2013-03-03

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 9 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 9 〕


小林苑を


『里』2011年10月号より転載

月光の象番にならぬかといふ   『春の蔵』

前回、「見る人」のことを書いた。

永嶋靖子の『秋のひかりに』〔※1〕の中で掲句に触れている箇所がある。
東京、井の頭自然文化園にある象舎がモデル。自解によると、夜半机に向かって象舎の景を想起していてポロッと出来たという。バケツを提げた平凡な象番が月光という言葉を得ることによって俄に神々しくさえ見えてくる不思議。『いふ』という主語の不明確な突然休止したような止め方が、句意に拡がりを与え、句柄を大きく高貴にしている。一に晴子の句作エネルギーの賜の作である。
「見る」から言葉へがよく伝わってくる。

見よう、見ようと目を凝らすと、眼前の実像は薄れてついには言葉だけとなり、そこから新たな言葉の光景が広がっていく。晴子句の特徴である物語性を思うと、場面と言い換えてもよいかもしれない。象舎を見つめていると、月光という美しく幻想的な白銀色の影が射してくる。そして何者かが「象番にならぬか」と問う。こんな芝居の一幕がありそうな、幽玄な場面。以前、< 蛍の夜老い放題に老いんとす > で触れたように、晴子はこんな見えざる者の声を聞く人だ。

晴子に限らず、こうした体験は誰にでもあるはず。ひとは密かに空想の羽を広げて、ここではないどこかへ飛んでいく。どこまで飛べるかだ。どこまで飛んで、それを言葉に置き換えることができるか、なのだ。

井の頭の小さな動物園の飼育係は消え去って、人間に飼われて伐採や運搬を黙々とこなす巨体の、一方でヒンドゥー教の神でもある「象」の番人が現われる。文脈だけ追えば現われるのではなくて、声が聞こえるだけなのだが、読み手には月の光が煌々と射すのが見え、浅黒い半裸の(きっとそうだ)象番の姿さえ見える。その神秘の世界がこちらへ来ないかと読み手を招く。

「『象番にならぬか』と言ったのは、象であろう。言われたような気がした、ということだ」と野口る理は書く。インターネットに若い女性俳人三人が立ち上げた『spica』の「よむ」という一句鑑賞〔※2〕でのこと。それも面白い。やけに象が大きくなったような気がする。

この句には異国趣味がある。異国趣味というと、 < わが末子立つ冬麗のギリシャの市場 > を思い出す人も多いのではないか。晴子はギリシャに行ったこともなかったし、子供は一人娘で、この句が「市場」という兼題で作られたというのはよく知られた話。これ等の句の背景には、晴子の生育環境や世代的な異国への憧れといったものがあるのだろうが、なによりも「市場」が、「象番」が、新たな景や物語を誘い出す。ここではないどこかの話のはじまり。

言葉が新たな景や物語を誘い出す過程に、作者の感性や作句法、つまり個性が現われる。俳句では兼題で作るということが当たり前に行われているが、そこでは最初から言葉が出発点になる。兼題という作り方には、同じ言葉から各人がなにを取り出して見せるか、色とりどりの布か、鳩か、というようなところがあって、そのゲーム性が俳句の愉しみのひとつだと思う。誰かが、思いもかけぬものを取り出してくれるのをわくわくして待ってもいる。

俳句は言葉遊びであると言ったら、反発を感じる向きもあるだろうが、遊びを広範に捉えれば文芸とは遊びだ。さまざまな意味を抱えた言葉たちを定型の枠に嵌めこむ、あるいは季語で縛る。縛りはきつければきついほど面白い。

では、言葉さえあれば句になるか。なるだろうが、躓きもする。なぜ躓くのか。なぜ「見る」のか。晴子にとっては「見る」ことがどうしても必要だったという。このことを思うとき、言葉とはなにかという大命題が立ちはだかる。大仰な言い方になってしまったが、十七文字という限られた語数で伝えられる(かもしれない)景や物語を紡ぐには、拠り所となる具象なしには迷路に入りこんでしまうということがよくある。ものの名前はどのような意匠を凝らしても目に見える。それ以外の言葉たちの指すものは実に頼りない。

『春の蔵』を開いて、目についた句を挙げてみる。< さきほどのひとは盥に冷えてをりぬ > < 春の蛇座敷のなかはわらひあう > < うたたねの泪大事に茄子の花 > 盥、春の蛇、茄子の花、これ等ははっきりと目に浮かぶ。この映像を頼りに、冷えているひと、わらいあう声、目尻の泪の感覚を味わうことで、句は五感に滲みてくる。

見ることで得た言葉には確かさがある。作者と読者を結ぶ手懸りとなる。それが俳句のすべてではないけれども、言葉に溺れてしまうと作品は危うくなる。

こんなことを思いながら難解な句が多いといわれる『春の蔵』を読むと、句が寄り添ってきてくれる。手懸りとなる言葉からイメージを膨らませて、それはもちろん、読み手であるこちらの側のものだけれども、読みに正解などなくていい。


〔※1〕「見ることからの出発」『秋のひかりにー俳句の現場―』紅書房 二〇〇年一〇月
〔※2〕『spica』http://spica819.main.jp/yomu/1839.html

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