2013-05-12

強くもなく弱くもない曖昧な存在として 小豆澤裕子句集『右目』を読む 松本てふこ

強くもなく弱くもない曖昧な存在として
小豆澤裕子句集『右目』を読む

松本てふこ



私の手元に俳誌「青」1979年6月号の「大いに語ろう 青の青年達」という座談会のコピーがある。調べものついでに「青」の面白そうな記事をコピーしていた時期があったのだ。若き田中裕明や島田牙城ら六人が裕明邸に集って爽波や虚子のことから俳句全般までを賑やかに語り合っている。師の句を時には「そんなにたいした句かなあ」「雑になった」「嫌いな句は嫌いです」と評したり、「最近の若いやつの句は女性的。溺れてるというかね。僕らは具体的なものを?まえなあかん」と息まいたり、結論がどうこうというより会話そのものの熱量が楽しい読み物だ。扉ページに彼らの集合写真があるのだが、牙城がひとり何故かゴヤの「裸体のマハ」を思わせるポーズで寝そべっている。その背後でしゃがんで笑顔を見せている裕明はほっそりとしている。

その写真の中に、やわらかいシルエットのワンピース姿で首をかしげて写る二十代とおぼしき女性がひとりいた。この頃の「青」に意欲的に俳句に取り組む若い女性がいたのか。「(自分にとって師とは、という質問に対し)敢くまで一角に過ぎひんねん。他にもいろんな俳句があるけど、今は他が見えてへんから、これで行こうとね。」と率直な物言いで答え、他を見たいという欲求は? とさらに問われると「もちろん。爽波先生が他を見るときの中心になってるわけよ。今はちょこんと先生に腰かけてるけど、ずっと見渡して、先生以上がいないとなると居坐っちゃうやろうね」と好奇心いっぱいな言葉を返す。かと思うと、「頭の中で理解しようとするから、ころころ好き嫌いも変わってくる。それが、一度見ることによって一つのイメージが固定されて俳句が解ったような気になる。けど今度はそのうちに、観念付いてたものがまた不安になってきてころころ変わる。その繰返しよ。」と、句の鑑賞に対するうぶな戸惑いも見せたりする。彼女自身の句はその座談会で一句しか出ていなかったが、その発言には何とも言えぬ魅力があった。彼女の名は、小豆澤裕子といった。

このコピーを入手した数年後、私は彼女の句集『右目』を読んだ。座談会当時は大学生だった彼女は、卒業後長らく俳句から離れていたが、牙城の誘いによって「里」の句会に参加し、その後「里」で精力的に作品を発表したり朗読にも挑戦しているとのことだった。「里」2010年8月号の『右目』特集は句集の読みを分厚くする手助けになるいい特集であったが、例えば「あほらしや男の美学さくら餅」のような句の印象があまりにも鮮やかであるせいか、女傑だとかつよさだとかカッコいいとか、そういう単語がどうしても目についた。思えば「青」の座談会でも、『右目』にも収録されている「格子戸に雪投げつける女正月」を「凄く男性的」と男性陣に評されていたが、そうだろうか。この句の、カウンター的に繰り出されるやんちゃな感性を評するのに、性別を持ち出さなければいけないのか、と少し残念な気持ちになった。

私は彼女の作品における男性との距離感に非常に共感するからこそ、「男勝り」「女性の強さが感じられる」というような解釈がなされることにどうしても違和感を感じてしまう。それはきっと、彼女の作品に共感する一読者にすぎない私をも「男勝り」だと言われている気分になるからだ。彼女の句を統べているのは「強くありたい」というより「素直でありたい」という思いではないだろうか。初学の頃に好奇心と心のぶれを同じ率直さで語ったように、彼女は自分の強さも弱さも知っているし、作品にもそれを刻み込んでいる。私は彼女が虚勢を張っている句より、強くもなく弱くもない曖昧な存在として詠んでいる句の方がずっと好きだ。例えば、

  愛してといはんがばかりしやぼん玉

に、自らの存在の儚さに逃げられるしゃぼん玉をうらやんでいる、彼女の秘めた弱さを感じないだろうか。

  春の宵先に泣かれてしまひけり

『右目』特集での星野早苗氏の評では、この句を女二人による景と解釈していたが、私はこの句を、男性に先に泣かれた句と解釈していた。恋愛でも男女の友情でもいいけれど、私が先に泣けるかな、とたかをくくっているところに相手と自分との明らかな違いを勝手に感じていたのだ。ただ、彼女は結局先に泣けなかった。きっと出そうだった涙は引っ込み、「やだちょっと、やめてよ」と場を和ませたりして泣きそうだったことなんてどこへやら、となってしまっただろう。「しまひけり」の下五に彼女の苦笑いが透けて見える。それはきっと少し困ったような、でも決して悪い気分ではない時に出る苦笑いだ。

  食うて寝て進化の途中冬木の芽

の、ただ一匹の生き物としてすくすく育とうとする心意気のチャーミングさも捨てがたい。

でも、私が一番好きな句はこれだ。

  「男湯が見える」と戻り来るうらら

女だけで温泉旅行にでも行き、離れていた連れが戻ってきてぼそりとつぶやいたのだろう。「見える」と報告するだけで、間違っても、ならばのぞこう! とか、呼びかけよう! とかいうことにはならない。見えるんだ、へえそうなんだ、程度で終わるやりとりのどうしようもないリアルさが切り取られている。「うらら」という季語の、どうしようもなく雑な配置と(この句の場合はこの雑さが実にいい効果を生み出している)、季語選択そのものもいい。強くなくても弱くなくても一緒にいられる集団の中で生まれた句という気がして、『右目』をこれから読む方々にはぜひこういう句にもご注目下さい、と呼びかけたくなってしまう。


小豆澤裕子句集『右目』(2010年5月/邑書林)web shop

3 コメント:

島田牙城 さんのコメント...

てふこさま、ありがとう。
歴史的事実を訂正しておくと、裕明邸ではなく、牙城んちの小屋、ね。

てふこ さんのコメント...

牙城さま、読んで頂きありがとうございます!
訂正の件、確認次第修整を、と思ったらコピーが見つからず!
早めに探し出して訂正します…すみません。

てふこ さんのコメント...

コピーを探し出してみたら、
談話の収録は裕明邸と表記があったので、
写真は牙城邸だったということなんでしょうか?