2013-07-28

中八考 兵頭全郎

中八考

兵頭全郎



朝日新聞大阪版の川柳欄「朝日なにわ柳壇」の評文冒頭にて先日、次のような文章が書かれていた。

せっかくいい着想なのに、中八になっていて残念に思うことがあります。出来上がった句を音読してみると、中八がいかにリズムが悪いかが分かりますのでお勧めです。
(朝日新聞2013年7月20日付 西出楓楽選・評)
中八についてこのような指導の文言は、おそらく相当以前から何度も繰り返し使われてきた言葉であろう。しかしこの「リズムが悪い」という表現、果たして本当だろうか? もし本当に「リズムが悪い」のであれば、五・七・五というごく初歩的で簡単なルールがこれほど守られないのは何故なのだろう。逆に初心者ほど字数に気をつけるはずなのに中八になるということは、その方がリズム的に自然な流れだと感じているからではないだろうか。

そもそも、この「リズムが悪い」という言葉自体、具体性に欠けている。基本となるリズムがどの様なものかを示さずにただ「悪い」といわれても、新聞や解説書を「黙読」している者にとっては、どの様に音読するかがわからないので良いリズムも悪いリズムもないのだ。それなら「五・七・五音は絶対的ルールだから必ず守りなさい」と言われた方がまだ納得がいく。だが、ほとんどの選者や評者は、こうは言わない。

川柳・俳句・短歌などの「七五調」のリズムを考えるには、三味線に乗せて唄われることの多い七・七・七・五の「都々逸」を聴いてみるとヒントになるかもしれない。そう思ってネット検索で色々調べていると発見があった。発祥は川柳より五十年ほど後の江戸末期頃なので、川柳の創始期のリズムとは少し異なるかもしれない。しかし都々逸の創始者である都々逸坊扇歌は四世川柳の門人だったようなので、ルーツは少なからず繋がっていると言えよう。もともと唄うことを前提に作られる都々逸は、実は音字制限に相当厳しいらしい。(さらには「川柳止め」なる禁忌も存在するようだが、ここでは割愛する。)その上でウィキペディアの「都々逸」の項から一部引用する。

七・七・七・五はさらに(三・四)・(四・三)・(三・四)・五という音律数に分けられることが多い。この構成だと、最初と真中に休符を入れて四拍子の自然なリズムで読み下せる。

例えば、先の唄なら、

△こいに こがれて なくせみ よりも△
△なかぬ ほたるが みをこが す△△△


となる(△が休符)。なお、この最初の休符は三味線の音を聞くため、との説がある。

また音楽的な特徴として、都々逸のリズムは基本的に二拍子だが、フレーズの終わりがしばしば自由な長さで引き伸ばされ、さらに三連音符の連続と、拍の頭をはずした唄い出し(オフビート)が際立っている。七五調というと「荒城の月」のように単調な譜割りを思い浮かべることが多いが、楽曲としてのリズムは結構複雑なのである。

川柳的にはそこまで音楽性にこだわる必要はないので、少し前に戻ろう。ほぼ等速の音読を前提として、日本の短詩文芸の韻律の基本は二拍子だと言われるが、実際には裏表のノリが古来あるので四拍子として捉えた方が理解しやすい。そこでウィキで取り上げられていた都々逸をもう一度見てみる。

△こいに こがれて なくせみ よりも△
△なかぬ ほたるが みをこが す△△△

(△が休符)

後半の〈七・五〉部分が川柳の〈七・五〉と共通の韻律と考えてもいいだろう。つまり川柳の潜在的なリズムを四拍子であらわすと

△△せみ よりも△ △なかぬ ほたるが みをこが す△△△

 または
せみより も△△△ △なかぬ ほたるが みをこが す△△△
(△が休符)

となる。上五の字余りには比較的猶予があることからも、おそらくこれが基本のリズムと思ってよかろう。実際に披講の上手い選者の読み方を聞くと、だいたい中七と下五の間を詰めて読んでいる。(余談だが、大会などで聞かれる選者の披講の多くは、五/七/五という風に区切って読まれる。この方が圧倒的にリズムが悪いと思う。)

さて、この前提で最初の「リズムが悪い」を考えると辻褄が合ってくる。中七の前にある「タメ」が無くなるか、下五への繋がりがズレるからだ。しかし、ビートルズ以後8ビートに慣れ親しみ、R&Bやジャズ、レゲエ、ラップなどなど、さらに複雑なリズムやビートが溢れているのが現在である。単に音読において、この微妙なタメが気にならないことに何の不思議もない。ましてや選者による披講のリズムがそれぞれにバラバラなのだから、この細やかなリズムの差異を簡単に納得させられるはずがない。

せみより も△△△ なかない ほたるが みをこが す△△△

上・中・下すべての最初の音がオモテ(一拍目)に乗る分、中八の方が自然なリズムとも取れる。(ラップ調に読んでみればこの文節の方がハマる。)早口言葉の「なまむぎ なまごめ なまたまご」のテンポの良さにも通じる。

言葉にしても「なかぬ」より「なかない」の方が現在の口語を思えば川柳に適しているようにも思える。都々逸のように伴奏のある定型ならともかく、川柳においてなぜ今も「中七」である必要性があるのか。これを明確に説明出来ない限り、引き続き「リズムが悪い」という句評を安易に繰り返すべきではないと思うのだが、いかがだろうか。

断っておくが、私は中八容認派ではない。ただそれ以上に中八否定派ではない。五七五という確固とした定型があってこそ、いざというときのクズシも有効になると思っている。川柳と俳句とでどれくらい音読の頻度に差があるのかわからないが、句会や大会などで音読される場面が多い川柳が文字作品として表される場合、その文字が頭の中(もしくは体内・心中)でどのように音声変換されるのかが作者側の念頭にあるのとないのとでは、句作に影響がでるのは明らかである。だからこそ「中七はリズムの背骨」とか「七五調は日本短詩文芸の伝統」とかいう、もっともらしいが具体的な中味を伴わない主張を鵜呑みにすることが出来ないのだ。日常の言葉を扱う川柳が、日々凄いスピードで変化している日本語の中にあって、さらには三十代より若い世代が川柳界にほとんど入ってきていないという現実を考えるにあたっても、言葉のリズム感の変化への対応ということが少なからず俎上に上がってくるべきものだと思っている。

私見として「なぜ中七か」の持論も朧げにはあるのだが、本稿は問題提議としてここで筆を措くことにする。

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