2013-04-28

俳句の自然 子規への遡行17 橋本直

俳句の自然 子規への遡行17



橋本 直
初出『若竹』2012年6月号
(一部改変がある)
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前回見たように、虚子の句作初期において「怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜」という、自己を神のように見立てているユニークな表現があった。これは、本気なら宗教者以外あまり言い出さないような質のものであり、戯れに詠んだとすれば神威へのちゃかしでもあり、また、ナルシズムの可能性も含めて、モダンで大胆な着想だといえるだろう。

それ以前、近世では、例えば芭蕉に「半日は神を友にや年忘レ」、蕪村に「㡡ごしに鬼を笞うつ今朝の秋」、一茶に「秋風や仏に近き年の程」など、一見して神仏の類を身近に詠んだとおぼしき発句が見出せる。

芭蕉の句は、自身が神だとまでは言わないものの、「神を友」と言う表現をしていてユニークである。だが、実は上御霊神社という神域で歌仙を巻いていたがゆえの場への挨拶的な措辞であり、虚子のそれとはだいぶ趣が異なる。

蕪村には妖怪趣味という言われ方があり、河童を詠んだ句などもあるが、調べた範囲では自身を神あるいはそれに類するものに詠んだ句は見出せなかった。ただ、この引用句の「鬼」を、蕪村自身の詩魂だとする注釈がある〔注1〕

つまり、むち打って老いたおのれの作家魂を奮い立たせようというもの。そうだとすると、神ではないが、己を鬼として句に詠んでいることになる。そうなると、この「鬼」は、いわば老俳人の業であろうけれども、凄みはあるが、そう特別な比喩ではないと思われる。

そして、一茶の「仏」であるが、一見自身と仏の世との親和を詠んだようであるが、これも実は亡き祖母を指してのものであり、その祖母に自身が近づいたという感慨を詠んだものだという。その意味では、三句中ではこの句がもっとも俗っぽいといえよう。

いずれにせよ、これらの句には、超自然としての神仏の類の擬人化(またはその反転)の発想はあるけれども、何らかの形で自分自身をそれにみたてるという発想はない。では、子規はどうであったろうか。

  我等まで神の御末そけふの春 明治二十五年(抹消句)

この句は新年詠で、祝福されるべき「神の御末」を、自分たちもともにしているようだ、というくらいの意。初出は一月十三日付け碧梧桐宛の書簡に見えるが、翌二月十九日付けの碧梧桐宛書簡で、古人(二鶴)に「これでこそ神の御末ぞけさの春」があるので、「暗合ではなく小生のおぼろに記憶致居しものなるべし」とし、抹消句としている。記憶が曖昧であったのかこちらで子規は「我等まで神の御末ぞけさの春」と書いており、さらに二鶴の句に似てしまっている。

この二鶴の句は後年『増補再版獺祭書屋俳話』の「歳旦閑話」記事中の「神国」にも見えるので、子規のお気に入りだったのかもしれない。同記事中には「日の本の三ヶ日のどかに神の御末の榮え行く有様こそたふとけれ」ともある。

子規の句と二鶴の句を比較してみると、歳旦の句で「神の御末」を言祝ぐ点で共通するが、これは謡曲「羽衣」の一節から採ったものかと思われる。二鶴は指示語で思わせぶりに場の正月らしさを詠んだだけだが、子規の「我等まで」は具体性があり、先の虚子の句のようではないものの、新年の言祝ぎとして一応は神との一体感のなかにある。これと次の句をくらべると、子規のもつ意識はわかりやすい。

  元朝やわれは神國の男なり 明治二十七年

この句の発表は明治二十八年一月一日の「日本」で、「新年雑興」中の「男」での題詠である。が、これも「寒山落木」では子規によって抹消句とされている。日清戦争の最中のものであり、同日から子規は「俳諧と武事」という勇ましいタイトルの連載(三回)を書いてもいて、どうにも時代を反映した詠みぶりである。が、先の句とこの句を並べてみれば、古来からの神観と、近世の国学者が唱え維新の原動力になり、やがては昭和で暴走する神国日本という国家観と、その国家と個人の一体感の、素朴なる混在をみることができる。

今日から見ればそれに違和感を覚える向きもあろうが、子規は明治国家総体と個の一体感を気分として維持しており、それはこの時代における割合普通の感性(あるいは支配概念)に過ぎない。見落とされがちだが、子規の拠った「日本」は、国粋主義(後の国家主導のものとは全く異なる)の論陣をはった新聞社である。言語環境的にも子規には虚子のような神に関するユニークな着想は出てきそうもないし、実際でてこない。

さて、虚子の冒頭の「我を神~」の句は、子規のこの「神國の男」句の約一年後の作品である。二人の感性の差もさることながら、子規の句が戦中で、虚子のは戦後であるということがその詠みぶりに差を生んでもいるだろう。それはまさに世代の差で、この戦争に興奮し命がけで従軍を欲していた子供のようなところのある子規と、子規のような国家との一体感もない上にあとでその尻ぬぐいをする羽目になった虚子との間には、歴然とした自他意識の差があったように思われる。

  行く秋の我に神無し佛無し 明治二十八年

「病餘漫吟」他所収。従軍で病を悪化させた子規が療養中に詠んだ句で、「有感」と詞書がある。子規はこの句に新派の風として○をつけ、翌年「俳句二十四体」(「日本」明治二十九年一月~四月連載)の「主観体」に入れた。「主観体」とは「天然と人事とに関らず作者の意志感情を現はしたるを言ふ」のだという。しかし、神も仏もないという物言いは抽象かつ常套的で、事情を知らないとこの虚無の言い回しはつまらないだろう。

このように見てくると、子規の詠んだ「神」は既存の史観の中で物語れるが、この虚子句の主観的「神」は、時代の文脈からどうにも浮きあがるユニークさをもつと思われる。


〔注1〕「蕪村一茶集」(完訳日本の古典58 小学館)の注釈による。

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