2013-06-16

【週俳5月の俳句を読む】山田耕司 聖女も悪女も軽さはセロリスティックの

【週俳5月の俳句を読む】
聖女も悪女も軽さはセロリスティックの
 

山田耕司


「セロリスティック」  金原まさ子


牡丹散って螫虫の屍へかぶさりぬ

牡丹散つてうちかさなりぬ二三片   蕪村

蕪村がどのように考えて句をなしたかは、さておき。

「牡丹散る」と書いただけでは、まだこれ、情報。情報という「知」を、五官を経由する「リアル」に誘い込むのが俳諧の業であるとして、「うちかさなりぬ」というわざわざ大げさな表現(「かさなりぬ」だけで用は足りる。ともあれ、二文字足りないからなんとかしちゃったというよりは、大げさな表現として「うち」がのっかったとみたほうがオモシロい)のはてに、「二三片」。なんだかあいまい。「二片」なのか「三片」なのか、はっきりしない。そうそう、これこそが、この作品における「リアル」。現実とは、そもそも花びらが何枚あるかなんてことを大した問題にしないのだ。「牡丹散り」ではなくて「牡丹散つて」とすることで、「ハイ、これから先のリアルにご期待ください」というような演出効果もうまれ、「知→リアル」への風景が展開される。

さて、金原作品。いうまでもなく、これは蕪村の句をふまえている。ふまえてはいるが、なぞってはいない。

端的に言えば、「知→知」。あえて元の句の「知→リアル」を型に、五感で他者と共感しあうルートを回避する。かといって、知的作業は「説明」という出口に近づくことなく、一句にはむしろ「迷宮」というドアのノブが示されているようである。

「螫虫」とは「セキチュウ」と読む。意味は「刺す虫」のこと。「屍」は韻律の誘導によって「シ」と読むのだろう。漢語のゴツゴツ感は、滑らかさを拒否する異物感をもたらすとともに知的な作業によって剥がすこと(なんと読むのだろう、どんな意味なのだろうと知りたくなること)への欲求を抑制しがたい蠱惑的なカサブタとして提示されているようだ。「よくわからないこと」に引き寄せられてしまう人は、このドアノブに手をかけることになるだろう。「刺す虫」とは「自己への喩なのではなかろうか」などと想像をふくらませることも可能だろうし、「刺す行為」とは「攻撃でもあり防御でもあり潜在的な暴力性でありつつも刺してしまえば自らの命が終わることになる行為」とでもいうようにとらえることで、これまた想像がふくらむ。ともあれ、金原まさ子は、そうした想像の果てをすべて提示しているわけではない。ドアの向こう側ではない。ドアノブを示しているのだ。噛んだ後にガムをふくらましてみせるのではなく、噛む前のガムそのものを示そうとするのだ。

したがって、金原まさ子の句の最初にして最大の読者は金原まさ子自身ということになるだろう。このドアノブからむこうに広がる想像の世界は、読者がそれぞれにかってにふくらませればよいのである。

どこかに確実にたどりつきたい人にとってみれば、金原まさ子の句は無責任で一方的に見えるかもしれない。しかしながら、どんなに確実にどこかにたどり着きたいならば俳句などよりも正確で明快な表現があるはずなのであって、そうした欲求を俳句「にも」持ち込む必要があるのだろうかと考えてしまわないわけにはいかない。どちらかといえば、わずかな情報と、そしてわずかなきっかけで、どんなに長い文章を費やしても体験することが出来ないクラクラ感をもたらすのが俳句ではなかったのか。正しく間違いなく過ごしたい人にとって俳句はあまりオモシロくないのではないか、あるいはそうした人たちが取り扱おうとするからこそ俳句作品がオモシロくなくなる傾向があるのではないか。まあ、そんなことを心配してもはじまらない。どの時代にもそんなことはあっただろうし、そのことを声を大にしてあげつらったところで、俳句表現がオモシロくなるとも思えない。


九階から上半身出す聖五月

上半身はかなり危険な状態に。下半身次第では、とりかえしのつかないことに。聖なるもののあやうさが地球の重さから発生する重力をテコにあぶり出される。

さて、なぜ「九階」? 

関東大震災で崩壊した凌雲閣は十二階、震災で八階部分より上が崩壊。

バベルの塔は天まで届き、さてこそモーゼに十戒、九つはもはや「リーチ」状態であるのか。

「苦界」には身請けを待つ女、九階に音が通じると思えば、その「上半身」の意味深さ。

どれでもいいじゃないか。そこにドアがあって、「迷宮」への道がつながっているのだろう。そんなシカケを説明も無く放り出しておけるのは、どうしてなのか、それは、これが俳句表現だからである、ということで。


道の辺の菫を撮りぬ斧もろとも

カメラ構えて彼は菫を踏んでいる  池田澄子

池田澄子の句は、微笑みながら醒めている。カメラを向けられて笑顔を浮かべているかもしれないけれど、その視野のスミでクールに現実を見ている。現実をクールに見てしまうのは、クールに見届けないでいるのが「日常」というもののならいであるからかもしれない。ロマンティック(現実よりもあたまのなかのキレイなものを優先してしまいかねない心持ち)にひたっているようで、にもかかわらず、であるからこそ、それをクールに見届ける言葉が提出されてくる。そんな重層性が池田澄子の魅力のひとつであろう。

さて金原まさ子は、ロマンティックなのだろうか。ロマンティックの対極に「写生」(叙事的な傾向があるという限定的な意味において)を置くとしたら、金原まさ子は、ロマンティックではあろう。しかしながら、星菫派のキレイさをたよりにしているところがあるかと聞かれれば、首をたてにふるわけにもいかないところだ。

どうにも「暴力の予兆」と「危険な匂いがする暴力の予兆をむしろ楽しんでいるのではないかとうたがわれる好奇心」を、ぬぐいさることができない。

そして、いうまでもないことなのだが、暴力の予兆には、もっとも暴力の害に脅かされそうなはかなく壊れやすいものが寄り添うことが似合うのである。この「アブナっかしさ」は、これがなぜ作品と呼ばれるのだろうかという知的な腑分けよりも先に読者に届き、やさしく毒素を分泌するのである。


人のような向日葵が来て泊まるかな

「向日葵のような人」ならば、町内にひとりぐらいはいるというものだが、「人のような向日葵」は、めったにいるものではない。背が高く、顔のような大きさの扁平な花を持ち、野原にぼうとたたずむ向日葵を人に「見立てる」こともできなくはないだろうが、それが「来て泊まる」とはただごとではない。こちらがのぞきこむように対象に対して想像をふくらませるのではなく、対象の方がなんらかの積極性をもって押し寄せてくる。そんな困惑。その微毒。


黒や白や毛がきらきらと野焼あと

「きらきらと」とは、まさしくキラキラとした、つまり明るさや期待感に満ちている状況を指し示す言葉。

「サイネリア待つということきらきらす 鎌倉佐弓」 この句には、ありふれた時空をいじらしく生きている中での希望などというものがあふれていてあまりある。ちなみにこれは「ふだん着でふだんの心桃の花 細見綾子」と同じ精神位相であるようだ。あえて大ざっぱな括り上げ方をすると、善人の句である。善人の句は、確実な読み応えをもたらすけれど、そこ以外のどこにも寄り道しない。読者を迷宮に踏み込ませたりはしない。

「野焼きあと」という状況で、「黒や白や」「毛が」となると、これはおもいっきりマガマガしい。「きらきらと」が、そのマガマガしさをキッチュに増幅している。それにしても、この「毛」は何の毛で、これはどのようないきさつにおいてこうなったのか、そんなことは一切わからない。しかし、気になる。そして、いままで読んだことがない「きらきら」を体験することができた手応えが、この身に残る。ああ、これは悪人の句。内容が残酷だから、ではない。読者を一つのところに誘導せず、むしろ、ドアの向こうで無慈悲に見放す、その術あってこその「悪」。


ランプもって薔薇剪りにゆく切り損ず

乱切りの白桃と葱の炒め物

命あるものへの嗜虐。それを悪とするならば、人間はすべて、悪。ともあれ、そんな理屈を嘆くのはだれか善人にまかせておいて、個人的な美意識で、悪の華を咲かせてみましょうか。それが金原スタイル。掲句の「切り損ず」に、三島由紀夫の介錯をしそこねる森田必勝の刀を思い浮かべるのは、金原まさ子の美意識が放つ毒ゆえなのだろうか、それとも内応する嗜虐性が血煙とともに読者である山田の大脳皮質にて目を覚ましたのか。


わかったふりで暗喩のような木耳食う

「太陽のような君」というのは、直喩。「君はボクの太陽だ」とやるのが、暗喩。それをふまえた上でこそ、「暗喩の〈ような〉木耳」という表現に、自らの設定に自らが際限なくハマってみせるループを感じることになるだろう。「暗喩のような」といえば「それじゃ暗喩じゃないじゃん」ということになるし、じゃあ「木耳は暗喩」というと「言葉として伝えたいのならば、暗喩のような木耳とでも言わない限りわからないじゃないの、読者は」というクレームが来ることになる、そんな設定のループ。不毛といえば不毛だが、なるほど、口に入れるもので「栄養がとくにあるわけでもなさそうで、季節感があるわけでもなく、あえていえば歯ごたえのような嗜好性においてのみ必要とされる」ものとして「木耳」は、有効打であろう。「キクラゲ」とせず、「木耳」としたのは、「耳」になんらかのドアノブ的な作用をもたせたかったのだろうか。不毛を不毛として遊ぶのに、「わかったふりで」とは、参った参った。


おこるから壜の蝮がいなくなる 

怒らぬから青野でしめる友の首  島津 亮

不毛といえば、〈腐女子〉が想起する男性同性愛。空想上の男と男のエロスは、現実において何の役にも立たない。この何の役にも立たないものにぞっこんになることのオモシロさ。木耳を食べるのに歯ごたえのみを味わうように、男性同性愛においても「役に立たない」からこそ純化されるオモシロさというものがあるのだろう。腐女子のチャーミングさは、この「目的なき合目的性」を体現するかのような嗜好性にあると思うのだが、いかがであろうか。

誤解を避けるために述べておくが、男性同性愛そのものが不毛なのではない。社会倫理的な審判をするのが文芸の土俵ではないのはいうまでもないけれど、それのみならず、現実の性愛は、直接的で実質的な目的をもつものであって、そこのところにのみ注目すれば、決して「不毛」ではないのである。そして、目的に対して切実になる恋愛の姿を、その容姿や性別で一笑にふしてしまうのは現実においてはなはだ残念なこと。腐女子が空想するイケメン同士の恋の姿と、現実の多様な恋愛関係とを、混同すべきではないだろう。

さて、島津の句は、なにやら少年同士の同性愛を想起させる句として、知る人ぞ知る存在なのだが、これは「青野」という舞台やら「友」への切実な行動だけでは「同性愛文脈」を認めるわけにはいかないだろう。「怒らぬから」という理由に対して「首」を「しめる」という行為からもたらされる、その因果関係の不毛さに注目しないわけにはいかない。ここに「共に感じてくれると期待していた義憤にたいして無関心である友への」「青年期特有の同化願望を前提にしたやむにやまれぬ行動」などと解釈がついてしまうと、「なんだ不毛じゃないじゃん」となる。「言いたいことがあってそのための行動だったんじゃないか」というわけである。

これはこれで、善人の心を打つものとはなるだろう。明確に内容が規定され、豊かな修辞で散文化されれば、それで「一句が読めた」という満足もえられるかもしれない。

「おこるから」から「壜の蝮がいなくなる」の因果関係の謎はいうまでもなく、悪人の所業。島津の句にただよう不毛性が、フラクタルめく自己増殖を繰り返し繰り返し、そのバリエーションのひとつを無作為にサンプル抽出してみたかのような一句。「壜の蝮」に、たとえば「管理され萎えたままになっている男性器」のようなメタファーを与えて納得するのも、金原まさ子の句の味わい方としては、ちょっとふさわしくない。それでは、せっかくふんわりとすくいとった「不毛」の泡が潰れてしまいかねないのである。


セロリスティックの軽さで春の気狂れかな

悪女と聖女の区別とはどこにあるのだろうか。

リアルな社会においては、その社会の都合で「聖なる領域」やら「不道徳な領域」やらが設定されていて、おのずからその行為においてその人の立ち位置が判断されたり、あるいは、そういう立ち位置にいることの社会的圧力によって行動が規制されたりもするのである。

それはそうと、文学的な聖と悪においては、「身を委ねればみんなが同じところにゆく」ものと「誘惑はしますがそこからさきはお好きにどうぞ」というものに分けられることもありそうだ。

悪女の妄想を聖女が書きとめる。妄想を、俳句形式というフレームとつきあいながら管理する。

聖女のメモを悪女が読み、えらぶ。形式がもたらす表現を、そのままにせず、むしろ誘惑のドアノブなどとりつけて、読者としての嗜好を充たす。

聖女と悪女の入れ替えは、セロリスティックのひとふりほどのかろやかさで執り行われることだろう。

そもそもみずからを「○○女」などとカテゴライズするような「意味」のある行為はお好みではないだろうから。

俳句形式とのつきあいでいえば、その短さと深さにおいて、聖女と悪女の入れ替えにそうそうおおげさな手間など不要であろうから。


良い人は天国へ行ける
悪い人はどこへでも行ける  金原 まさ子
                 (『あら、もう102歳』(草思社)より)



第316号2013年5月12日
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金中かりん 限定本 10句 ≫読む

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