2013-01-20

第220号~第229号より  福田若之さんのオススメ記事

第220号~第229号より
福田若之さんのオススメ記事



オススメ記事、なんて求められると正直に言えば心苦しい。何かを選び取って他人に示すことは、何かについて表しながら、何かについて隠すことだ。僕はそんなに目が利かないと思うのだけど、本当にそんなことしていいのか。

しかし、幸い、週刊俳句は手軽にバックナンバーを閲覧できる。良心と暇を兼ね備えた読者の方には、ぜひ、この機会にバックナンバーをそのまま閲覧してみていただきたい。やっぱり、良い記事が揃ってます。

ところで、それにしても、僕は――それは、おそらく週刊俳句編集部のみなさんのほんの出来心のためだと思うのだが――この範囲の担当を依頼されておいて、八田木枯さんについて何か語らないでおくことが許されるのだろうか。そして、それについて語りおおせたら、後に何をだらだらと続ける気力が残るというのだろう。

たとえば、関悦史さんの「その後の仁義なき震災俳句」(第221号 2011年7月17日)はもちろん、澤田和也さんの「胡散臭い日本の私」(第220号 2011年7月10日)、生駒大祐さんの山口優夢さんの『残像』への評と池田澄子さんの『拝復』への評(「残と拝」 第226号 2011年8月21日 第225号 2011年8月14日)、あるいは長嶺千晶さんの「俳人はなぜ俳誌に依るのか」と題された俳誌の必要性を三つの俳誌から考察した文章(第220号 2011年7月10日)なども、2011年当時の俳壇の――という言い方がなにかしっくり来ないとすれば、俳句の市井の――関心を考える上で参考になることは間違いない。あるいは、木枯さんが語っている時代に、まったく別の立場で大変な生涯を送った秋山牧車さんについて今井聖さんが書いた記事(第226号 2011年8月21日)にも、本当は触れたい。

紙幅は、自由とは言われている。けれど、そういうわけにもいかないだろう。

 

僕は、木枯さんについに会うことはなかったし、実は、句集を買って読んだこともない。ただ、たしか一度、立川の繁華街の北にあるオリオン書房で、『鏡騒』を軽く立ち読みしたばかりである。だから、僕は木枯さんの作家としての業績について、多くを知らない。そのことについてはより詳しい人がたくさんいるだろうし、週刊俳句にもそうした評論を見ることができることが確かだから、僕は黙っておこうと思う。

それなのに書くのか、と問われるかもしれないが、僕は、木枯さんの作品をよく知らないからこそ、かえって純粋に「八田木枯 戦中戦後私史」を愛すべき人の記録として読むことができたように思う。木枯さんが作家であることが、多くの人には先立っているのに対して、僕にとっては、それは従属的なことがらに過ぎない。きっと、ちょっとずれた読みをしている。

 

「第1回「ホトトギス」に始まる」(第221号 2011年7月17日)で、木枯さんの語りは、「役者なんかのもそうですが、芸談ほどつまらないものはない、といっている人がいますね。というのは、自分から話をすると、偉そうに見えてしまって、文化勲章を貰って喜んでいるような人が、なにが芸人でなにが芸談なんだ、というわけです。だいたい落語家だって役者だって、どこかやくざ者みたいなところがあって、それだからおもしろいのに、構えて芸談をするようじゃ駄目なのですね」から始まる。照れと矜持と謙遜と、なんかいろんなものがごたまぜになって出た言葉だと思うのだけれど、素敵な人じゃないか。すかさず、「まあ、そうおっしゃらずに(笑)。読者としては、芸の話もそうですが、そこで語られる時代背景がおもしろい、ということもありますね」と応じる聞き手の藺草慶子さんも、分かっていらっしゃる。

そして、まさに二人のこの掛け合いから、僕は作家・八田木枯の語りとしてこの記事を読むのではなく、八田木枯というおじいちゃんの語りとしてこの記事に向き合うことを許されるだろう。僕としては、偉大な作り手の話を平身低頭で伺うというのではなく、違う時代を生きた人の話を興味深く聞くというつもりで読むことが出来る。

そうした立場に身をおくのだから、たとえば、佐藤鬼房〈縄とびの寒暮傷みし馬車通る〉について、「この馬車は荷馬車に決まっているんですよ」「だれだったか、乗合馬車と思い違いをして鑑賞していたのに驚きました。馬車が分からなくなってしまったのですね」と木枯さんが言っていることについて、句を作者の時代の、しかも現実に引き寄せて読むことが一元的に正しいとするような言い方はどうなのですか、と問いかけることは当たらないだろう(一瞬、つい問いかけたくなったからこう書くのだけど)。木枯さんにとっては「荷馬車に決まっている」。そのことに木枯さんの時代が表れている(おそらく、木枯さんが句から直ちに荷馬車を思い浮かべられることと、俳句に対する基本的な読みの姿勢の両方に)。

関東では小僧といいましたが、私たちのところでは丁稚ですね」とか、こんな言葉がいきいきと使われた時代だから言える話で、方言としてこれらが意識されることがいまどれだけあるだろうか。

 

「第2回 父の句、そして俳句少年以前」(第222号 2011年7月24日)では、次のやりとりが興味深い。

――手鞠とか傀儡とか鳥追いなどの句をよく詠まれていますが、そういうものは少年時代によく目にしたのでしょうか。

木枯 そうですね、私の世代ですと、実際には目にしたことがなくても、分かるところもあるのです。同じ雰囲気の時代を生きてきましたから。もちろん、見たものもありますけれども、見なくても見たような気がするんです。

たとえば、川端康成の「伊豆の踊り子」は、大正末年に執筆されていますが、おそらく大正十年ごろのことを頭に浮かべて書いたと思うのです。しかし、あそこに書かれている風俗というか雰囲気は、大正十四年生まれの私にも十分身体で感じとることができるのです。それだけ時代の変化が少なかったのでしょう。

総合誌「俳句」に「八田さんでも、江戸時代の生まれじゃないのだから、鳥追いを知っているわけがない」などと書かれました(笑)。それはその通りなのですが、津は城下町で、万歳などはよく来ていましたし、これはよく覚えています。

――子どものころは、どんな遊びをしてらしたのですか。

木枯 独楽とか凧とか竹馬、そんなものですね。

――傀儡師なんかも来ていたのでしょうか。

木枯 傀儡師とか鳥追いとなると、見たかもしれない、というくらいですね。三十年前、五十年前の話を年寄りによく聞きました。それが、おぼろげな記憶として残っているわけです。またそういうものに惹かれて、いつも頭に描いていると、いつのまにか「自分が実際に見た」と思えるようになるということもあります。

私が俳句をはじめた昭和十四年のころには、戦争の近づいている時代でもありますし、もうそういうものは消えていました。それでも、鳥追い、十六武蔵(じゅうろくむさし・正月の盤上遊戯の一つ)、獅子舞などを詠んだ句はまだまだありましたね。しかし、だんだんと句に詠まれるものが変わってきて、さらに戦後になると、以前、歳時記でなじんできた句がずいぶん姿を消していくわけです。
僕は、平成三年の生まれだけれど、昭和の終わり――まだソ連があってベルリンにも壁があって、日本がバブルで消費税もなかった時代の気分など、身体感覚としてはとても共有できない。一方で、三十年前、五十年前のものは、年寄りに聞くまでもなく、映像記録に触れることができるので、句にする程度に「見た」気になることはより簡単になっている。「時代の変化が少なかった」というのは事実かもしれないけれど、それ以上に、過去に対する認識のあり方が、今と昔ですこし異なっているような気さえするのだ。

それにしても、木枯さん、「傀儡師とか鳥追いとなると、見たかもしれない、というくらいですね」って、それ「見たかもしれない」だけで充分すごいですって。

一方、獅子舞なんかは今むしろ見るよなあ、と思ったり。

 

「第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ」(第223号 2011年7月31日)はたぶんこのシリーズのなかでいちばん楽しい。さしあたり時間がない人はここから読んでいただけたらといいと思います。

なにしろ肺浸潤と十二指腸潰瘍を患っている十五歳の少年が、父の残した『現代文学全集』をこっそり売っぱらったお金で汽車に乗って津から東京に何度も遊びに行って、毎回ホトトギス発行所とムーランルージュに行って牛丼かチャーハンを食べて帰ってくるのだからすごい話だ。

十六歳で勤めた陸軍省の話なんかも、さらっと話しているけれど、貴重な証言なのではないかと思う。読んでいて、「戦争が廊下の奥に立っていた」にこういう現実が関連付けられることに対する驚きがあった。

記事自体を読んでもらいたいと思うので、あえてここに引用はしないでおこう。

 
 
「第4回 「みちのく」風生選巻頭を飾る」(第224号2011年8月7日)はタイトルの風生ばかりでなく、虚子・立子の親子、波郷などの俳人たちについての語りが面白い。うんうん、波郷ってきっとそんな人だよな、としみじみ納得させられる。かわりに、木枯さん自身に関しては、若干内容が薄め。

当時の新宿について木枯さんが語っているところとか、「よく「戦争中は物がなかった」などと言いますが、そんなことはありません。ほんとうに物がなくなったのは、戦後ですから。戦争中は、お金さえあれば、どこからか知らないけれども、お酒も煙草も出てくるんです」という発言が衝撃的ではある。

 

「第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス」(第225号 2011年8月14日)。木枯さん、陸軍省で貰った身分証明書で警察の補導をかわしたり、「てんぷら学生」になって学割料金で旅行したりと、相変わらずのやんちゃぶりである。

はじめて「ホトトギス」に入選した〈奥宇陀の旅籠長者や初桜〉の句を作った理由が、また面白い。
――子規が、一つの兼題で、みんなが集まって十句ずつ作るといったことをしていますが、ホトトギスの流れの作り方なのでしょうか。

木枯 おそらく、そうでしょう。一つの俳句鍛錬法ですね。先の入選句は、「宇陀百句」(後掲参照)として作った中の一句ですが、なぜ、宇陀(奈良県)という地名で作ったのかということを、お話ししましょう。

昭和十年頃のことですが、三重県の田端緑樹という人が、いきなり、「ホトトギス」の巻頭を取ったのです。一句入選するだけでもたいへんだったのですから、地元では大騒ぎでした。虚子は、いい句だったら、作者が無名でも巻頭に持ってくるんですね。

  榾負うて宇陀の長者と誰か知る

五句を投句して、四句が取られて巻頭になったんですが、なかでもこの句が有名でした。地元では、お祝いで三日三晩大騒ぎだったというんです。

――三日三晩もですか。

木枯 本当の話です。なにしろ「ホトトギス」に一句入選したら赤飯を炊くという時代の巻頭ですから。じつは事前に長谷川素逝さんに見てもらったところ、「五句ともよくできているから、二つは入るだろう」と言われたそうですが、その素逝さんを追い越して巻頭を取ってしまったんです。それ以来、伊勢一帯では、「とにかく宇陀の句を作れ」「宇陀の句を作ったら、通るぞ(入選のこと)」ということで、私も宇陀の句を作ったんです。
突然の「宇陀」ブーム到来に、おそらくそんなつもりで巻頭にこの句を持ってきたのでもないだろう虚子は、苦笑したのではなかろうか。

 

「第6回 貸本屋開業と「ウキグサ」の創刊」(第226号 2011年8月21日)は、戦中のエピソードのこれまでの語り落としを語っている。

戦争中ですから、吟行だからといっても、うろうろしながら、メモでも取っていたら、スパイと間違われてたいへんなことにもなりかねません。ただ歩いているだけでも、見知らぬ土地では怪しまれて「何しているんですか」なんて声をかけられたりします。普段から、俳句をやっていることなど他人には言わず、夜中にこっそり作ったりしていたくらいです」なんてこと、想像したこともなかった。

玉音放送を聞いたときの話にも、なるほどと思わされる。
――みんなが集まって聞いたのですか。

木枯 そうです。電話はない、新聞も来ないという焼け跡ですから、どうして伝わったんでしょうか、大事な放送があるというので集まってきたんですね。ただ、話の内容は、ラジオがガーガー言っているだけで、さっぱり分かりませんでした。それでも天皇がラジオで直接話すというだけで、たいへんなことでしたし、とにかく戦争は終わったらしいよ、ということでした。その前から、広島に何か特殊な爆弾が落ちて大勢死んだらしいぞ、だから戦争ももうおしまいじゃないのか、という噂も聞いていましたので、やっぱり終わったのか、と思いましたね。
そして戦後。「「ウキグサ」がたまたま松阪出身の神生さんの目にとまったらしいんです。自分も俳句をやっていたから、よほど嬉しかったんでしょうね。奥付の住所を見て、駅前からはかなりの距離があるのに、焼け跡の中を歩いて、わざわざ貸本屋まで来てくれたのです。まだ兵隊から帰ってきたばかりらしく、軍服軍帽姿でした」。兵隊から帰ってきて、軍服軍帽姿のまま、同人誌の奥付だけを頼りに、駅から焼け跡の中を歩いてきた神生彩史さんの気持ちを、僕には推し量ることはできないけれど、若い作家の集まりの代表だった木枯さんに「自分たちは、誓子に大きな影響を受けたのだ」と伝えることは、きっと神生さんにとって単なる思い出語りではなく、とても重要なことだったに違いない。そのことが、どう重要だったのかは、今となっては想像するほかはないけれど。

 

そんなことを思いながら「第7回 「ホトトギス少年」からの脱皮」(第227号 2011年8月28日)を開いたら、また話が戦前に戻っている。まあ、そんな簡単に語りつくせないですよね。
木枯 話がまた戦前に戻ってしまいますが、先日、「俳句研究と私」という原稿依頼があって、それがきっかけで思い出したことをお話ししたいと思います。

昭和十四年、当時十四歳の私は、父の残した蔵書、大正時代の「ホトトギス」合本や文学全集に触発されて、俳句を熱心に作り始めていました。そのうちに父の蔵書以外の物も読みたくなって、毎日のように古本屋を回り、三十分、一時間と立ち読みするようになりました。

――新刊の本屋さんはなかったのですか。

木枯 二軒ほどありましたが、句集や俳句雑誌は置いてないのです。古本屋の方は、文芸物を扱っている店が三軒ほどあり、そこに行けば、店先に俳句や短歌の雑誌がうずたかく積んであります。「ホトトギス」「アララギ」が目立って多かったのですが、あるとき昭和九年四月号(創刊二号)の「俳句研究」を見つけました。日野草城の「ミヤコホテル」が発表された号です。ご存じのように新婚初夜をテーマにした連作十句ですね。

――あの連作は、実体験のように見えますが、実際は場所も内容も虚構だとされていますね。

木枯 ええ。でも、そんなことは知りませんから。それまで読んでいた俳句とあまりにも違うので、こんなことが俳句になるのか、と吃驚しました。もっとも、内容については半分も分からなかったのかもしれませんが。

「失ひしものを憶(おも)へり花曇」なんて読んでも、財布でもどこかでなくしたのかと思うくらいでしたから。

――ああ、少年としては、意味が分からない

木枯 そのころ分かっていたら、たいへんなことですよ(笑)。
ええっ、そうか! と思ったりする。たぶん、今の十四歳だと、むしろ、「花曇」のニュアンスが(この句においてというよりは、一般的に)よく分からない、ってことはありうるけれど、あの十句を通して読めば、「失ひしもの」が何なのかは、わりとすぐに分かると思う。むしろ、十四歳だからこそ、妄想広がり放題というものだろう。木枯さんくらいやんちゃな子ならなおさらだ。「煙草はばんばん吸ってい」るような少年が、性についての知識を持たないというのは、やっぱり時代によって子どもに対する寛容さに違いがあるということなんだろう。

 

そして「第8回 紀州の山から深川木場までの旅」(第228号 2011年9月4日)。ここまで来ると、もう二十歳の頃、「ウキグサ」での精力的な活動のかたわらでダンスホールや映画に熱中していたなんてことも、さして驚くことではない。むしろ、材木商としての木枯さんの商才には驚くばかりだ。
木枯 買い付けでは「八田は、めちゃな高い値で買う。あれで儲かるのかな」なんて、よく言われました。むこうでは、木場の相場が分からないんです。東京へ電話することなんてないし、新聞にも出ませんから…。

――信じられませんね。

木枯 だから、おもしろかったんですよ。まだ二十一か二の人間が商売できたんですから。

――十六歳のころに東京へ出て来ていたのが、生きたのですね。
二十一か二って、ちょうど今の僕と同じくらいじゃないか。任されても出来る気がしないぞ、こんなこと。それを一から考えて、やってのけたんだ、この人は。

 

思った以上に脈絡のない文章になってしまった。この記事が「八田木枯 戦中戦後私史」のインデックスとしての役割を果たせるように、全部の回にわたって文章を書いたのが原因かもしれない。探してみたら、こんなことしなくても第258号にちゃんとインデックスがありました。木枯さん自身の作品と、『鏡騒』についての評論・対談などもここから見られます。参考まで。

 

後にだらだら続ける気力はない、と書いたけれど、この脈絡のなさには、いちおう収拾はつけなければ。

実は、この記事を書くためにいろんな記事を読みながらあらためて強く感じたことは、思えばとてもあたりまえのことで、記事の背後には、人がいるということなのだ。対談にしても、イベントのレポートにしても、作品や随想にしても、評論にしても。

飲み会のあと、土曜日と日曜日の間、終電の車内。酔っ払いながら携帯電話で週刊俳句の更新を確認したりしてしまうのは、やっぱり一人で帰るのがすこし人恋しいからなのだと思う。あるいは、たまに、月曜日の昼ごろ、相変わらずの"Under Construction"の表示を見て、ちょっとがっかりしながら「お疲れ様です」と思わずにはいられないのは、結局、そこにさえ、その背後にいる人が見えるような気がするからなのだと思う。

評論なんか、ともすると作品以上にのっぺらぼうな書き手のものとして捉えがちになるけれど、評論にさえ、いや、あえて盛るなら、評論にこそ人が出るのだし、文章の中にその書き手を見つけたように思えたときの喜びは大きい。論理を追って理解するだけが評論の読み方ではない。

ウェブというとすぐ匿名で人間が感じられないだのなんだのという人がいるけれど(とウェブにいくら書いても仕方がないのかもしれないけれど)、結局はまず分量の問題なのだ。たしかに「>>1乙」は匿名的だけれど、内容が籠められた文章は、やっぱりそうしたものとは違うだろう。仮に名前が隠されていても、言葉の端々に人が出る。そのあたりのことは、句会を思ってみれば、ほら、言うもおろかだ。ひとたび筆を尽くせば、誰でもない人間なんて、いるはずもない。

「八田木枯 戦中戦後私史」の初出は紙媒体だけれど、週刊俳句に転載されたからといって、何も匿名的にはなっていない。ただ単に、僕らは会いやすくなったのだ。


第220号
第221~第229号

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