2013-06-16

【週俳5月の俳句を読む】藤幹子 大いなる胃袋の意思

【週俳5月の俳句を読む】
大いなる胃袋の意思
 

藤幹子


九階から上半身出す聖五月  金原まさ子

聖五月の明るさでまるで健康的に見えるけれども,危うい。なぜそんな高みから,恐れげもなく体を差し出せるのか。聖母の月に被昇天を願っているのだろうか。

人のような向日葵が来て泊まるかな

本当に向日葵に訪われる状況を想像できてしまうほど,向日葵は人に似た花だ。泊まる,というのだから明日にはまたどこかへ運ばれるのだろう。仮の宿に居心地悪げにおかれた花を面白がり,擬人化して見てやる温かみのある視点がこの句の主体の人柄を想像させる。

黒や白や毛がきらきらと野焼けあと

本来毛は残るはずもない。草木の絮の燃え残りにしても,光るはずもない。ならば,野焼けのあとの熱い原を走りぬけた獣が居るのだ。火の治まるのを待ち,人がやってくる前に,その身をさらすことも厭わず走り逃げた獣が。獣はいずこかへ去り,本能的な緊張と恐怖が置いていかれて光っている。そんな妄想をしたい。それがやはり絮の燃え残りかもしれなくても。

乱切りの白桃と葱の炒め物

こういうことは,ある。一人暮らしかもしれない,家族暮らしかもしれない,そのどちらでも,家という不思議な空間では,解剖台の上のミシンと蝙蝠傘のような出会いはしょっちゅう起こるものだ。香る白桃。香る葱。薄桃色のグラデーションのブロックと,半ば焦げのストライプの走るうす緑と白の重なり。起こってはいけない出会いのようでも,大いなる胃袋の意思は彼らを一つにしてくれるだろう。

セロリスティックの軽さで春の気狂れかな

さくりと噛んだ歯の内に,私もまいりましょう。読むほどに妄想を掻きたてていただいた作品の内へ,陽気に飛び込み,再び咀嚼され,消化されるために。

では,失敬。

〔誤記訂正及びお詫び〕

大変申し訳ございません。
本日掲載させていただきました「週俳5月の俳句を読む―大いなる胃袋の意思」におきまして,引用句を誤読しておりました。

冒頭、

牡丹散って蟄虫の屍へかぶさりぬ   金原まさ子

と引用しましたが,これは,

牡丹散って螫虫の屍へかぶさりぬ   金原まさ子

の間違いであり,恥ずかしいことに全く気が付かないまま「蟄虫」と信じ鑑賞しておりました。
このような引用間違い及び思いこみによる誤読,そしてそれをネット媒体へ掲出してしまったことについて,作者の金原まさ子さんに深くお詫びしたく思います。本当に申し訳ございませんでした。
また,掲載させていただいた「週刊俳句」にも(再三,掲載にあたっての引用の注意を教示いただいているにも関わらず),このようなご迷惑をおかけしたこと,まことに申し訳ございません。

その上で,恥の上塗りとは承知しておりますが,再びこの一句を鑑賞させてください。

牡丹散って螫虫の屍へかぶさりぬ   金原まさ子

螫虫は刺す虫,これは山田耕司さんの鑑賞にもあるとおりで,毒を持ち人や獣を刺す虫を言うようです。牡丹の散る頃は蜂や虻,蚋や蚊など刺す虫としての代表が揃いぶみの頃。彼らは愛されぬ虫とも言えるかもしれません。
その営みの終わりに,花の王と人から讃えられる花が,自らの衣を経帷子として下賜する。人の目の触れぬところで行われる美しい弔いの景はまた,強烈に人の介入を拒む景とも思えます。人が決して得られない花の王の慰撫を,受け得る毒虫の屍に,私は嫉妬すら覚えたのでした。



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