2013-03-10

俳句の宛先について 上田信治

俳句の宛先について  

上田信治

「澤」2012年7月号「特集 震災と俳句」より転載


この脱皮した国民生活のうちにあつて、俳壇は如何なる足跡を遺したのであらうか。(内藤吐天「俳壇一年の回顧」一九四二年)

二〇一一年の地震から一年が過ぎて、俳句は震災にどういう影響を受けたか、あるいは受けなかったか。

それは、その人の俳句が前提としている共同性が、震災にどう影響を受けたかに拠る。

共同性を定義するなら「人の生の本質は個であることよりも集団の成員であることにあるのかもしれないと、思わせるような事情全般」とでもなろうか。

俳句における共同性については、とりあえず「俳人が上位概念と見なすもの、あるいは俳句の宛先」とでもしておこう。

そして、私たちの俳句は、共同性に依拠する部分がとても大きな表現だ。

俳句が、限定された文化サークルと、季語に代表される内輪の約束事を出発点に書かれることは、俳諧以前から受け継がれていることであり、また、その閉鎖性がきわめて高度なリテラシーをはぐくみ、その高度なリテラシーを前提にして表現がさらに高度化するという循環が、今日の俳句を作ったことは間違いない。

つまり、俳句は、作り手自身を含む、読みの共同体に向けて書かれる(ほとんど、その共同体だけに向けて書かれる)という性格を持つ。

このきわめて趣味的な表現行為に、到達すべき高みを打ち開いたのは、もちろん芭蕉であって、彼は、同時代同サークルの成員に手渡される水平的な表現であった発句に、至高性を追求する垂直的なものをつけ加えた。

つまり、ある意味、座興に近いものだったこの短詩を、芸術と呼べる域に高めた。

その一方、俳句が、現在もなお挨拶性を手放さないのは、人と人が共同性を介してつながり合うことそれ自体が、よろこびであり、表現行為の本質に近いことだからだろう。

そして、俳句は、宛先となる共同性を、自らに書き込みつつ生まれる。



冒頭に引用した文は、太平洋戦争開始からほぼ一年を経た『俳句研究』(一九四二年十二月号・特集「大東亜戦争一周年を迎へて」)に掲載された、内藤吐天の時評「俳壇一年の回顧」から引用したもので 

「大詔渙発一周年に当り、あの朝の感激が再び血潮に滾るのを覚えるのである。堰水を切つて落とした様な大いなる歓喜の泪で見た冬木の霜の耀きを、捷報相ついで晴れ澄む富嶽の荘厳さをいつの日か忘るゝ時があらう(…)この欣びの興奮はやがて粛然たる国民的自覚を結晶せしめ、勝利と建設への大行進が開始せられたのである」

という勇ましい一連につづくものだ。

命ありこの大霜の朝を覚む  前田普羅
かしこみて布子の膝に涙しぬ  富安風生
国こぞるどよもし天の冬日より  瀧春一
おほみことこのとき冬日もとゞまれる 長谷川素逝


以上は、同記事中に引用されている「大詔を拝したときの感懐」の代表句。

戦捷の飛雪あらたに暖炉燃ゆ   飯田蛇笏
梅二月うつそみにこの歓びあり  富安風生
戦捷てり寒煙高く汽車出で発つ  山口誓子
星港落ちぬ日輪雪を照らし出づ  臼田亞浪


こちらは「星港(シンガポール)陥落」に際しての句。これらに、

戦勝の静夜の松は霜降るらし  渡邊水巴
寒雲の夕焼けはしいくさ勝つ  同


を加え、筆者・吐天は「国民的感動の漲りと民族精神高揚のあらはれ」と称揚している。

読者は今日の目で見て、どういう感想を持たれただろう。

これら有名俳人の句はそれぞれ非常に立派だけれど、どこか「一丁上がり」というふうではないか。「寒雲の夕焼けはし」(水巴)、「飛雪あらたに暖炉燃ゆ」(蛇笏)、「寒煙高く汽車出で発つ」(誓子)などは、見事なようで、どこか求めに応じて懐中から取り出したフレーズのようにも見える。

それは「おほみこと」「いくさ勝つ」等の言葉に、私たちが当時の人のように胸が熱くならないせいかもしれないが。

これらの句は、よく知られる対英米開戦時の熱狂のうちに、日本人なら皆そう思っているはずだということを疑わずに書かれている。言い換えれば、これらの句が前提とする共同性は、国民国家とぴったり一致していてそれ以外ではない。

思うのだが、俳句は、その輪郭がすべて目に見え意識できる宛先に向けて書かれているようでは、ダメなのではないか。

もっと高く遠く、見えない宛先へ向けて書かれるのでなければ、予定調和的な、いわば天井のある表現になってしまうことは必然ではないか。

風生の〈かしこみて布子の膝に涙しぬ〉は、「大詔渙発」という前書つきで句集(『冬霞』一九四三年)に収録されているのだが、作者本人の風姿を伝えて「ああ、そうだったんだろう」と思わせる。佳句と言っていいだろう。

この句においては、写生という方法が、予定調和の天井に風穴を開けている。穴の向こうには、おそらく虚子を中心とする共同性があり、虚子が価値とする遠いものを当てずっぽうながらに分け持つことで、さらにその先へと開かれている(そのようにして上位概念を構成しそれを宛先とすることが、師承ということだろう)。

この号の後半には同年の自選集が掲載されていて、ざっと眺めたところ、各作家の自選八句中、あって一句か二句が戦争関連、戦争の影すら感じさせない普通の句が大半を占める。

ほとんどの有名俳人にとって、戦争詠は、共同体の期待通りにうかうかと書かされた、いわゆる挨拶句に過ぎなかったのだろう。

では、実際に戦場を経験した、有名無名の作者によって詠まれた句はどうか。

長谷川素逝『砲車』一九三九年
友をはふりなみだせし目に雁高く
かかれゆく担架外套の肩章は大尉
雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り 
秋白く足切断とわらへりき


片山桃史『北方兵団』一九四〇年
流れ弾飛べり軽傷兵饒舌 
冷雨なり眼つむり歩く兵多し
生きの身燃えひとりいや二人だ燃えつゝ撃つ
喇叭ふき人ら岩攀づ墜ちては攀づ


高浜虚子選『支那事変句集』一九三九年
鳥の巣に彼我の砲煙ちぎれとぶ 見浪博人
兵逝けり白夜明りに唇うごき  小田黒潮
弾の函立てて墓とす秋の草   長田三石


『俳句研究』一九四二年十月号「特集 大東亜戦争俳句集」 
靴底のスコール吐かせ煙草美味し 一樹
命あり月にレコード聞いてゐる  泉汀
臨戦準備なれり飛魚ひたに飛ぶ  良一


鈴木六林男『荒天』一九四九年
夜盲兵鼻梁を月に向け眠る
夕日のなか時には認識票磨く
雨の中軍醫撃たれて地にころがる
将軍の前一個の蜜柑喰ひ終り
遺品あり岩波文庫「阿部一族」
風が出てきた戦死者の飯も炊けよ


その場にいなければ書けない報道的価値のある句、極限状況を扱って美的に凄みのある句、強い感情移入をうながす句等、それぞれに見所があり優れていて、名句と言われるものもある(用語を入れ替えれば、そのまま震災詠になってしまいそうでもある)。

しかし、そういう関心で句集やアンソロジーを渉猟していると、自分が生物界で言うところのスカベンジャーのように思えてくるし、
それらの句が、読者を素材(ネタ)レベルに押しとどめる強制力を持つことを、退屈だとも感じる。

俳句作者に在るのは、生れてから今まで生きて来たという客観的な事実だけで沢山である。もちろん、その生きざまが複雑であればある程、条件はよいにはちがいないが、しかし、自覚するかしないかの違いを除けば、人間の内外をとりまく生死の複雑さは特定の人の特別のものではなく、万人それぞれこの複雑さの中に在るのである。(飯島晴子「言葉の現れるとき」一九七六年『俳句発見』)

ここで飯島晴子が言っていることを逆から言えば、例外的な状況を書くことは「万人それぞれの」特別のものではない「複雑さ」を見えにくくすることに、ならないか。

とりわけ戦争や震災のような事実を、生死の(存在の)複雑さの水準で受け取ることは、書き手読み手双方にとって困難なことだ。

さらに言えば、常識的であることは俳句をスポイルするが、そのような事態を前に非常識であることは、人として不遜である。

では、戦争や震災のような特殊状況を書いて普遍に達する一句は、いかにして生まれうるか。

俳句が挨拶であることの根源的な意味は、その時その場に一回限りの共同性を立ち上げることにある。

戦争詠や震災詠が、扇情性や常識的な共感に頼らずに、その共同性の場を成立させうるとすれば、それは一般的な共同性のはるか上方にそれを希求すること、つまり極端な垂直性によってしか、可能にならないはずだ。

つまりそれはごく当たり前に、ただ祈りのようにして生まれるのだろう。

読者としての自分は、そういうものはそっとしておいて、何十年後かにあらためて読みたいと、思う。


参考 『戦争と俳句』谷山花猿 一九八四年

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