2013-07-28

「新・五七調」再論 小野裕三

「新・五七調」再論

小野裕三

『豆の木』第7号(2003年)より転載

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以前あるところに発表した文章の中で、「新しい五七調」というものについて触れたことがある(『海程』2002年4月号)。そのときは紙数の制限もありやや説明不足の部分もあったので、この「新・五七調(もしくは七五調)」について本稿では少し詳しく述べてみたい。なお、第一章については日本のポップ音楽史を研究する佐藤義明氏の所論(『創発的言語態』東京大学出版会、『J-POP進化論』平凡社)に多くを拠っていることをあらかじめ申し添えておく。

それでは、まずはこの歌から始めよう。

日本の未来は Wow…
世界が羨む Yeah…
恋をしようじゃないか Wow…
(「LOVEマシーン」モーニング娘。)

なんのことはない、「モーニング娘。」の大ヒットした歌。特別変わった歌でもなんでもないし、おそらく多くの人が耳にし、場合によってはカラオケなどで合唱したに違いない。平凡な日常の中の平凡な光景でしかなく、とりたてて問題にするようなことはどこにもなさそうだ。だが、ひょっとしてこの歌が持つ「何か」が、既存の俳句に、もしくは韻文形式の文芸に、根本的なNonを突きつけかねないとしたら、どうだろう? まさかそんな馬鹿な…、ただの平凡なヒットソングじゃないか、こんなものの一体どこにそのような革新性があるというのか――大抵の人はそう思うに違いない。だが、まさにこの歌がまったくの平凡な歌に見えてしまうというそのこと自体に、革新性が潜んでいるとしたら?

この謎解きはこういうことだ。この歌は、俳句などの既存の韻文形式とは違う「韻律感覚」に基づいている。つまり、われわれが五・七・五と数える韻律感覚とは違うリズムがこの歌には存在してしまっているのだ。ご存知の方はこの歌を口ずさんでみて欲しい。

にっ・ぽん・の・み ・ら ・い ・は  せ ・かい・が・う ・ら ・や ・む  こい・を ・し・よう・じゃ・ない・か

というふうに歌われているが、実はこれはこれまで日本の韻文や唄にあったものとは違う韻律感覚に基づいている。既存の五・七・五もしくは五・七・五・七・七という韻文は、もしくは多くの大衆歌は、仮名一文字が一音となることを原則としていた(拗音のみ例外)。

ふ・る・い・け・や・・か ・わ・ず・と・び・こ・む・・み・ず・の・お・と
け・い・と・う・の・・じゅ・う・し・ご・ほ・ん・も・・あ・り・ぬ・べ・し

そして、日本の俳句も短歌も、そして唄も、基本的にはこの原則に従っていた。だが、前述の佐藤氏が言うように、ロックなどの外来音楽の急速な流入を受容した果ての現在のJ-POPにおいては、その受容の軋みの中でこれまでとは違う韻律感覚が生み出された。実際、ロックが導入された当初の日本では「日本語でロックは可能か?」という問いが真剣に議論され、そしてそのようなロックの受容は不可避的に日本語の何かを変えることとなった。

佐藤氏が「《ロックする日本語》のための第一歩」と呼んだもの、それは「ゃ」「ゅ」「ょ」だけでなく「ん」「っ」「-」「い」をも前の仮名と一緒にして一音と数えてしまう、つまり「すべてのカナ表記音を等価に扱う韻律を崩す」という韻律感覚だ。そして、「LOVEマシーン」ではこの原則がすっかり定着してしまっている。「にっ」「ぽん」「かい」「こい」「よう」「ない」などの部分がそれにあたる(ちなみに、「未来」の「い」だけ旧来の韻律になってしまっている点にも注目したい)。

旧来の俳句における「定型」を巡る論争、それはつまり五・七・五を採用するかしないという論争だったのだが、結局のところそれはこの旧来の韻律感覚、つまり「すべてのカナ表記音を等価に扱う韻律」感覚から一歩も出るものではなかった。この韻律の枠の中で、俳句は定型を採用すべきか否かが議論されてきた。結局その議論も確たる結論が出ることもないまま雲散霧消してしまったという感が強いが、あえて私見を述べるならば、僕個人としてはこの論争は既に決着が着いたものだと思っている。つまり、自由律の句も定型というもの存在を前提としてしか成立しえないという意味で定型は俳句にとって必要なものだ――これをとりあえずの結論としてもよいだろう。

だが、そんな議論とはまったく関係のないところで、二十世紀後半における日本語の韻律感覚はある変容を遂げていた。「LOVEマシーン」は、特別な歌でもなんでもなく、そのような変容の果てのひとつの表れにすぎない。だが、逆に言うならこの歌が特別な歌とも感じられないという事実こそ、この新しい韻律感覚の広範な定着を裏付けている。

とは言え、この新しい韻律感覚は実を言うとまだまだ揺れている。それは、「LOVEマシーン」の先に見たフレーズにおいてすら古い韻律感覚と新しい韻律感覚が同居してしまっているということにもその一端を見ることができる。あるいは、さらにこの新しい韻律感覚をさらに過激に進めてしまった韻律感覚も存在している。この例を見て欲しい。

蜘蛛の巣のような高速の上
ク・モ・ノス・ノ・ヨ・ウ・ナ・コー・ソク・ノ・ウ・エ
目的地へ五キロ、渋滞は続いている
モク・テキ・チ・エ・ゴ・キ・ロ・ジュー・タイ・ワ・ツ・ズイ・テル
(「光の刺す方へ」Mr.Children)

ここでは前述の韻律感覚よりさらに進んだ法則が採用されている。「ノス」「ソク」「モク」「テキ」「テル」がそれにあたるのだが、これらはつまりそれぞれnos、sok、mok、tek、telとして読み下されたのだと言える。要は、日本語がカナの呪縛を離れてその音律を限りなく英語的なsyllableに近づけて受容されたときにこのような韻律感覚が生まれる。

勿論このことは、日本語をロックの音楽に乗せようとした先人たちが日本語をまるで英語のように発音することによって解決しようとしたことと無縁ではあるまい。LOVE PSYCHEDELICOの「LADY MADONNA~憂鬱なるスパイダー」は旧来的な韻律感覚によれば、「ユ・ウ・ウ・ツ・ナ・ル・ス・パ・イ・ダ・-」の11音。「LOVEマシーン」に見られた新しい韻律感覚に従えば「ユウ・ウ・ツ・ナ・ル・ス・パイ・ダー」の8音。だが、実際の歌は「you・woots・nul・spi・der」の5音。ここでは日本語の英語的な読み下しが徹底して推し進められている。

実を言うと、「LOVEマシーン」に見られた韻律感覚も同様に英語的な読み下しがベースになって成立してきたものではないかと推察される。要は、それがどこまで徹底されたかで差が出てきているにすぎない。それが、「揺れている」ということの意味だ。また、「LOVEマシーン」の歌も、あるいはMr.Childrenの歌も、決してその中で一貫した法則が貫かれているというわけでもない。これもまた、新しい韻律感覚の「揺れ」を示すものに他ならないだろう。

ただ、いずれにせよJ-POPの世界では新しい韻律感覚が登場し、まだ揺れているとは言えかなり広範に定着している事実が確認できる。となると、問題はこういうことだ――俳句にとって定型が必要であることには既に結論が出た、だが仮にその定型を支えた仮名一文字を一音と数える韻律感覚自体が一部にもせよ日本人の肉体の中で変容し始めているとするなら、それは旧来の定型になんらか影響を及ぼすことはないのだろうか?

つまり、「憂鬱なるスパイダー」という言葉があるとしよう。ひょっとして、この言葉が5音の言葉として感知されるとするなら、これは定型の中の「上五」もしくは「下五」として十分に中に収まりうる。そのような五七調(もしくは七五調)の世界が繰り広げられたとしたら――これこそ、僕が「新・五七調」と呼んでいるものに他ならない。



2

と、ここまで議論を進めてきたところで、これに対する反論が当然予想される。それはこういうことだ――音楽などに見られるような新しい韻律感覚が登場していることは事実として認めるとしても、俳句がそれに影響されなければならない必然性はどこにもない、俳句は俳句として音楽の変容とは無縁のところでこれまでの定型感を大事にすべきではないか、と――。

なるほど、この主張には正当性がありそうだ。音楽の世界で新しい現象が起きているからと言って、長い歴史を持つ俳句が慌てふためいてその歴史をかなぐり捨てて新しい時流に迎合することはない。俳句は俳句として、この旧来的な美しい定型の世界を守っていけばそれでよい――そう考える人がいてもおかしくはない。

そして、実を言うと僕も半分くらいはそのように考えている。仮にこのような新しい韻律感覚が登場したからといって、俳句が保持している旧来的な五・七・五の強さ、美しさは決して揺らぐことがない。いやむしろ、そのような新しい韻律感覚が出てきたからこそ、我々は日本語の伝統を守るためにも今までの五・七・五を大切にすべきなのだ、と、僕も大方はそのように考えている。

だが、この考え方にはやはり一点の曇りがある。それが、僕が「新・五七調」を唱えている理由だ。

一体全体、なぜこのような新しい五七調が必要なのか?

それは単に新しい日本人の韻律感覚が登場したから、というだけではない。そのことによって、日本人の「新しい情緒」が登場したから、なのである。僕は決して旧来の正統的な五七五を全面否定しようとしているわけではなく、現に旧来的な五七五の俳句を多く作っているし、これからも作り続けるだろう。だが、問題はこの五七五から抜け落ちてしまうなにか別の情緒がある、ということだ。それを掬い取るためには、もっと別の形が必要なのではないか、という思いがある。そのためのひとつの可能性として、「新・五七調」ということを言っているにすぎない。

ちなみに、小説家で俳人の長嶋有氏が実はかなり近いことを言っている(「《五九四》俳句について」『すばる』2002年4月号)。「もうそろそろ、俳句は五七五だけでなくてもいいのでは」とする氏は、「五九四俳句」なるものを提案している。それは単純に、五・九・四の区切りで俳句を詠むというものだが、氏がこれを提唱するのは「Jポップ的な早口の文化」に慣れた耳には結構リズムよく感じられるということが理由のひとつであり、それ以上に重要な理由は「五七五で読み得る内容だけでは満足しきれなくなっている」、つまり「五七五の磐石のリズムから生じる安定した空気感の中」では彼の「表現したい感覚が出し切れない」ということだ。

彼もまた既存の五七五俳句をひっくり返してやろうというような野望があるわけではなく、単に自分の表現したいものが五七五では伝わらないから細々と別のスタイルを試してみたい、ということに過ぎない。

そして、僕も(五九四にせよ、新・五七調にせよ、最終的にどういう形が可能かはこれからさまざま模索が続けられるべきだろうが)彼の所論には概ね共感している。確かに、今の時代を生きる我々には旧来的韻律感覚に基づく磐石な五七五の定型では掬い取れない情緒がある。

そこで既存の五七五で表現できないもの、とは長嶋氏曰く「せつなさ」、ということになる。僕の感覚ではこれを「東京的なるもの」というふうに位置づけているが、おそらくそれは「せつなさ」からそれほど遠いものではないだろう。

「東京的なるもの」とは、たぶん「現代消費社会的なもの」といった言い方をしてもよい。極度に明るくて輝いているがその分どこか空々しくて虚しく、どこか嘘めいていて現実感が希薄な分だけ遍在的な強い力で我々の周りを覆っている。

これは、あるいは「メディア空間的なもの」と言ってもそれほど間違っていないかも知れない。テレビを中心として、ドラマや歌や映画やそういったものが作り出す、あの徹底的に賑やかで徹底的にせつないメディア空間が現実社会に次第に漏れ出して作り上げた情緒、それがこの「東京的なるもの」の正体なのだ。

やや手前味噌で恐縮だが、過去、自分自身で作った「新・五七調」俳句は実は二句しかないが、それは正確にこの「東京的なるもの」という概念を反映している。

  ごめんね東京砂時計が見えない

  メキシコ料理店のように大降り

最初の句は、go・men・ne・to・kyo・・su・na・do・kei・ga・mye・naiとなり五・七の、後の句はmex・i・co・ryo・ri・ten・no・・yo・ni・o・bu・riとなり七・五の韻律になる。前の句は僕の感覚では東京モノレールのイメージである。一時期、仕事の関係でよく浜松町からモノレールに乗っていたことがあり、そこから眺める東京の暮れてゆく街並、モノレールに乗っているビジネスマンや羽田に向かう旅行者、寂しく漂ってくる海の気配、そういったもののイメージが混然となってこの句ができた。

また、ある時期東京の都心・広尾に住んでいたことがあって、後の句はそのときの感覚をもとにしている。恵比寿や渋谷や広尾といったところにあるメキシコ料理店の印象を核とし、夜でも煌々と灯がともる明治通り、深夜でも絶えることのない車、どこか嘘めいた姿の街ゆく人々、そういったさまざまなイメージがこの句を作り上げた。勿論、この二句を作り出したこのようなイメージ群は、僕が言うところの「東京的なるもの」をどこかシンボライズしているものと言ってもよいだろう。

つまりこれらの句はやや図式的に言うならば「東京的なるもの」が発動して短詩型の形を取り、事後的に検証してみると「新・五七調」になっていたということになる。勿論、「東京的なるもの」がこのような新しい韻律感覚に基づく「新・五七調」の形を取って現れたことには理由がある。つまり、J-POPに代表されるような新・韻律感覚に基づく音楽が、この「東京的なるもの」を育むのに大きな貢献をしたのだ。

新・韻律感覚に基づくJ-POPなどの音楽は、メディア空間を通じてこの数十年の短期間の間に数限りなく生産され、消費され、また生産され、そして人々に口ずさまれ、記憶され、現代消費都市を中心とする人々の日常生活の恋や喜びや悲しみや、そういったものを色濃く彩ってきた。

その間に、この新しい韻律感覚がこれまでにない新しい情緒を紡ぎだしてしまったとして、それは不思議なことではない。そして、これほど濃厚な感情をその襞の中に織り込んでしまった新しい韻律感覚が、旧来の韻律感覚に基づく五七五からはこぼれ出してしまうような短詩型を紡ぎだしてしまうとしても、それは決して不思議なことではない。

繰り返しになるのだが、僕自身としてはこれからも俳句における旧来的な定型の必要性を否定するつもりはまったくないし、その力を自分としても活用しつづけていきたいと思っている。だが、一方でそこから零れ落ちてしまう韻律感覚や情緒ができあがりつつあること、そのこともまた率直に認めるべきだと思う。さらにまた、その韻律感覚や情緒が予想以上の速さで広く深く浸透しつつあるということも。

正直なところ、ここで提唱する「新・五七調」が本当にそのことに対するベストの解なのか、それすらも今の僕には断言できる自信はない。だが、日本人の肉体に新しい韻律感覚が宿り、それに伴って新しい情緒が紡ぎだされていること、そのことは間違いのない事実だろう。だとするならば、少なくともその情緒を掬い取るための何かの新しい方策を、日本人が生み出した文芸たる俳句は真剣に考える必要があるのではあるまいか?

冒頭で、「モーニング娘。」の歌を取り上げた。完全に新しい韻律感覚に基づいているこの歌は、まさしく大衆的なヒットソングとなった。多くの人がテレビやCDや、その他さまざまなところで耳にしたし、カラオケなどでも頻繁に愛唱された。

もし俳句という文芸がこれからも大衆性ということにその足場を置くつもりなのであれば、旧来の俳句を支えてきた韻律感覚とは違う韻律感覚の歌がこれほどまでに多くの人に愛されていること、その事実をもっと重く受け止める必要がある。心ある俳人であれば、このような音楽が既に俳句などよりはるかに頻繁に多くの人に愛唱されているという、この単純なる事実にもっともっと戦慄すべきなのだ。

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