2013-06-23

朝の爽波72 小川春休



小川春休




72



そういえば、片山由美子さんは「光まみれの蜂」の「まみれ」は表現として汚いから、美しいものに使わない方がいいという主旨のことを発言されたそうですが、たとえばそういう規範的発想が、「俳句上達」という競技の採点ルールを作っている。
上田信治「【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?」

神野紗希さんの〈ブラインド閉ざさん光まみれの蜂〉という句について、こんな話がちょっと前にあったのを思い出しましたが、昭和六十年の〈八つ手葉の落ちて残暑の日まみれに〉という爽波の句は、どういうふうに読まれるでしょうか。「美しいもの」と言っても、個人的には、美醜の境界がそんなに固定的なものとも思えず。生命力に満ち満ちた「光」であっても(いやそうであればこそ)、それを厭わしく感じることもあり得る訳で。

さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十年」から。今回鑑賞した句は昭和六十年の夏から秋の句。「残暑」の句の後に夏季の句が並んでいますが、はて、どうしたことか。

夜店の灯なんばんの花まざと折れ  『一筆』(以下同)

なんばんの花とは、玉蜀黍の花のこと。茎の頂に芒の穂に似た雄花をつける。それほど遠くまでは照らさぬ夜店の灯に照らし出されたのは、玉蜀黍の丈の高さゆえ。まざと折れた花の下には闇が広がっている。境内を外れればすぐ畑と言った景も浮かんでくる。

八つ手葉の落ちて残暑の日まみれに

八つ手はその大きな葉から、「天狗の羽団扇」との別称を持つ。地に落ちてもその大きな葉の存在感は目を引く。厳しい残暑、真上から照りつける強烈な日差しに、その全面を照らされるがままの八つ手の葉の生々しい様子を、「日まみれ」と描写している。

清瀧に花札ひいてはたた神

清瀧は、京都の愛宕山東南の地。愛宕神社への参詣路で、夏は京都で数少ない避暑地となり、紅葉の名所でもある。地名と雷というスケールの大きな上五と下五の間に挟まれた中七が、花札の黒く艶やかな裏面からぱっと裏返る瞬間を見せて、実に生き生きとしている。

囮鮎売るに真赤を着し女

友釣りは、鮎の縄張り内に囮鮎を進入させ、追い払おうとして体当たりしてきた鮎を釣り上げる技法。この釣り方自体因果なものだが、囮鮎を売る商売もなかなかに因果。一句においてはそうした善悪の判断などは差し挟まず、色彩の印象だけが生々しく強調されている。

すつぽりと鏡中にあり青芒

一mから二mほどの丈をなし、青々と茂る芒。中秋の名月には芒を屋内に飾るが、夏の青芒はやはり野原のもの。掲句の青芒も、野のものが屋内の大鏡に映ったものであろう。青芒の丈を思えば、鏡の大きさが窺われる。屋内の人の生活と屋外の自然との邂逅の一句。

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