2012-12-16

【句集を読む】俳句形式の胸で泣く 照井翠句集『龍宮』を読む 関悦史

俳句形式の胸で泣く
照井翠句集『龍宮』を読む

関悦史


転勤先の釜石市で東日本大震災に遭った照井翠は『釜石①』『釜石②』という震災鎮魂句集を作った。それらは句集とはいっても、ホチキス留めの、手製の私家版だった。

今回、震災以後の句が第五句集『龍宮』(角川書店)として再編されたことにより、『釜石』が入手できずにいた読者も、その震災句の全貌に接することができるようになった。津波に間近に接し、多くの死の只中に投げ込まれての作品群である。

照井翠は避難所で迎えた三日目の朝、新聞の一面トップに「福島原発 放射能漏れ」の見出しを見、ショックと絶望の中、自分のアパートを目指して歩き出す。

てらてら光る津波泥や潮の腐乱臭。近所の知人の家の二階に車や舟が刺さっている、消防車が二台積み重なっている、泥塗れのグランドピアノが道を塞いでいる、赤ん坊の写真が泥に貼り付いている、身長の三倍はある瓦礫の山をいくつか乗り越えるとそこが私のアパートだ。泥の中に玉葱がいくつか埋まっている。避難所にいる数百人のうな垂れた姿が頭をよぎる。その泥塗れの玉葱を拾う。避難所の今晩の汁に刻み入れよう。》(「あとがき」中に引かれた震災時のメモ)

破滅的な光景だけならばまだしも、玉葱を拾うという動作が命と心の危機をあらわしていて衝撃的である。と同時に、落ちていた玉葱がただちに人への関心に転じるところも、句集を読む上で示唆に富む。

排水溝など様々な溝や穴から亡骸が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようともがく形の亡骸、木に刺さり折れ曲がった亡骸、泥人形のごとく運ばれていく亡骸、もはや人間の形を留めていない亡骸。これは夢なのか? この世に神はいないのか?

こうした状況の中、照井翠は、正気を保つべく俳句を作る。記録のためではない。そして俳句は確かにかなりの程度、その要請に応えている。

未熟ながらも一人の人間として》《数多くの方々への鎮魂の思いを込めて》《自分自身すら見失いかけていた私は、自らの「本当の物語」を再構築し、「本当の自分」を捉え直す必要を強く感じました》《死は免れましたが、地獄を見ました》《今後とも一層思索を深め、俳句表現の道に一途に精進して参りたい》と、仕方がないこととはいえ、真面目であればあるほど、どうしようもなく紋切型の物言いへと凭れかかっていく「あとがき」の言葉たちを見るとき、この作者にとって震災句による「本当の物語」の再構築とは、およそ表現の臨界を越えた地震・津波・原発事故という三重の超巨大災害をそのままのスケールのものとしてではなく、涙を流し、浄化し得る、人間と等身大の悲劇にまで縮小することで、物語化可能なものにまで無害化する作業に他ならないとわかる。

ここでの句作は、大災害の表現不能性に直面することではなく、涙を誘う程度には理解・受容の可能なものへと震災をスケールダウンしていくことにひたすら奉仕しており、この句集の達成と限界はいずれもそこにある。

 泥の底繭のごとくに嬰と母

 脈うたぬ乳房を赤子含みをり

 双子なら同じ死顔桃の花

 御くるみのレースを剝げば泥の花


気の毒な横死者という物語の枠内に、整えられた遺影のごとく過不足なく収まった一~三句目に対し、四句目のみ、赤子の肌にレース越しに残った花模様の泥という異物感によって、かろうじて震災の受容不能性がで句に介入しているが、これはむしろ例外である。繰り返すが、嘆き、泣くという感情的な反応に回収可能な、綺麗なものへと震災体験を変貌させることが、照井翠にとっての震災俳句の意義なのだ。《ランドセルちひさな主喪ひぬ》《春の星こんなに人が死んだのか》《三・一一民は国家に見捨てらる》《なぜ生きるこれだけ神に叱られて》《毛布被り孤島となりて泣きにけり》《寒昴たれも誰かのただひとり》……だが、それは当然、出来事の陳腐化と表裏一体である。

この句集が読者にとって辛いのは、震災体験に晒された人の苦しみに巻き込まれるからということだけではなく、涙に俳句を奉仕させることの倫理的ともいうべき是非に、作者とともに立ち会わされるからである。

 澄みかけてまた濁りゐる泉かな

 風花や悲しみに根の無かりけり

 葉牡丹の大きな渦に巻き込まる


平静を取り戻しかけては、また乱れる作者自身の心が見つめられている。句集全体を通じて、作者の関心は破壊された街の外観よりも、とにかく己の危機にある。

 卒業す泉下にはいと返事して

 朝顔は天界の色瓦礫這ふ

 蜉蝣の陽に透くままに交はりぬ

 空蝉のどれも己に死に後る

 苧殻焚くゆるしてゆるしてゆるしてと

 死にもせぬ芒の海に入りにけり


朝顔、蜉蝣、芒など、生死の接するところで季語が次第に象徴性を帯びていく。常識人にとっての回復の営みが、そのまま表現として昇華されていく様が窺える。照井翠はこうした回路を通じて、俳句を頼みとし、震災に向かい合った。こうする以外に対処法も表現もあり得なかったということが、そのまま照井翠という作家の骨格を成しているのだ。


※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。


1 コメント:

中村 美津枝 さんのコメント...

初めまして、わんちゃんと申します。
絵本「ひまわりのおか」わが町の図書館で出合いました、blog【わんちゃんの独り言】を発信しています。
こちらは朝日新聞2014.3.10の朝刊で知りました。
つきましてはblog【わんちゃんの独り言】へのリンクをお願いしたくメールさせていただきました。事後報告になりましたがよろしくお願いします。