2013-01-20

第230号~第239号より 小久保佳世子さんのオススメ記事

第230号~第239号より
小久保佳世子さんのオススメ記事



生駒大祐:相対論の果て スピカ第1号特集「男性俳句」を読む
第239号 2011年11月20日

俳句総合誌を最近読んでいませんが、以前よく読んでいたころ確かに「女性俳句特集」といった記事がありそれなりに興味深かった記憶があります。そして、いまだに女性俳句特集が企画されていることが「週刊俳句時評 第52回」相対論の果て スピカ第1号特集「男性俳句」を読んで分かりました。

生駒大祐さんはこの論で俳人全体の女性率の高さに比べ女性俳句の認知度が低いことを総合誌年鑑によるデータで示し、そのズレを正すべく女性俳句特集が組まれるのではないか、と推察していて、このデータ分析はなかなか説得力があります。

生駒さんの時評は、俳句ウェブマガジンスピカによる雑誌「スピカ第1号 男性俳句特集」について書かれていて、「男性俳句」なる言葉にはっと心奪われました。

「週刊俳句時評 第23回 木曜日と冷蔵庫 俳句にまつわる女性性の問題」第196号)という評論は「スピカ第1号 男性俳句特集」を企画したメンバーの一人神野紗希さんによるものです。

この論の最後に「俳句にまつわる女性性の問題を考えるとき、男性たちは、俳句をつくるとき、男性性を意識することはあるのだろうかと、ふと考える」とあり、この疑問から企画されたスピカの「男性俳句特集」でしょうか。

生駒さんは、「「女性俳句」というカテゴライズの無効性」「俳句に俳句以上の情報(パラテクスト)を背負わせることへの違和感」という結論に導かれてゆく「男性俳句特集」について面白く読むと同時に「しかし、一方で不毛だなと思えるところもあって、それが何に起因するかというと、おそらくは「女性俳句」そのものについて表現史を掘り下げることでそのカテゴライズの有効性を議論するのではなく、「男性俳句」という対立項の有効性を否定することで「女性俳句」の有効性を間接的に否定しようとしているように見える点でした。」と書いています。

人間という括りを男と女に分離したとき、人間の持つ動物性(野性性)も現れてきて、俳句の大きなテーマである自然の持つエロスの側面についても、「男性俳句特集」は言及しているのではないかという勝手な興味からスピカ1号を読んでみたいと思いました。

私は特に身体に関わる俳句表現を果敢に実践している現代の女性俳人の作品にひとつの潮流を感じています。

例えば、都市と土俗の性のシーンが融合したような生々しさを表現する「全人類を罵倒し赤き毛皮行く」の柴田千晶さん、耽美的官能の大肯定といった作風で、この二月に百二歳を迎えられるとは信じられない自由度を獲得している「春暁の母たち乳をふるまうよ」の金原まさ子さん。昨年、早世した恋人喜田進次さんの句集『進次』を世に出し、亡き進次さんへ向けて熱い俳句を作り続ける「生きてある限りは逢へぬ空に絮」の秦鈴絵さん、摂食障害などの病との闘いを率直にリアルに表現する「隠れ食ふ葡萄一房分の罪」のやまねよしこさん。

偶々身近で刺激を受けている彼女たちが手放さないもの、それは言ってみれば痛みや歓喜を伴う身体認識を契機とした表現欲といったものでしょうか。おそらく総合誌の女性俳人としての認知度の埒外にある彼女たちの俳句には男性の価値観を意識した女ぶりは感ぜられません。なかでも金原まさ子さんの俳句には戦う性に生まれた男たちの神とは別種の「おんな神」の気配すらあります。

もともと「男の文芸」と言われた俳句を女性が作り始めたということは、女性俳人には男性的要素があるのかもしれず、女性俳人のその流動性は「男性俳句」というカテゴライズを無効化してしまうような気もします。

等々、生駒さんの時評からいろいろ思いが膨らんできて、とにかく雑誌「スピカ1号 男性俳句特集」を読まねば、と発注し読み始めたのでした。


第230号~第239号

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