシェル・フーコーが『これはパイプではない』という評論において対象化する。そして、そこではマグリットの作品群のいわば隠された出自として、「パイプという名」というフランス語における慣用表現が告発される(フランスの文化に明るくない身としては全く信じがたいことだが、フランス人は驚いたときや怒ったときにこのフレーズが口をついて出るものらしい)。この言葉もまたいわくありげだが、その根源は不明のようである。

さて、この何処に起源を持ち、何処に終焉を見るのか分からないメタテクストの地層の上に連なって、この句はいったいなにをしようというのか。

その問いに答えるためには、この『俳諧曾我』という句集の全体が持っている特異なメタテクスト性について、捉えなおすことが必要であろう。

ISBN4‐00‐008922‐6の顔、パリに 

「ISBN4‐00‐008922‐6」は『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』の書誌番号である。

この本の表紙には人体の頭部を再現した木彫りの彫刻にいくつかの既製品を貼り付けて作られたと思われる立体の写真が印刷されている。前袖を見ると、この立体はラウル・ハウスマンの『機械的な頭部(時代の精神)』という作品であり、詳細がこの本の137ページに記されていると分かる。

そして、実際にこの本の137ページを見ると、そこにも同じ作品の同じ写真がすこし大きめに印刷されており、見開きの隣、136ページに掲載された目録によると、この作品の現物はパリ国立近代美術館の、ジョルジュ・ポンピドゥ・センターにあるのだということが分かる。

この句の肝は『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』を書誌番号で示したことなのだ。それは手法としてただ新しいから重要というわけでは決してない。そうではなくて、どうしても書物をたどらなければこのイメージにたどり着けない仕組みになっていることが重要なのである。タイトルと表紙は読めば記憶に残ることも多いだろうが、本のISBNなど、普通は記憶しない。それはむしろ、どこかに記録されている、という類のものである。

だから、『岩波 世界の美術 ダダとシュルレアリスム』を読んだことのあるものであっても、まずこの「ISBN4‐00‐008922‐6」を元に、書物と再会する必要が生じる。そこでやっと、『機械的な頭部(時代の精神)』のイメージにたどり着くことができる。

しかし、「パリに」ということを事実として迅速に確認するには、さらに上記のように書物の中をたらいまわしにされなければならない。頭部にまつわる言説をめぐってテクストをたらいまわしにされるこの感覚は、あるいは小松左京の『牛の首』とも通じるだろうか。

しかし、もっと言葉に素直に読むならば、この和書それ自体をパリに置いてしまえばいいのであり、そうなるとこのたらいまわしは書物の表紙で断ち切られることになる。そもそも事実を明確に伝達しようとしているにしてはあまりにも不完全なこの句の言説が、事実に反したとしてもそれは裏切りではないだろう。

ウケルウケナイ(以下refrain)と花びら毟る猿の暮

この句は

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士 穂村弘 

を踏まえている。ただし、そこに出自不明の何かしらが参照されている。

まず、「ウケルウケナイ」という言葉のこの俗語的な用法、そもそもこれらの語をカタカナ表記で用いるようになったのはいつごろからなのだろう、それはあくまで「うける・うけない」ではなく、「ウケルウケナイ」なのだ。「(以下refrain)」も類似した表現をよく見るが、この出自をどこに求めればよいのか。そして、猿と人とを初めて科学的に関連付けたのはダーウィンであろうが、それ以前にも猿の擬人化は神話の世界などに見ることができる。

分かることはこの作品が何かの上に立っている、ということだけだ。

コーヒ店、俳句薔薇戦争の火に滅べり永遠に

たとえば、「コーヒ店」と「永遠」から、我々は

コーヒ店永遠に在り秋の雨 永田耕衣

を思い起こすのだが、ここで著者の第一句集『ウルトラ』に付された解説・池田澄子「俳句への馳走」から引用をしなければならないだろう。

博識を活かした其角さながら、ここには古句はもとより、多くの東西の神話、説話、史話、故事成語などが、それとなく沈殿し、時に、それらしく流れていることを誰もが直ぐに感じ取ることだろう。

極楽へ葱売りにゆく静かさよ

には、「夢の世に葱を作りて寂しさよ」の故・耕衣翁、慌てて葱を掘りに戻られるかも。このような、挨拶もしくはパロディーだけでなく、古人や故事に彼は触発される。それを食べてしまう。食べたものは彼自身になる。人は一人では生きられないと誰もが思っているだろうけれど、この人にとっての他者は見事に数知れず多い。なにしろ「薔薇贈る六道輪廻のとある日に」なのだから、挨拶を交わすべき知人が多いのである。

人が人と共に生きるということは、文化を受け継ぎ共有すること。古人を呼び込む遊びが、更に次の人々に、呼び込む遊びを与えることになったら嬉しい。そのことが、時空を往き来して漂う言霊への挨拶ということになるだろうか。
もちろん、さすがに「俳句薔薇戦争」という語の内部に包まれた「薔薇」という言葉が耕衣の句のパロディに含有される必然性をこの解説文に求めるのはこじつけの域を出ないだろうが、ここで指摘したいのは、この句を作り上げているパーツと設計の根源は、すでに『ウルトラ』の句に見出されうるものだということなのである。

しかし、それは普通の作家のような、表現行為を積み重ねるうちに作家性の洗練がなされた結果としてより完成されたかたちで処女作に回帰するといったレヴェルの、単純な進歩ではない。

言葉を借りて表現するなら、高山れおなは自分自身さえ食べてしまったのだ。何しろ、『俳諧曾我』は、その改題によれば「個体発生は系統発生を反復する」という生物学の古い学説の俳句的な実践を企図した句集である。その末端に高山れおな自身が見出されないほうが不自然ではないか。そして、それは実際、極めてはっきりと見出されている。

マロン食うマリリンと麿、滅亡か
前衛多蚊夜馬丹生体反応蟻矢無之

「麿」といえば、著者の第二句集『荒東雑詩』の

麿、変?
お湯入れて5分の麿と死なないか?

などに見出される「麿」なのであり、「多蚊夜馬」はおそらくはタカヤマ、高山なのである。

ここに至って、食べるという表現は示唆的である。

赤ずきんの物語では、お婆さんを食べた狼はお婆さんに変装するが、そのときお婆さんの生命は永遠に失われる(狩人が登場し胃の中から彼女たちを助け出す話は後世になってつけられた尾ひれである。狼は獲物をしっかりと噛み、味わう生き物だ)。

では、高山れおなが高山れおなを食べると、どうなるだろう。いや、そうではない。このことの本質的な問題はこうである。テクストがテクストを食べ尽くすと、どうなるだろう。そのとき、「時空を往き来して漂う言霊への挨拶」は、別の新しい構図へと解消されてゆくのではなかろうか。

そもそもがテクストがテクストを食べることが、自覚的かつ必然的になったのは、おそらく少なくとも近代以降のことなのである。学問史的には、たとえばマネの『草上の昼食』やフローベールの『聖アントワーヌの誘惑』に隠されていたそうした性質がフーコーのもとに明らかにされたことになっている。『幻想の図書館』でフーコーはこう書く。
『誘惑』は、たんにフローベールが長いあいだ書くことを夢見てきた書物というだけではない、それは、ほかの書物たちの夢なのだ。夢見つつ、夢に見られるほかの書物たちのすべて――作家の夢想にとりあげられ、断片にされ、移しかえられ、結びつけられ、遠ざけられ、隔てられたそれらの書物たちは、同じく夢想によってよせ集められる、そうしてついに想像の世界できらめきながら、願望が成就されるのだ。おそらく『誘惑』によってフローベールは、書物たちの空間だけに固有の場をもつような、前例のない文学作品を書いたのだった。
『聖アントワーヌの誘惑』と『俳諧曾我』は書物とのかかわりにおいて類似している。しかし、『聖アントワーヌの誘惑』は書物たちの空間が支配する時代、つまり図書館の時代のあけぼのの作品であるのに対し、『俳諧曾我』は図書館の時代のたそがれの作品である。

おそらく、著者が「詩経」の俳句化に挑んだこの句集の当初の構想である「三百句」の完成を間近に「感興を失なひ制作を中断した」(目録+開題)ことは、図書館の時代がたそがれを迎えていることと無関係ではない。それは創造の場としての図書館に対するひとつの幻滅にほかならないのだ。

ところで、『誘惑』が図書館の時代のあけぼのというのは本当かどうか怪しいところでもあって、実際のところはフーコーのような人々が『誘惑』のような作品の批評を通じて図書館の時代を本当に到来させてしまった、つまり、『誘惑』よりは『幻想の図書館』のほうが、図書館の時代の真のあけぼのである――少なくとも書物たちの空間のなかで生きる書物、といったことが文学においてモダニズムよりはむしろポストモダニズムの主だった性質の一つであることはほぼ間違いないだろう――というほうがより真実に近いのではないか、とたいした根拠もなく思うのだが、それはともかく。

言いたいのは、それがモダニズムであるにしろポストモダニズムであるにしろ、このやり方には限界が訪れつつあるのではないか、ということなのだ。

テクストを食べることで新たなテクストが無限に再生産されるという永久機関さながらの構図は、やはり幻想なのではなかろうか。食べたものは、やはりなくなるのであり、生まれるものより失われるもののほうが多いのではないか。

我々はやはり外部から出自不明の何かを吸収することなしには、テクスト全体の生命を維持することはできないのではないか。

「パイク・レッスン」において「麿」が「滅亡」に迫られること、「多蚊夜馬」の「生体反応」が「蟻矢無之」すなわち「アリヤ無シ」と限りなく死に近しい形で描かれていること――もはや「アリヤナシヤ」ではなく、「アリヤ無シ」なのだ――は、まさしくテクストとして食べられた「高山れおな」が永遠に失われたことを暗示している。

しかし、食べ尽くさねば次の時代に進まないのだ。石油が枯渇するまで、人間は石油を使い続けるだろう。この時代を終わらせて次の時代に進むには、とにかく食べ尽くすしかないのだ。

嘆かわしいことに、発明の母は戦争であり、革命の母はおそらく貧困なのである。そして、その貧困に至るまでに、『俳諧曾我』は曾我物語や長靴を履いた猫やフィレンツェや「詩経」といったテクストの付け合わせとして、「猫バス」を食べ、「朕は国家なり」を食べ、「カリピュゴス」を食べ、「観国之光」を食べ、「鉄道員」を食べ、「ピカ丼」を食べ、そして「ぞけさ」を食べねばならなかった。

ぞ散るらんぞけさは花に魚を煮て

ゾケサとは、蓮實重彦『反=日本語論』において語られる架空の生き物である。

『蛍の光』の「あけてぞけさは わかれゆく」の一節を、係り助詞の概念を理解していなかった少年・蓮實重彦は、この一節を「あけて ゾケサは わかれゆく」と解釈し、「なぜか佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、何頭も何頭も、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を、卒業式の妙に湿った雰囲気の中で想像せずにはいられないのだ。ゾケサたちは、たぶん彼ら自身も知らない深い理由に衝き動かされて、黙々と親しい仲間を捨てて別の世界へと旅立ってゆくのだろう。生きてゆくということは、ことによると、こうした理不尽な別れを寡黙に耐えることなのだろうか、ああ可哀そうなゾケサたちよ。」というわけだ。

ことによると我々はゾケサを食べることで、新しいゾケサになる可能性を担保されるのかもしれない。ゾケサ出生の地はテクストの内部と外部の境界にある、あのあいまいな場所に違いない。

ところで、パイクは――少なくともその名詞としての発生の由来の得体の知れなさのうちに――ゾケサ的なものをはらんでいるように思われる。ここにきて、「パイク・レッスン」がレッスン=稽古と題されたことにもっともらしい理由をつけることができる。「パイク・レッスン」はテクストが食べ尽くされるその前後に、ゾケサ的=パイク的なものを現出させようという実践の過程だったのではないだろうか。

そろそろ、この文章の序盤で一度放り出した疑問に戻ってもよいだろう。〈「これはパイクではない」とパイクかな〉を最終章の「パイク・レッスン」の最後に置くことを通じて、『俳諧曾我』は飽食の時代に終止符を打ったのではないか。

無論、これはひょっとすると壮大な誤読かもしれないが、『俳諧曾我』の完成の後に書かれたとされる附録、「原発前衛歌」には、残されたテクストの滓を眺めながら、その貧しさに飢えているような感覚がある。

じどうきじゆつの をとめちつく ぞ はづかしき

自動記述。オートマティスムの訳語である。オートマティスムはその名の通りオートマティックである。オートマティックをヲトメチツクと書いた古い日本人がいたかどうかは知らないが、「乙女チック」という俗語と音が通じ合っている。この句の眼目はそのアイロニカルな言葉遊びだ。

シュールレアリスムの営為に典拠を置きながら、パイク・レッスンに見た諸作品と比べると腹の中にあるテクストの重みが少なくなっているように感じられる。

ところで、自動記述とはまさしくゾケサ的なものの量産のために編み出された手法であったように思われるが、それはなぜここで「はづかしき」ものなのか。

ゾケサを量産しても仕方がないのである。「新しいゾケサ」とは便宜上の表現であり、その姿も、発生も、似ても似つかぬものでなければ、それは「新しい」ものではない。しかも、「新しいゾケサ」に求められる新しさは、その性質上常に変化していくのであるから。

でんとう の かさ の とりかへ むれう で します

「原発前衛歌」というタイトルから、「電灯」と「伝統」が掛けられていることが想像される。しかし、取り替えられるのは「でんとう」ではなく、「でんとう の かさ」なのである。そのあたりに、この句の謎、変態性、不気味さ、つまり魅力が見え隠れしている。

ここまで書くと、何かゾケサ的、パイク的なものとはつまるところ洒落なのではないかという解釈が成り立ちそうだが、そう単純な話でもない。

しろく て ぷよぷよ えだのゆきを も たかやまれおな も

しかし、少なくともあの枝野幸男やあの高山れおなについて、取り立てて「しろく て ぷよぷよ」と言うほど白くてぷよぷよな印象は、少なくとも私の中にはないのである。では、「しろく て ぷよぷよ」な「えだのゆきを」や「たかやまれおな」とは、何者たちなのか。

彼らこそ、テクストの中に生まれた「新しいゾケサ」かもしれないのだ。



追記:『俳諧曾我』はまだ残部ありとのこと。頒価3000円。ご購入の方は著者(leonardohaiku@gmail.com)まで。

2 コメント:

高山れおな さんのコメント...

福田若之様

拙句集を丁寧に読み解いていただき、感謝に堪えません。自分の本の書評について言うのは変かも知れませんが、じつに痛快で溜飲の下がる読みっぷりでした。なるほど、こんな句そんな句で来るかという感じで、結構爆笑しつつ拝読。

《イメージの裏切り》まではわかる人も多かろうと思っていましたが、「ぞけさ」が通じたことに深く感動しております。『反=日本語論』は、小生や関悦史の世代には青春の必読書でしたが、ちゃんと読み継がれているのですね。

細かいこと幾つか。

ウケルウケナイ(以下refrain)と花びら毟る猿の暮

ですが、穂村さんの

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

を踏まえているわけではなさそうです。穂村さんの歌は、引用されているのを見て、ああそんな歌あったなというくらい。むしろ、多少なりとも意識していたのは、現代美術家の明和電機の《ウケテル》という作品でしょうか。この片仮名表記はそこから来てると思われますが、ただそれも踏まえているという程の関係にはないでしょうね(自分のことなのに、なさそうとか、思われます、などと曖昧なのは、要するによく覚えていないのです)。

前衛多蚊夜馬丹生体反応蟻矢無之

という拙句について、

「多蚊夜馬」の「生体反応」が「蟻矢無之」すなわち「アリヤ無シ」と限りなく死に近しい形で描かれていること――もはや「アリヤナシヤ」ではなく、「アリヤ無シ」なのだ――は、まさしくテクストとして食べられた「高山れおな」が永遠に失われたことを暗示している。

と読んでくださっていますが、俳句では「有りや無し」=「有りや無しや」なのではないかと思って使っていました。例えば、蕪村に、

若竹やはしもとの遊女ありやなし

という句がありますが、講談社の『蕪村全集』の訳注を見ると、下五を「有りや無しや」の意味で読んでおりますね。音数律の都合上、二つめの「や」が脱落したと考えるわけです。ただ、この解釈がどの程度普遍性があるのかは小生もよくわかりませんし、もちろん、若之さんの読みが誤りということではないです。ただ、小生が自分の脚を食って胸やけしている蛸のように自家中毒を起こしているのは間違いないとして(これこそ次の課題ですね)、小生はひところ「『前衛俳句』は死んだのか」とか言ってごにょごにょ言っていた人たち程ヘタレではございませんので、その点はお含みおきを。

……と、余計なことまで書いてしまったようですが、それもこれも若之さんのような若い人が同じ土俵に上がってくださった嬉しさゆえ。どうも有難うございました!

ハードエッジ さんのコメント...

ここに書く十三文字や日短か ハードエッジ