2013-05-12

父還せ 寺山修司「五月の鷹」考 澤田和弥

父還せ 寺山修司「五月の鷹」考

澤田和弥


寺山修司第一句集『花粉航海』は昭和五十(一九七五)年一月十五日に深夜叢書社から刊行された。全二三〇句の巻頭を飾る句が

  目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹

という、修司の代表句とされる一句である。

夏石番矢は「寺山修司の父恋いの情の一変種が見られる」とし、遠藤若狭男は「この一句の中に幼い日に父を亡くした寺山修司の父恋うる深い思いが貫かれている(中略)父の幻影を見ていたのではなかったか」と記し、高野ムツオは「不安定な心が、自分を受け入れ、そして、導いてくれる父なる存在を求める」と言う。また、葉名尻竜一は次のように記す。

「この場合の『鷹』は、精神分析でいう〈超自我〉のように、禁止の役割を担うことで『吾』を統制するもの。つまり、象徴化された『父』を意味していよう。その『父』の不在のもとで、寺山は『吾』を形成しなければならなかった」

葉名尻の「精神分析でいう」という説明は精神分析論の検討など慎重を期す必要があるものの、いずれもこの句と「父」を結びつけている。

寺山修司と言えば、まず「母」の存在が語られるだろう。では父はこの『花粉航海』や「目つむりて」の句において、どのように扱われているのだろうか。また「五月の鷹」を父の象徴と捉えた場合、この句の解釈の可能性はどのように広がるのであろうか。本小論において、これらの点を考えてみたく思う。



父・寺山八郎(はちろう)は警察官として勤務ののち、特別高等警察官を勤めた。昭和十六(一九四一)年、修司五歳のときに召集、南方戦線へ出征。昭和二十(一九四五)年九月二日、セレベス島(現在のインドネシア共和国スラウェイ島)にてアメーバ赤痢を発症し、戦病死。遺骨は帰らなかったようで、分骨の際も墓の下の土を骨壺におさめたという。文章が巧く、修司の文才は父親から譲り受けたものと萩原朔美は述べている。

修司は「父は戦病死」としながらも、その死因はアルコール中毒と必ず記す。過去の一切を比喩として、己れの歩んだ道を創作、改作しつづけた修司の「嘘」の一つとも考えられる。しかし必ずと言ってよいほど「アルコール中毒で死んだ」と書いていることから嘘ではなく、修司は本当にそう思い込んでいたのかもしれない。

いずれにしても修司が父と過ごしたのはわずか五歳までであり、九歳のときには戦病死によって、二度と父に会うことはなくなった。葉名尻の記すように修司は父の不在のなか、自己形成をしていかなければならなかった。



その父は修司の句のなかにどれほど登場するのか。母の句と合わせ、次に見てみたい。

『寺山修司俳句全集・増補改訂版』には990句が収録されている。修司が句作に励んだ昭和二十五(一九五〇)年から昭和三十(一九五五)年の句及び、宗田安正などが指摘しているように、それよりも後年の作とおぼしき作品を中心に構成されている。ここから父、母の登場する句をカウントした。「神父」「母校」など親である父母を指さない場合は除いた。

父の句は990句中35句、全体の約3.5パーセント。母の句は135句、約13.6パーセント。確認されている修司の句の一割以上が母を詠んだものであることがわかる。対して父の句はとても少ない。父と過ごしたのはたった五年間の幼き日々であり、その後の母一人子一人という家族構成から考えて、修司の中心には父ではなく、母一人がいたであろうことは理解できる。また多くの「父」が戦死し、母子家庭が大量に発生した戦後の社会状況を意識していたとも考えられる。修司が自己体験のなかだけではなく、社会状況を踏まえ、社会性という枠組みのなかで作句していたことは、黒瀬珂瀾などが指摘するところである。さらに細かく見てみたい。


昭和二十五年から昭和三十年まで、および昭和三十二年に初出が見られる句数および、そのうち父の句、母の句の数とその割合を示したのが、下の表である。



たとえば、昭和二十五(一九五〇)年から昭和二十六年にかけて初出が見られる句は82句。そのうち父は4句、4.8パーセント。母は8句、9.7パーセントとなる。全体を見て、母の句が占める割合は9.0パーセントから16.7パーセントである。それに対し、父は1.7パーセントから6.6パーセントである。一割にも遠く及ばない。ただし昭和二十七年の1.7パーセントを最低値として、一年ごとに割合が上昇している。昭和二十七年は修司十六歳、昭和三十年は十九歳。思春期からの成長の過程で、同性の親たる父の存在をだんだんと強く意識していったのだろうか。今挙げた句は計843句。父は計20句、2.3パーセント。母は122句、14.4パーセント。母の句は父の句の六倍以上の数がつくられ、全体の約一・五割を占めている。では次にここでは触れなかった147句を含む作品集・句集収録句を見てみたい。

147句は前記までに初出が確認できなかったものである。句集などに収録された句が大半である。これらを含む作品集・句集収録句について、次表をご参照いただきたい。



中井英夫の好意で編まれた第一作品集『われに五月を』(昭和三十二(一九五七)年一月、作品社発行)には91句が収録され、父の句は3句、3.2パーセント。母は14句、15.3パーセント。母の句は父の句の約五倍であり、全体の一・五割強を占める。

『わが金枝篇』(昭和四十八(一九七三)年七月、湯川書房発行)には117句が収録され、父の句は9句、7.6パーセント。母は11句、9.4パーセント。その差は2句、1.8パーセントの差である。これまで見てきたなかでは父と母の差がきわめて小さい。

第一句集『花粉航海』は230句を収録し、父は15句、6.5パーセント。母は20句、8.6パーセント。唯一、父の句が10句を越えているのが、この『花粉航海』である。「別冊新評・寺山修司の世界」(昭和五十五(一九八〇)年四月、新評社発行)所収の自選句集「わが高校時代の犯罪」は29句収録。父は2句、6.8パーセント。母は6句、20.6パーセント。ここで再度父と母の差が大きくなる。

修司が青春時代に作句したもの及び修司二十一歳の書『われに五月を』収録句において、母の存在が圧倒的であり、父の影は薄い。しかし『わが金枝篇』『花粉航海』では母の句を上回りはしないものの、その存在感を濃くしている。

前述のように父の句は35句、母は135句。そのうち昭和三十二年以降、主に句集などを初出とする147句のなかには父と母は、どれだけいるのだろうか。父は15句、母は13句である。父の方が2句多い。ここで注目したいのはこの父15句が35句中の15句であり、その割合は42.8パーセントということである。対して母の句13句は母の句全体の9.6パーセントに過ぎない。

母の句のほとんどは青春時代に詠んだものである。そしてその青春を経て三十歳を過ぎると、今度は父の句を詠みはじめた。また、父の句15句中、12句が『わが金枝篇』以降に初出。対して『わが金枝篇』以降に初出が確認される母の句は10句である。

『わが金枝篇』『花粉航海』の時期は、修司の俳句史上において、もっとも父を意識していた頃と考えることができるのではないだろうか。



では、次に『花粉航海』に収録された父の句を挙げたい。

  父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
  午後二時の玉突き父の悪霊呼び
  桃うかぶ暗き桶水父は亡し
  癌すすむ父や銅版画の寺院
  裏町よりピアノを運ぶ癌の父
  冬髪刈るや庭園論の父いずこ
  テレビに映る無人飛行機父なき冬
  亡き父にとゞく葉書や西行忌
  麦の芽に日当るごとく父が欲し
  父と呼びたき番人が棲む林檎園
  冷蔵庫の悪霊を呼ぶ父なき日
  父へ千里水の中なる脱穀機
  月光の泡立つ父の生毛かな
  法医學・櫻・暗黒・父・自瀆
  手で溶けるバターの父の指紋かな

全15句。有季9句(春2句、夏1句、秋3句、冬3句)、無季6句。『わが金枝篇』以前初出の句3句について、「桃うかぶ」は昭和二十九(一九五四)年十月「牧羊神」初出。「麦の芽に」は昭和二十九年二月「牧羊神」初出。「父と呼びたき」は昭和三十年一月「牧羊神」初出。

『花粉航海』のあとがきである「手稿」に「『愚者の船』をのぞく大半が私の高校生時代のもの」とあるので、「愚者の船」という章の「冬髪刈るや」は後年の作と修司自身認めるところである。

これら15句のほとんどが「父の不在」「父の喪失」を詠んでいる。

「父を嗅ぐ」書斎に父はいない。「午後二時の」では、父は死して悪霊。「桃うかぶ」では「父は亡し」。「癌すすむ」と「裏町より」では死病を患う父。「冬髪刈るや」は「父いずこ」により不在。「テレビに」は「父なき冬」。「亡き父に」の不在。「麦の芽に」では「父が欲し」なので、父は不在。「父と呼びたき」は番人であり、本来父と呼ぶべき父の不在を思わせる。「冷蔵庫の」は「父なき日」。「父へ千里」という、身近における父の不在。あの世の父をも想起させる。「手で溶ける」は、指紋という父の実在を証するものが、自らの手の内で溶けてしまう喪失感。「法医學」については解釈の難しいところであるが、「櫻」「自瀆」に喪失を、「暗黒」に不在を読むこともできよう。

つまり15句中14句が父の不在や喪失をテーマとするか、もしくは含んでいる。残り一句については後に触れたく思う。

以上のように『花粉航海』には不在である父の句が意識的に選ばれ、収録されている。これは同書収録の母の句、

母は息もて竃火創るチエホフ忌
  暗室より水の音する母の情事

とは大きく異なる。ここに描かれているのは、実在・存在する母だからである。

昭和四十八年刊『わが金枝篇』には父の句が9句収録され、うち8句が『花粉航海』に再録されている。後者において選外となったのは次の一句である。

訛り強き父の高唄ひばりの天

この句には大声で歌い上げる「生きる父」が描かれている。それゆえ「不在の父」を意識した『花粉航海』では選外になったのだろう。ちなみに共通して収録されているのは「父を嗅ぐ」「午後二時の」「桃うかぶ」「癌すすむ」「裏町より」「麦の芽に」「父と呼びたき」「父へ千里」以上八句である。「冬髪刈るや」「テレビに」「亡き父に」「冷蔵庫の」「月光の」「法医學」「手で溶ける」はいずれも『花粉航海』を初出とする。



『花粉航海』は『旧約聖書』「創世記」の引用からはじまる。

  彼は定住の地を見て良しとし、
  その国を見て楽園とした。
  彼はその肩に下げてにない、
  奴隷となって追い使われる。

  ロバの木をぶどうの木につなぎ、
  その雌ロバの子を良きぶどうの木につなごう。

第一連、第二連、ともに「創世記」四十九章に記される。この章はイスラエル十二部族の祖たちに、その父ヤコブが予言、祝福するという内容だ。第一連はイッカサルへのもので、定住の地を見つけ楽園とし、のちに奴隷になるという。第二連はユダへの予言の一部。「ロバの木」はロバの子の誤りと考えられる。ロバの子を葡萄の木につなぎ、雌ロバの子をよい葡萄の木につなごうという。

「句」集冒頭にあることから、ここに俳句を当てはめて考えたい。

第一連の「定住の地」「楽園」は俳句。その十七音の詩型を「下げてにない」、俳句自体の「奴隷となって追い使われる」。「ロバの子」「その雌ロバの子」は俳人。「ぶどう」は多産の象徴。俳句作品の多産に喜ぶも、所詮はつながれた奴隷の身。これは俳人を揶揄したものではなく、修司自身の率直な感想のように思う。

彼は自著『誰か故郷を想はざる』のなかで、俳句を「亡びゆく詩形式」と呼びながら、その「反近代的で悪霊的な魅力」を認めている。また昭和五十三(一九七八)年刊『黄金時代』のあとがきに「俳句は、おそらく、世界でももっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感される」と記す。『花粉航海』「手稿」には「齋藤愼爾のすすめを断りきれず」まとめたとあるが、これを機会に俳句を再評価し、のめり込んでいったのか。それがこの冒頭引用部に隠されているように思う。それは修司最晩年の俳句同人誌「雷帝」の構想へとつながっていく。

以上のように『花粉航海』冒頭「創世記」からの引用部分について、一解釈を試みた。この部分について触れているのは管見の限り、夏石番矢のみである。修司と引用は切っても切り離せない関係である。今後より多くの方々の考察を期待したく、記させていただいた。



目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹

『花粉航海』冒頭に収録されるこの句は、昭和二十九年六月の「暖鳥」初出。その後『われに五月を』『わが金枝篇』「わが高校時代の犯罪」にも収録されている。『われに五月を』では、俳句の章としては第一章目になる「燃ゆる頬」に

  ラグビーの頬傷ほてる海見ては
  車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて

に続く第三句目に収録されている。

『花粉航海』の第一章である「草の昼食」の第一部「十五歳」の第一句目として収録される。「草の昼食」とはマネの作品「草上の昼食」を思い出させるような言葉である。また、晴れた日の広い草原を眼前に浮かび上がらせる。次に「十五歳」。そしてこの句。つまり晴れた草原と十五歳の修司青年を頭の内に描かせたうえで、この句を読ませている。しかし初出時の修司は十八歳。すでにここに修司のイメージ操作による虚構の創作がはじまっている。少なくとも『花粉航海』編集時において、そのような意図があったものと考えられる。

こうして「目つむりて」という句は我々の前に現れる。前述のように、この「五月の鷹」を亡き父の象徴と識者たちは捉えている。その点を考えるにあたり、修司の句に登場する鷹について、次に見てみたい。

鷹が登場する句は全九九〇句中六句。

  鷹の前夏痩せの肩あげていしか
  鷹哭(な)けば鋼鉄の日に火の匂ひ
  鷹舞へり父の偉業を捧ぐるごと
  目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
  明日もあれ拾いて光る鷹の羽根
  みなしごとなるや数理の鷹とばし

初出の早い順に並べた。「鷹の前」は昭和二十七(一九五二)年十月「麦唱」初出。その後、同年十一月「暖鳥」にもある。「鷹哭けば」は昭和二十七年十一月「暖鳥」初出。「鷹舞へり」は昭和二十八年三月「青い森」、同年同月「青森高校生徒会誌」初出。「目つむりて」は前述のとおり、昭和二十九年六月「暖鳥」初出。「明日もあれ」は昭和二十九年十月「牧羊神」初出。その後、昭和三十年一月「暖鳥」にもある。『われに五月を』では

  明日はあり拾ひて光る鷹の羽毛

とあり、「明日も」が「明日は」に、「拾い」が「拾ひ」に、「羽根」が「羽毛」になっている。『わが金枝篇』では

  明日はあり拾いて光る鷹の羽根

とあり、上五の三文字目「も」が「は」になっている。「みなしごと」は『花粉航海』初出。

一句目、二句目が載る昭和二十七年十月「麦唱」と同年十一月「暖鳥」には他にも動物の句があり、かつ「檻」が登場するので、動物園での光景と考えられる。「鷹の前」は鷹の前での緊張感を詠む。「鷹哭けば」の「鋼鉄」は檻のことであろう。「鷹舞へり」には亡き父が登場する。鷹が父の象徴になっている訳ではないが、鷹と父を結びつけている点に注目したい。五句目「明日もあれ」は鷹の羽根に明日への希望を託している。ただしそれは羽根であって、鷹そのものは登場しない。六句目「みなしごと」は「みなしご」から親との関係を示唆するが、「数理の鷹」は理論上、または抽象的な鷹であり、具体物としての鷹の登場を避けている。つまり前三句は具体的に鷹が登場するが、後二句は鷹の存在を匂わせるものの、具体物として鷹という動物が句の景色に登場するものではない。



以上をふまえたうえで「目つむりて」の句を考えてみたい。

「鷹舞へり」において、鷹と父が修司のなかで結びついている。この句の初出は昭和二十八年三月。「目つむりて」は昭和二十九年六月初出。青春時代の修司が「五月の鷹」に亡き父を象徴させたことは充分に考えられる。そして三十歳を過ぎた『花粉航海』編集時においても、そのことを思い出し、同じ理解のもと、この句を捉えていた可能性は高いといえよう。また、「目つむりて」と後二句はともに『花粉航海』に収録されていることから、同書編集時において、修司は「目つむりて」の景色のなかに具体物としての鷹を登場させないイメージで、この句を扱ったのではないかとも考えられる。それはどういうことか。次に考えてみたい。

『花粉航海』を開く。読者は「創世記」からの引用により書物の世界へと導かれる。そして「草の昼食」という言葉に草原をイメージし、次に「十五歳」の修司青年をそこに立たせ、「五月」により薫風を吹かせ、「鷹」が青空を舞う。このような景色をイメージするだろう。それに間違いはない。しかしこの句の本当の景色は異なるように思う。

この句の主人公は「吾」であり、目を瞑っているのも「吾」だとすれば、そこに広がる世界は真っ暗なはずである。勿論視覚を閉ざしても、他の感覚器官により草原や薫風、日のあたたかさは感じられる。しかし目の前は真っ暗なのである。

高柳克弘が記すように「吾」は目を瞑ることで「密室」に入った。その暗闇でも、飯田龍太が書くように一羽の鷹が「胸中を占め」ていたのかもしれない。しかしそこに具体物としての鷹、生きている動物としての鷹は、いない。そこに描かれているのは胸中の鷹だ。鷹、いや。もう、いいだろう。本当のことを言おう。父だ。父はもういない。死んだのだ。

  木の葉髪父が遺せし母と住む

単なる母ではない。「父が遺せし」母なのだ。その父は今も私を統べている。草原。太陽。薫風。統べられている。この、恍惚感。父よ。あなたは五月の、鷹なのである。

『花粉航海』には父も鷹も、その不在や喪失を詠んだ句が収録された。また同書は句数の割合などから考えて、父を強く意識したうえで編まれている。それゆえに、父と鷹を結びつけ、かつその不在を言いながらも、今なお「吾」を統べる父という大いなる存在を詠んだ、この句こそが『花粉航海』の第一句目としてまさに相応しいのである。

この句の、統べられている「吾」と、冒頭の「創世記」からの引用部分第一連の「奴隷」との有機的な関連も指摘しておきたい。この関連をふまえれば、岸田理生が記すような、吾を統ぶと同時に吾が統ぶでもあるという解釈は、素直に肯えるものではない。



「目つむりて」の句は不在の父の存在を表現している。ここで想像の翼を広げさせていただきたい。修司は『花粉航海』にひとつまみの祈りを加えた。それは不在の父の再生である。

  枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや

という句に見られるように、死を虚構化することで復活や再生を描くことが修司にはある。『花粉航海』収録の父の句で、まだ触れていない一句がある。

  月光の泡立つ父の生毛かな

この句は他の十四句のように父の不在や喪失をそのまま表現したものとは思えない。描かれている父は遺体であり、「亡き父」なのだろうか。いや。思うにこれは遺体ではなく、再び生まれてきた父の姿ではなかろうか。生毛というやわらかなイメージもそうだが、「月光の泡立つ」に再生や、「竹取物語」のような不死を思う。

父の不在を詠み、それでもなお吾を統べる父の存在を詠み、ついにはその再生の姿までも描いた、というのは考えすぎであろうか。しかし修司であれば、そのような壮大なストーリーを十七音の詩型を集めた一句集に隠したとしても、不思議ではないように思う。一つの仮説として挙げたい。



次に、別の解釈を提案してみたい。「目つむりてい」るのは「吾」だと、どの鑑賞文でも記されている。しかしこの句を素直に読むと瞑っているのは「鷹」ではなかろうか。

黒瀬珂瀾は「いても」の下に切れがあり、瞑っているのは鷹と読むことは「誤読」であると記す。しかしこの句はそこで明確に切れている訳ではない。「いても」の下に切れがあるというのは、単に「そう読める」というだけの話である。それゆえ、切れていない読みも成り立つだろう。成り立つのであれば、やはり目を瞑っているのは鷹と読める。

しかし問題が一つある。鷹が目を瞑っているか否か、はたして分かるものだろうか。勿論飛んでいる鷹ではわからない。

動物園で檻の中の鷹を観察した。檻という限定された空間内でさえ、飛ぶ鷹の目が瞑っているか否かはわからない。では他にどのような場合が想定できるだろうか。檻の中でとまっている鷹の目は観察できた。また鷹匠の腕にとまる鷹の目も観察可能である。

しかし前述のように、この句は「草の昼食」「十五歳」という言葉によって、晴れた草原に修司青年が立っている景色を思い描かせるようになっている。そこに動物園や鷹匠の入る余地はない。今一度思い出したい。この句は不在の父が統べる者として存在していることを表現している。つまり不在の存在である。そして父は「亡き父」である。ここに一つの突破口が現れる。

つまり修司青年の前にいる鷹は、死骸である。

五月の薫風吹く草原に一人立つ修司青年。彼の目の前には目を瞑る一羽の鷹の死骸。まだ蛆もいぬ、きれいな姿のまま。じっと見つめる。鷹に統べられているように目を背けることができない。死との対峙。この鷹のように、父は死んだ今でもなお吾を統べている。死んでもなお存在している。この鷹と同じように。



寺山修司第一句集『花粉航海』の冒頭句「目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹」の「鷹」は亡き父の象徴であるのか。同書及びこの句において、父、鷹はどのように扱われているのか。これらについて『寺山修司俳句全集・増補改訂版』所収の全九九〇句を概観しつつ考えてみた。

父の句は母の句よりも圧倒的に少ないものの、その約四割強が『花粉航海』に収録されている。かつ収録句のほとんどは青年時代以降、おそらく同書編纂に合わせて作句されたものだろう。また収録句は父の不在、喪失を詠んだものが意識的に選ばれている。想像の域を出ないが、父再生の祈りとも思われる句も一句収録されている。以上の点から「亡き父へのオマージュ」という同書の一面を見出した。

次に『花粉航海』冒頭の『旧約聖書』「創世記」からの引用部分を検討し、それが再び俳句の魅力に囚われそうになっている修司の素朴な感想をシンボライズしたものである可能性を示した。この引用部分はこれまでほとんど触れられてはこなかった箇所であり、より多くの識者による考察を期待したい。

同書第一章「草の昼食」第一部「十五歳」というタイトルが第一句目「目つむりて」の景色をイメージさせる布石になっており、修司の巧みな計算がうかがわれる。

全九九〇句中六句ある、鷹の句を検討した。その結果、「五月の鷹」を亡き父の象徴とすることは充分に考えられることであり、また『花粉航海』収録の他の鷹の句二句から「目つむりて」の句においても、具体物としての、生きている鷹は不在である可能性を挙げた。同書においては父と鷹に「不在」という共通項がある。それらを踏まえてこの句の解釈を試みた。

「誤読」とまで言われた「目を瞑っているのは鷹」という解釈の可能性を「亡き父の象徴である鷹は、すでに死んでいる状態」という点から示唆した。



最後にこの句に戻りたい。

  明日もあれ拾いて光る鷹の羽根

鷹の羽根に明日への希望を見た。この光のなかに、亡き父の再生・復活への祈りを感じずにはいられない。

作品上で何度も母を殺すことで母恋いを表現した修司の父恋いについてはこれまで多くの方々が触れてはいるものの、その詳細な分析についてはいまだなされていなかった。その父恋いのなかに「父の再生・復活への祈り」が含まれていることを、俳句の方面から見出すことができたのではないかと思う。安井浩司が記すように「寺山俳句は自身が自身を救済している」

全990句の最後、昭和五十六(一九八一)年二月「河」初出の句を挙げたい。

  父ありき書物のなかに春を閉ぢ

この修司最晩年に見られる父恋いの思い。そして俳句への再びの意欲。この重なるものは何か。まさか俳句同人誌「雷帝」の雷帝とは父のことではあるまい。ただ俳句回帰願望と同時期に父への回帰願望があったことは事実と考えてもよいのではないだろうか。

『誰が故郷を想はざる』において「父親は克服すべき日本の『近代』の暗い象徴にすぎなかった」という小川太郎の意見は、少なくとも『わが金枝篇』や『花粉航海』には通用しない。

真相を尋ねようにも、修司は『花粉航海』のなかを光よりも速い言葉とともに駆け抜け、巻尾。

  月蝕待つみずから遺失物となり

いなくなってしまった。



参考文献

寺山修司『誰か故郷を想はざる―自叙伝らしくなく』 一九七三年 角川書店(文庫)
寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』 一九七五年 角川書店(文庫)
寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』 一九八〇年 角川書店(文庫)
寺山修司『寺山修司全詩歌句』 一九八六年 思潮社
寺山修司『黄金時代』 一九九三年 河出書房新社(文庫)
寺山修司『海に霧―寺山修司短歌俳句集』 一九九三年 集英社(文庫)
寺山修司『寺山修司俳句全集・増補改訂版』 一九九九年 あんず堂
寺山修司『花粉航海』 二〇〇〇年 角川春樹事務所(文庫)
寺山修司『われに五月を』 二〇〇〇年 角川春樹事務所(文庫)
寺山修司『寺山修司の俳句入門』 二〇〇六年 光文社(文庫)
『寺山修司全仕事展 テラヤマワールド』 一九八六年 新書館
『新文芸読本 寺山修司』 一九九三年 河出書房新社
『新潮日本文学アルバム五十六 寺山修司』 一九九三年 新潮社
『寺山修司ワンダーランド』(新装版) 一九九三年 沖積舎
『没後二〇年 寺山修司の青春時代展』 二〇〇三年 世田谷文学館
『KAWADE夢ムック文藝別冊 [総特集]寺山修司』 二〇〇三年 河出書房新社
「現代詩手帖 一九八三年十一月臨時増刊 寺山修司」 一九八三年十一月 思潮社
「太陽」第二十九巻第九号 一九九一年九月 平凡社
「雷帝」創刊終刊号 一九九三年十二月 深夜叢書社
「ユリイカ臨時増刊」第二十五号十三号 青土社
「江古田文学」第十三巻第二号 一九九四年三月 江古田文学会
「現代詩手帖 四月臨時増刊 寺山修司[一九八三~一九九三]」 二〇〇三年四月 思潮社
「寺山修司研究」創刊号 二〇〇七年五月 文化書房博文社
三浦雅士『寺山修司―鏡のなかの言葉』 一九八七年 新書館
萩原朔美『思い出のなかの寺山修司』 一九九二年 筑摩書房
齋藤愼爾・坪内稔典・夏石番矢・復本一郎編『現代俳句ハンドブック』 一九九五年 雄山閣出版
小川太郎『寺山修司 その知られざる青春―歌の源流をさぐって』 一九九七年 三一書房
俳筋力の会編『無敵の俳句生活』 二〇〇二年 ナナ・コーポレート・コミュニケーション
シュミット村木眞寿美『五月の寺山修司』 二〇〇三年 河出書房新社
仙田洋子『セレクション俳人 九 仙田洋子集』 二〇〇四年 邑書林
藤吉秀彦『寺山修司』 二〇〇四年 砂子屋書房
吉原文音『寺山修司の俳句 マリン・ブルーの青春』 二〇〇五年 北溟社
高取英『寺山修司 過激なる疾走』 二〇〇六年 平凡社(新書)
北川登園『職業、寺山修司。』 二〇〇七年 STUDIO CELLO
髙柳克弘『凛然たる青春―若き俳人たちの肖像』 二〇〇七年 富士見書房
酒井弘司『寺山修司の青春俳句』 二〇〇七年 津軽書房
塚本邦雄『百句燦燦 現代俳諧頌』 二〇〇八年 講談社(文芸文庫)
坂口昌弘『ライバル俳句史 俳句の精神史』(第二版) 二〇一〇年 文學の森
萩原朔美『劇的な人生こそ真実 私が逢った昭和の異才たち』 二〇一〇年 新潮社
松井牧歌『寺山修司の牧羊神時代 青春俳句の日々』 二〇一一年 朝日新聞出版
葉名尻竜一『コレクション日本歌人選四十 寺山修司』 二〇一二年 笠間書院
高野ムツオ『NHK俳句 大人のための俳句鑑賞読本 時代を生きた名句』 二〇一二年 NHK出版
安井浩司「寺山修司」(「俳句研究」第四十七巻第八号 一九八〇年八月)
飯田龍太「龍之介と寺山修司と」(「俳句研究」第五十四巻第一号 一九八七年一月)
夏石番矢「人生を忘却するために―『花粉航海』とは何か」
(「國文學 解釈と教材の研究」第三十九巻第三号 一九九四年二月)
宗田安正「寺山修司『花粉航海』」(「俳壇」第十九巻第十二号 二〇〇二年十一月)
五十嵐秀彦「寺山修司俳句論―私の墓は、私のことば」(「雪華」二〇〇三年十二月号)
五十嵐秀彦「言語の風狂 その後の寺山修司俳句論」(「雪華」二〇〇五年十一月・十二月合併号)
黒瀬珂瀾「寺山修司、一〇代の花」(「ユリイカ」第四三巻第十一号 二〇一一年十月)
遠藤若狭男「さびしい男の影―寺山修司へ」(「俳句界」第一九〇号 二〇一二年五月)
冨田拓也「百句晶々」(「スピカ」ホームページ内 http://spica819.main.jp/100syosyo

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