2013-08-11

【俳句総合誌を読む】『俳句』2013年8月号「希望の星たち 新世代作品特集」を読む〔後篇〕 村田篠 上田信治

【俳句総合誌を読む】
『俳句』2013年8月号
「希望の星たち 新世代作品特集」を読む 〔後篇〕


うえだ:上田信治 × 篠:村田篠 



うえだ: スタンバっています。『俳句』8月号「希望の星たち—新世代作品特集」を読む、後半もよろしくお願いします。

篠: よろしくお願い致します。榮猿丸さんの「車と女」からですね。


「車と女」 榮猿丸 (澤)

うえだ: はい。では、例によって新作7句から、句を挙げていきましょう。
今回は、篠さんから、お願いします。

篠: 
ヘッドライトに春雨の道鱗めく
水槽にうかぶくらげとをんなのかほ

風景ではなくできごとを書いている7句、という印象を受けました。

うえだ: 
ヘッドライトに春雨の道鱗めく
赫赫とセダン朽ちたり麦の秋

だいたい、かぶりました。
風景ではなく、と言いますと

篠: これはまったく私個人の感じ方の問題ですが、アプローチの仕方が小説的、というか。7句を通底して流れているドラマのようなものを感じます。

うえだ:  たしかに、7句ぜんぶ「場面」として描かれている。 なにか映画の予告編の1カットのような。

篠: そうです、そうです。信治さんはどう感じられましたか?

うえだ: ぼくは、猿丸さん変わらないなーと思ってw

現代的風景、恋愛、詰め込み気味の口調の生む切迫感。そういった記号が矢印で差す青春性、と、その疲労感。

濃厚にムードをただよわせつつ、作者は、お話しよりも「景」を書くことを目的にしている気がします。対象はあくまで視覚的だし、心情についてこれこれと特定されることは少なく、抑制されています。

ヘッドライトの句、どう読まれました?

篠: ヘッドライトに春雨の道鱗めく

「鱗めく」に作者の気分が鮮明に出ていますね。不安感とか、信治さんの書かれている「疲労感」。「春雨」が効いていると思います。あたたかく、雨のどこかで生物が蠢くイメージと、鱗のぬめぬめした感触が通底しているような。

水槽にうかぶくらげとをんなのかほ

「水槽」や「くらげ」と同化してしまう「をんなのかほ」が面白いなあ、と。
ふわふわゆらゆらして、現実が定まらない感じ。ここにもちょっとした不安感が感じられます。

「車と女」というタイトルにも何らかの意図があるような気がしてしまいます。

うえだ: タイトルは、車と女で7句、ということかもですけどw

篠: ……そうかもしれませんね。それだととてもオシャレ。

なにか意図がある、ドラマがある、と感じるように差し出されている、というか、私がまんまとそれに乗せられてしまったのかなw

うえだ: クレイジーケンバンドとか、なんか、気分はあるんでしょうけど。

ヘッドライトに春雨の道鱗めく〉どれくらいの雨で、どういう路面の条件だったら「鱗」めいて見えるだろう、としばらく考えたんですが、道路全体が黒い「魚肌」めいたものに感じられたというようなことかな、と。

路面が生きものめいて感じられるというのは、自分と、周囲の無機的な環境の区別がはっきりしなくなっているというかんじですよね。そこはかとなく危機的な心理状態。

季語の「春雨」ということに重きを置くと、その無機的な環境がなまめかしく、結果、だいぶ気持ち悪く自分にせまってくるかんじ。性的な息苦しさすら感じるところが、いいですね。

水槽にうかぶくらげとをんなのかほ〉女の顔も、水槽の人工照明に照らされて、青白い。顔がふわふわと非現実的に見えるのでしょう。顔が、人格的なものからはがれて、浮かび上がったような。

ただこれ、女性の顔じゃなきゃ駄目ですかね?w

篠: をとこのかほ、だとまた違う質感になりますね。性的な感触がひっこんで、ほのかにバイオレンス風味の世界になる。いずれにしても独特ですが。

うえだ: >バイオレンス風味 あはは、ほんとに浮かべちゃいけない。ひょっとして「冷たい熱帯魚」?

篠: それもそうですし、水槽をとおしてみる男の貌って、なにかの前兆のような気がしてしまいます。映画の見過ぎかもしれませんw

猿丸さんの句は、そういう読み方「も」できてしまう、ということでしょうか。

うえだ: ですね。「景」は「ひとのかほ」でも成立するんでしょうけど、猿丸さんの気分としては「をんな」なのかも。さっき、お話より「景」、といいましたけど、たぶん「景」よりも「気分」が一句のターゲットというか、着地点になっていて、読み手は、それを共有したり、勝手にいろいろ感じたりする。

赫赫とセダン朽ちたり麦の秋

かつて自動車というものが、青春や男性性、あるいはロマンチシズムの強烈なシンボルであった時代があった気がします。

そういう時代の車型ですから、セダンって。そのぶん、麦の秋もふくめて、ちょっとはめすぎかもしれないですけど、「赫赫と」に込められたナルシズム、いいんじゃないでしょうか。

篠: 〈赫赫と〉の句は好きな句です。でも、あまりにも決まりすぎているかな、と思ってとらなかったんです。


「雲の峰」 大谷弘至(古志)

篠: 堂々としていて、しすぎていて、つけいる隙のない感じがしました。うーん、綻びというと変ですが、作者ご自身を感じさせてもらえるところがあまりないというか。

うえだ: さすがに古さを感じます。それは、たぶん書き手自身が志向してもいるもので、俳句が古くてなにが悪いのか、と言われるかも知れません。

ゆく舟にすいとのりくる螢かな〉螢が、人が人を慕わしく思うことの象徴であることを外さずに書く、ということなんでしょうけど。この一句、これまで書かれてきた螢の句に、つけくわえる価値があるんだろうか。

大谷さんは俳諧を研究されてるそうですから、近代以降とは違う価値観で書かれてるのかもしれないけど、歳時記に載ってる〈暗闇の筧をつたふ螢かな 許六〉とか〈移す手に光る螢や指のまた 太祇〉とかのが、ずっと清新じゃないですか。王朝和歌があって、俳諧があって、近代があって、今、こういう螢をそのまま書くことに、どういう可能性があるんだろう。

あきらかに櫓で漕いでますしね、この舟。古典落語みたいに、江戸の空気を楽しんでくれということなのかもしれない。

篠: 〈緋目高やこぼれんばかり鉢に水〉の句にも少しそういう、江戸の空気を感じます。

うえだ: 視点が動いてないですか、螢の句。岸から舟中に。

篠: 「進みゆく舟」ということで、舟の舳先からの視点を書かれているのかと。

うえだ: なるほど、前を見ていた客がふと振り返ると・・・というかんじか。そこが得意という句なのかもしれない。

空梅雨のいさきの旬の来りけり〉空梅雨の、いさきの旬の、と重ねたところは面白いんですけど「来たりけり」で、すこしずっこけてはないか。比べたら悪いですけど、岸本さんの〈風吹いて海鼠に旬の到りけり〉〈アスファルトかがやき鯖の旬が来る〉があるわけで……。

降参です。自分には、この人のやりたいことが、よく分からない。いただくとしたら、

緋目高やこぼれんばかり鉢に水

最終的にたっぷりの水に焦点がいく呼吸が気持ちいい。目高が外にでてしまいそうな鉢のふちすれすれを泳ぐさまなど、想像されて涼しげです。 とはいえ「目高 水盤」で画像検索すれば、書けてしまう句という気がしないでもない。

篠: 〈緋目高や〉の句の景はたっぷりと涼しげで好きですが、「こぼれんばかり」の言い回しが定型すぎて、ちょっともったいない感じです。


「香水」 日下野由季(海)
 
篠:  句材は身辺のことなのですが、それを少しドラマティックに詠まれるんですね。

水薄く薄く使ひてみづすまし

この句はミズスマシの生態を、少し視点をずらして詠まれていて面白いかな、と思いました。

うえだ:  身辺の日常を言葉で飾るかんじですよね。こういう行き方もあるのかなあ。

水中花音なき音にひらきけり〉〈香水のもう身に沿はぬ香なりけり〉常識的というか、ふつうに頭で考えたことが書かれている。〈水薄く薄く使ひて水すまし〉水面近くにいることを、「薄く使う」としゃれて言ってるわけですが…。

こういうのって、ただの「言い方」なんじゃないか。

常識的な機知、常識的なレトリックで書かれた句って、要するに、いわゆる月並なんじゃないか、という気がする。

篠:  〈水中花音なき音にひらきけり〉「音なき音」ってなんでしょうか。音はしないけれど音はあるんだ、ということでしょうか。

うえだ: 「ふわ……」とひらいたっていうことを、きれいに言われたんだと思います。

篠: あ、そういうことなのか。 そうだとしたら常識的ですね。

木星の軌道に夏の夜の電話〉天体と何かを取り合わせるのは、意外にあちこちで見かけます。

うえだ: 代表句にあげられてる3句は、さすがにずっといいんですけど。

以前、雑誌のインタビューで結社を継承される予定だと話されてました。そういう環境にあるために、無意識に、ご自身の句を、分かりやすく、指導しやすい、お手本的なものにしてしまっているようなことがないか。と、これはよけいな心配ですけど。


「今夏」 鶴岡加苗(狩・夕凪)

うえだ:  町内の夜景を眺め缶ビール

町「内」の夜「景」と、概念語が二つ並ぶのはたどたどしいですけど、欲のないところがいいかなと。

篠: 信号の赤が真赤に夏の雨

「夏の雨」のあたたかさや激しさを、赤色の僅かな差で読まれています。

うえだ:  「夏の雨」どういう景を想像されました?

篠: 最初に信号の赤があって、突然の夏の雨のなかでそれが真っ赤になってゆくようす。

でも、それだと「夕立」になるのか。「夏の雨」をふつうに降り続く雨だとすると、この景はちょっと曖昧になってしまいますね。

うえだ: いつもの信号と比べて、だと、その比較は理屈っぽい。信号待ちのとき雨が降ってきた、とか、窓から見える信号の赤が雨の中たちまち赤く、というふうに読めばいいのか。

二句とも簡単な措辞で簡単なことを書いていて、とつとつとしているけど、ナイーブさの良さもある。

「常識的」という悪口をだいぶ言いましたけど、ふつうの人のふつうの感じ方を書いて、なにも悪いことはないということを感じました。〈蟻の列光の列となりゆけり〉〈狂ひなく夜の来てをりぬ水中花〉は、これもまた「言い方」俳句かな、という気がしますけど。


「虹」 山口優夢(銀化)

篠: 
覚め際の光の量を夏と思ふ
誰も見ぬ噴水は大きなひかり

うえだ: 
誰も見ぬ噴水は大きなひかり
風鈴に月照つてゐる少し鳴る

篠:  いつもながら「光」の捉え方がユニークで面白いです。

うえだ: 光、たしかに。得意技かも。

誰も見ぬ噴水は大きなひかり〉中七下五は、そんなに珍しくはないかもしれないけど、いいフレーズ。

「誰も見ぬ」で、加点をねらったとしたら、ちょっと空振ってる感もあり。でも、ぎりぎりいやみじゃないのは、破調のとつとつとした口ぶりの手柄かと思います。

篠:  覚め際の光の量を夏と思ふ

光の「量」というざっくりした言い方が、逆に効いているかな、と。

誰も見ぬ噴水は大きなひかり

おおきなひかりのかたまり。噴水は人に見られてはじめて「噴水」になる、と。

うえだ: >噴水は人に見られてはじめて「噴水」になる、と。

なるほど。ちゃんと理路があるのか。いや、でも「誰も見ない噴水」というロマンがあって、もいっこ「噴水は大きな光」という、放心系うっとり系の認識がある、と、とりたい気も。

褒めてほしくてシャワーは黒い穴ばかり〉これは、狙ったなーっていう感じの句ですね。理路がある。シャワーのように賞賛をあびたいけど、来ないな、賞賛が、みたいな。雪我狂流さんの〈水の出ぬシャワーの穴を見てゐたり〉を思い出しました。

風鈴に月照つてゐる少し鳴る

現代語的であることで俳句になっている好例。風鈴に月、というのは、詠み尽くされた内容という気もしますが「そうなんですか、でもぼくも見たんです」と、言い出すことの値打ちというものがある気がする。

篠:風鈴に〉も光の句ですが、「月光」と言わないで「月照つてゐる」と言ったのがいいですね。透明で美しい、というのではなく、少しぽってりとした明かりのような月。「少し鳴る」のもリアルな感覚。

褒めてほしくて〉は、ちょっと、いかにもでとれないです。狂流さんの句の方がはるかに屈折がありますね。そのまんまの景だけどそのまんまじゃない心情、というか。

うえだ: 〈虹になるまで原子炉のこはれけり〉これを10年後ではなく今出すっていうことは、論議になることを狙った句なんでしょうね。

スルーするべきかな。でも、タイトル句だしな。

篠: 明るすぎて、逆に虚無的な響きがありますね。それも狙いなのかな。でも、ほかの句と同じ土俵では、この句について何を言っても軽くなってしまううらみがあります。

うえだ: 近代的な芸術の自律的価値を認めるなら、こういう作品の存在は許されるべきなんですけど、俳句は、ひじょうに短くて文脈に依存する部分が多い。この句の存在を認めるための「場」を、作品と読者が目で合図するようにして、設けなくてはならない。というか、いちいち生まれるんですよね。

それを、自分はしたくない。

この句を評価できるような土俵には、会田誠の女性を描いた作品とかも載ってそうで嫌なんです。きれいに出来てて挑発的な内容、こんなのどう? こんなの出しちゃう俺どう? って言われてるみたいで。

篠:  >この句の存在を認めるための「場」を、作品と読者が目で合図するようにして、設けなくてはならない。

ああ、確かに。

「挑発」という意図が優夢さんにあるないに関わらず、この句がそこにあるだけで、そんなふうに読まれてしまう可能性は大きいですからね。その土俵には乗りたくないな、私も。

うえだ: でも、これ、まじめな話、関悦史さんが書いたとしたら、いい句になってしまうんですよね。個人的な煩悶の果てっていう、文脈があるから。

俳句の困ったところです

篠: 関さんの持っておられる文脈も含めて、関さんの作家性ですよね。

関さんのような題材で俳句をつくられて、特別な「場」ではなく、同じ土俵ですべての句を読ませる、というのはすごいことだと思います。

うえだ: 作者名の問題、微妙なところですけどね。扱いにくい。


「踏切近く」 中本真人(山茶花)

篠: 鎌倉あたりの景ですね。古き良き風景や題材で詠もうとされているのでしょうが、中本さんの独特の目を感じる部分が、あまり感じられないというか。

1句目の〈不発弾処理の無人の五月闇〉は、古き良き景色の中にも不穏なものはまぎれこんでいる、ということでしょうか。

サングラス取らず大仏撮り始む〉の句。見たことを順を追ってそのまま詠まれたのかもしれませんが、私は「取らず」にちょっと理を感じてしまいました。

うえだ:  わりと降参に近いです。〈江ノ電の踏切近く水を打つ〉これ、なまじ江ノ電だけに、カメラコンテストとかにありそうな作った絵になっちゃってる。もっと、ただごとになっててくれれば、というのは、個人的趣味かもですけど。

湧き出して一円歪む清水かな〉水の中に清水が湧き出す「瞬間」を見たということなんでしょうか?? すでにある円を、次の湧き出しが歪めたみたいな言い方になってるけど、ほんとは、その円は歪み続けているわけで、もひとつ、ぴたっときてない気が。

サングラス取らず大仏撮り始む

モチーフすこし面白い。でも「取らず」はたしかに、あれだし、「始む」でいいのか、と疑問はある。

景に、狙いが少なく薄味であること、ゆるいこと、ふつうであることを、モラルとする書き手だと思うんですけど、そういうものが、どこでどうなって、作品になるかっていうのも、ほんと、びみょうなところで、ひじょうに見失いやすいというか。

虚子の影響下に書く作家の人全員が、持たされている課題なんじゃないかと思います。 

篠: >そういうものが、どこでどうなって、作品になるか

それは自分で句をつくるときにもしょっちゅう感じることです。
句会でほかの人に伝わらないと、あ、これは自分の思い込みだったんだな、と。

大仏の句が3句もあって、「そんなに大仏が詠みたいんだ!」と読み手が感じられる熱気みたいなものが感じられれば、納得したかもしれないです。

うえだ: w あるいは、この淡々とした書き方によって実現されるものに対する執着とか(形容矛盾にきこえそうですけど)。


蜜豆大臣」 田島健一 (炎環・豆の木)

うえだ:  〈紅梅やネバダにも似た花がある〉以下の代表句3句が意外。あ、これなんだ、と思いました。

篠: 「蜜豆大臣」。田島さんの変な(いい意味で)造語には、いつも感心します。「白鳥定食」とか。

うえだ: 〈蜜豆大臣無邪気名刺でつくる塔〉「大臣」が「無邪気」って、答え言っちゃってるという気がしなくもない。

篠: 枇杷美貌美男子がふわふわになる

ほかの6句に比較して、この句だけよく分からないw
そこがいいかな、と。「び音」の繰り返しから「ふわふわになる」という展開の意外さ。

釣堀のまぼろし釣り人たち蛹〉の「まぼろし」も結論っぽいですね。

うえだ: そうですね。〈五月雨の髪ゆれほどく未必の故意〉の「未必の故意」も、言っちゃってる感じしませんか。

篠:  はい。そのまんまですよね。

うえだ: ぜんぶ言っちゃって、それでも、まだそれ以上のものが、そこには生まれているはず、ということなのかな。

作者自身の小文の「「俳句」という容れ物と、それを満たしている俳句との間に生まれる不思議な空間が俳句を俳句以上のものにする」という言葉を見て、ちょっと思いました。

篠: うーん。そうなのでしょうか。そうだとしたら、私にはそこまで読む力がまだないです。

うえだ: いや、ていうか、じつは、今回ちょっと不調かなと。

終焉を白鷺は咲き誇るかな

田島さんとしては、攻めてないふつうの句かもしれないですけど、

田んぼにいる、きれいだけど地味な白鷺が、なにかの終わりを咲き誇るというのは、けなげで美しいと思いました。

「を」が、かっこいい。白鷺の終りとも読めるし、もっとなにか大きなものの終わりを、祈りに替えるようにして懸命に咲いているとも読める。

篠: 〈終焉を〉の句は、私も好きです。

「咲き誇」りつつも白鷺はどこか儚い。白鷺の風情をうまく詠まれていると思います。

今回は不調だったのかもしれませんが、田島さんの句には注目しています。
なので、また新作を読みたいですね。


全体を振り返って

篠: 俳句に限らずそうだと思いますが、その作家なりのなにかを感じさせてくれる句を読みたい、といつも思います。

それは、書き方が新しいとか、古いとかではなく、なんだろう。知識とか機知とかいったものだけではない、書き方そのものについての工夫、なのかな。

持って生まれた感覚や歩んでこられた人生ももちろん要素としてありますが、読者としては、いつも言葉を探している、考えられている、という俳句を読みたいですね。

ですので、こういう特集を信治さんと読めたことはうれしいですし、私自身も考えるきっかけをいただき、刺激を受けました。

うえだ: 他に読みたかった人がたくさんいるな、というのが、第一印象。野口る理さん、福田若之さん、小野あらたさん、阪西敦子さん、相子智恵さん、南十二国さん、越智友亮さん、ほんと他にもたくさん。

篠: 読みたかった作家でいうと、野口る理さんの作風に俳句の新しさ、楽しさを感じているので、ぜひ新作を読んでみたかったです。あと、『新撰21』の巻頭を飾った越智友亮さん。とても好きでした。 社会人になっておられるのでしょうか。現在の新作を読みたいですね。それから、南十二国さん、阪西敦子さん、松本てふこさん。ほかにもたくさんおられます。

新しい書き手の特集を、これからもどんどん組んでほしいですね。

作品には関係ないのですが、「希望の星たち」というコーナータイトルにはちょっとびっくりしました。手垢の付きすぎたフレーズで。天気さんも後記に書いていましたが。

うえだ: 「俳句」のコアターゲットから見た「希望」なのかも、ということですね。

それはともかく、読者として、書き手が新人だから、若い人だから、新しいものを期待するというのではないのですが。

よりあとから来た人が、なにを俳句だと思ってるのかに、興味があって。それって、俳句の今をよく示す指標になると思うんです。(自分自身、まあまあさいきん来たわけですが)

今回の特集から見える、俳句の「今」の風景は、常識的というのがキーワード(あまりよくない意味で)。

その中でも、こつこつ個人的な試行を行って成果をのこされている書き手はいて(今回の14人以外にももちろん)、必ずしももっとも高い評価を受けるわけではないみたいだけれど、これからも、そういう人に機会が与えられることを楽しみにしたい。

去年の1月号から続いている「俳句」の、新鋭俳人20句競詠は、いつもいちばん先に読むページで、今年末までで2年で24人が登場することになるわけですけど、弾切れとか言わないで、来年以降も継続して欲しいなあ。

『新撰21』『超新撰21』が出た2009年2019年には、 福田若之さん、小野あらたさんなんかは、まだいなかった感じなんだから。まだ、いるでしょう、どこかに。だいぶ無責任なかんじですけど。

はい。こんなかんじで。おつかれさまでした!!
ありがとうございます。

篠: こちらこそ、ありがとうございました。
楽しかったです。

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