2012-12-09

〔句集を読む〕五十嵐進句集『いいげるせいた』 関悦史

〔句集を読む〕
蛙の視座から虹を捉える
五十嵐進句集『いいげるせいた』

関 悦史



字余り、字足らずをあまり気にせず、感覚、感情もナマで押し出しているところから(例えば《雪を食う体内深き海がある》《病み這えばそこは畳という夜空》といった句)、一見して、詩人気質の作者による、主に初学の感性ならではの詩趣を拾うべき句集かと思ったが、作者五十嵐進は既に二冊の句集を持つ句歴の持ち主だった。

一九四九年生まれ、永田耕衣の「琴座」を経て「らん」に所属し、第一句集『指』(一九九一年)、第二句集『引首』(二〇〇一年)とほぼ十年置きに句集をまとめていて、この『いいげるせいた』が第三句集となる。

句集名は、草野心平「ごぴらっぷの独白」の蛙語で、草野自らの日本語訳によると「ああ虹が」の意。五十嵐進の亡くなった友人、ジョイスの研究をしていたという熊谷安雄が通信名に用いていて、そこから採ったという。

頸部なる血管寂としてオリオン

幽霊のうごくかたちに雪降れり

昨夜まで話していたのに鉢の梅

水の紅葉母の海馬でしぐれけり


(以下二句、亡くなった友人を詠んだと思われる「水面写真*故K氏に」の章から)

百万の蛙の声の浮力にて銀河

エスペラントの若葉の中の献体


感覚を恃みとしながら(それは俳句においては我の強い、自然と自分との関係が平板な作風ということにもしばしばなるのだが)、対象をなぞるだけに終わっていない句として以上が挙げられる。一、二句目は超自然の気配が身の感覚を土台にして絡め取られているし、三句目の口語の喪失感は集中の絶唱といってよいかと思う。

東日本大震災を詠んだ「空を脱ぐ*3・11以後」の章からは、感情露わな句が多い中、以下に注目した。

弥勒よ水立ち上がる草をセシウム

セシウムの産道くぐる野辺の目よ

キノコよ柿よ腐って還れ不許出荷

月が出た挙げた手が真っ赤だ

一、二句目は、「よ」の呼びかけも一方的な演説ではなく、「弥勒」「野辺の目」の非日常的スケールと「水立ち上がる草」「産道くぐる」の自然の営為とを、己を仲立ちに結びつける役割を果たしていて、その中にセシウムを捉えようとしている。言い添えておけば、作者は福島在住。

「さくら闇*初期句篇」の章からは以下の二句。

鉄の如酸ゆき涙や青山河

人体や深剃りにくるかたつむり


一句目は涙と青山河という郷里へ凭れかかるようなモチーフを「鉄」「酸」の硬さへと捩じった修辞が引きとめて張りがあり、二句目はピーター・グリーナウェイ監督『ZOO』のラストを思わせるような密着感を「深剃り」が映像化不能な領域へずらしている。


霧工房、二〇一二年十一月刊。二〇〇部。

※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。

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