2013-02-03

【週俳1月の俳句を読む】瀬戸正洋


【週俳1月の俳句を読む】 
アメリカンコーヒーブルース

瀬戸正洋



インフルエンザにかかったと思ったので医者に行った。はじめて入る医院だし待つ覚悟は持っていた。後から来た患者が先に診察室に入ったり医者が患者と雑談を始めたり二時間近く待たされて自分の番となった。鶴のように痩せた老医師だった。症状を丁寧に説明してくれた。これでは長く待ってもしかたなかったかなとも思った。弱い五種類の薬を出してくれてこれで熱がさがらなければインフルエンザだから今度来る時は「インフルエンザです」と窓口で必ず言うようにとのことだった。僕がインフルエンザではないことをどう判断したのか不思議だった。熱は三十八度ですねと言われたがそのくらいだと「インフルエンザ」ではないのかとも思った。「体が弱っている時はインフルエンザにかかりやすいのでマスクをすること。うがいをすること。そして、水分補給。」と言われうがい薬も渡された。翌日には熱は下がりたまに咳き込む程度になった。


お正月白くて棒状のおしぼり   上田信治

とある店で白い棒状のおしぼりを渡されたのである。冷たいおしぼりのような気がする。おしぼり屋さんの工場は年末年始でも稼動しているのだ。たっぷりと殺菌消毒されているからといってそのおしぼりが清潔であると思うのは錯覚なのである。何故ならばおしぼりは殺菌消毒をしなければならないものだからだ。おしぼり工場でおしぼりを洗い殺菌消毒する人、それを店まで運ぶ人、棒状の冷たいおしぼりをそのまま差し出す人、それらの人々にはそれらの人々なりの悲しくて、辛くて幸せな人生がある。


とりだせぬ燃料棒や去年今年   小澤實

新年を迎えたあるとき、ふと『燃料棒』のことを思った。「世の中に取り出すことのできる『燃料棒』などあるのかしら」と。僕が言うのだから眉に唾をたっぷりつけて聞いてもらいたいのだが「本来『燃料棒』というのは正常であろうとなかろうと絶対に取り出してはいけないものなのだ。」これは、もちろん僕の偏見だ。嘘をついている人の話しを「嘘だよね」と気楽に聞くことと「嘘であって欲しい」と願って聞くこととどちらが幸福なのだろうか。


さて何をリセットするかお元日   小西昭夫

人生でリセットすることのできるものなどないことを作者は知っている。だから作者はそこに「お元日」という言葉を置いたのだ。だが、僕らは全て承知の上で、できるはずなどないのに、新しく生まれ変わりたいと願っている。その生まれ変わることのできる時は「新年」が一番ふさわしいなどとも思っている。何故ならば「おめでたい」のだから。年に一度、そんな気になることも精神衛生上よいことなのだろう。振り返れば僕の人生は恥じ多きみっともない日々の繰り返しであった。


濡れ場より書きはじめたる初明り   柴田千晶

原稿に追われて切羽詰っているのだろうか。新年などという感慨もなく、ただただ、書かなくてはならないのだ。たまたま書きはじめたのが「濡れ場」であり、たまたま、その時、元日の夜が明けたのだ。淡々と味気ない暮らしが続いていくのが人生だ。「濡れ場」を書いている作者。そこに唯一の救いがあるような気もする。


すずなすずしろ姉妹で眉を剃りおとす   鳥居真理子

「すずなすずしろ」というのは季語というよりは囃し言葉のようなものだ。姉妹は自身でない何かの力に助けられて眉を剃りおとした。それは春の七種、それとも囃し言葉か。「眉を剃りおとした」姉妹は美しくなることができるのだろうか。幸福に暮すことができるのだろうか。


雪達磨みんな男で融けており   鳴戸奈菜

「雪達磨」を作ったのは男だから男の「雪達磨」なのだ。男に対する屈折した感情と人生に対する不安が少々。作者は経験により永遠に「雪達磨」が存在しないことを知っている。作者は「雪達磨」ではないが自分も何れ融けてなくなつてしまうことを知っている。だが、僕らは「その日」のことを誰も経験してはいないのだ。生きている、生きてきた経験から未知の「死」をイメージする。自分のその日をイメージする。難しいことなのか。それとも楽しいことなのか。


この中に贋の新年詠がある   福田若之

「贋」という言葉に反応してしまう。僕は「贋」という言葉が大好きなのである。世の中「贋」だらけで、それでいて、それなりにみんな楽しく暮している。「本物」など存在しないのではないかとさえ思う。胸を張って正論を吐く人、考え深そうにものを言う人は苦手だ。「嘘をつけ」などと野次りたくなる。うつむいてぼそぼそと自信なさそうに話す人。そんな人が僕は好きだしそんな人の話こそ耳を傾けたくなる。


賀状の蛇に生やしたい足もあって   藤井雪兎

年賀状の干支である蛇の絵、あるいはデフォルメされたもの眺めながら「蛇に足があっても不自然とは感じないよね」などと思ったのである。蛇に足が無いということは本当は嘘っぱちで僕らには見ることができないだけなのかも知れない。


鶏肉のだまつて沈む雑煮かな   松本てふこ

鶏肉が何かの拍子にお椀の底に沈んでいった。鶏肉が「タスケテ」などとは言わないので「だまつて」沈んだのに決まっているのだが「だまつて」と表現した作者の心の動きが面白いと思った。


姫はじめ地球のまはる仕組思ふ   山田露結

おとことおんなのはなし。「姫はじめ」の時、おとこは「地球のまはる仕組」を思った。おんなは、その時、何を思っていたのだろうか。おんなは、その時、おとこが「地球のまはる仕組」を思っていたなどとは考えもしなかっただろう。ゆめゆめ男が知的だなどと言っているのではない。歌謡曲ではないが「男と女の間には深くて暗い河」が本当にあるのだ。ところで僕は「地球のまはる仕組」を知らない。


新年を迎えると自分自身も改まったような錯覚に陥る。世の中が手練手管を使い囃し立てそのような錯覚に陥らせようと襲い掛かってくるからだ。いつも思うのだが僕らは時間以外に何も持っていない。時間とは僕が死ぬまでの時間である。それが僕の唯一の財産だ。インフルエンザではなかったようだが風邪が抜けない。体がだるくて仕方がない。海老名駅構内のコーヒーショツプで毎朝アメリカンコーヒーを一杯飲み出勤することにした。若い女性の店員が「いつもありがとうございます。」と言ってコーヒーカップを手渡してくれる。若い女性の笑顔ってなんて素敵なんだろうと心の底から思ったりしている。


第298号 2013年1月6日
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第299号 2013年1月13日
鈴木牛後 蛇笑まじ  干支回文俳句12句 ≫読む

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